2023年1月19日木曜日

座礁鯨 江戸時代 そして絵いろいろ


古文書研究家の磯田道史氏の著者2冊と江戸時代関連の本。いろいろと興味深い。ここ数日大阪湾に鯨がやってきたことが報道されているが、結局、クジラは死んで浜に流れ着き、それを外海まで引き戻す作業が行われているらしい。磯田道史氏の著書「日本史を暴く」では、江戸時代に死んだ鯨が浜に打ち上げられた記録が紹介されている。
このように座礁した鯨は古来時折あり、「寄り鯨」と呼んで浜近くの人たちは神の恵みとして大変喜んだらしい。紹介されている話でも神のお告げで浜に出ていた少女のところへ死んだ鯨が流れてきて、当時、寄り鯨は数百両(数千万円)で売れていたので、貧しい少女の家にとっては、まさしく天の恵みだったことは想像に難くない。
北国のイヌイットの人たちも座礁した鯨は神の恵みとして喜んでいたことは何かの本で読んだ記憶がある。

光悦、ピサロ
安井曾太郎の絵を
代わる代わる見ていると
いろいろと興味深い
時代や国が違っていても
共通したものがある不思議














2023年1月18日水曜日

匠家必用記上巻 十一 問答 読み下し

匠家必用記上巻
十一章 問答の読み下しを紹介
これで上巻は終わりです
間違いなどありましたらご教示願います 

十一 問答
或人問て曰、番匠の祖神相違せる事始て知ぬ。尤其理にあたれり。自今、已前改尊敬すべし。然共、聖徳太子逆臣守屋を殺して仏法を弘給ふ。大功正に人のしる所也。俗説ながらも太子を神明のことくに思ひ、番匠の祖神と祭り来りたれば、今さらすてがたし。神代より定る番匠の神と合せ祭るべきやいかん。又馬子、宿根(祢)も堂塔数多(あまた)建立し、仏法帰依の人なりと聞けるに、仏氏馬子がことを沙汰せざるは、いぶかしき事也。

答曰、聖徳太子を伝作あらば太子の徳行の根元を考えて、別にこれを敬ふべし。聖徳太子、仏

法を弘給ふ功ありども、番匠の祖神と合祭べき謂(いわれ)なし。少も混雑する事なかれ。又守屋、馬子がことは日本記を考へれば、守屋は忠臣にして悪にくみせず、馬子、宿根は崇峻(すしゅん)天皇を弑(しい)し奉る。悪逆不道人なり。貝原氏、倭事始にも馬子は君を弑するの乱臣也。然ば則仏経の世道に益なくして、人倫に害あること又知ぬべし。世俗妄に仏氏が

誣枉(ふおう)を信じ、遂に守屋をさして逆臣とす。守屋は是君に非すを格(ただす)の忠臣にして、正を崇の端士なる事をしらず、彼聖徳太子の馬子におけるがごとき。与共に天を戴かざるの讎(あだ)也。崇峻天皇は聖徳太子のためにはおぢ(叔父)にして且君なれば、なんぞ其仇をむくい給はざるや。然ども仏を好むの故を以て、始終馬子と志を同じ事を共にし遂に君父の仇に党し、罪なき守屋を殺して其私をなせりと

いへり。八幡本記にも彼聖徳太子そがの(蘇我)馬子等、我国の神の御教に戻り、人道を断ぬる仏法をして、此国に弘められしに、二人共に二代ならずして、其子孫尽く(ことごとく)絶ほろびにき。是を以て見る時は総て事を作すには、かならずよく其はじめを慎べきなりと云々。是等の弁論諸書にくはしければ、今くだくだしくぶるにおよばず。第一に日本記を

見て證とし次に神社考、俗談正誤、益俗説弁、和事始、等の書を考合せて聖徳太子のこと、或は守屋、馬子がことを知べし。惣て人のはなしには何事によらず、我好む所に応じ善を挙げて悪をこらし、非を談(かたり)て是をかくすこと有。已(すで)に忠信の守屋を逆臣とし、馬子が悪逆不動なる事を不言(言わざる)仏者が癖見なることをしるべし。此故に虚実分明ならざるは正史実録を明ならざるの謂なり。其外、聖徳太子のことを記せる書ありといへども、又かくのごとく、正史実録を会得せずして妄にこれを談ることなかれ。

2023年1月17日火曜日

匠家必用記上巻九章と十章の 読み下しを紹介

匠家必用記上巻 九章と十章の
読み下しを紹介
間違いなどありましたらご教示願います

九 彫物の弁
俗間に堂塔の彫物をする番匠は器用也とて褒美し、彫物不鍛錬の番匠ははじ也とて賤むもの有。今按ずるに、堂塔の木鼻、渦雲、唐草等は皆番匠の職也。此外、生物、草木の類は彫刻匠の職也。彫刻匠も木匠の内の其一也といへども、今番匠、彫匠、板木匠とわかれたれば、器用たり共番匠は彫べき事にあらず。伝へ聞、上古は彫物はなきことにて、中比寺院建立の節は彫物をやとひてならしめ、番匠は番匠の職を勤といへり。必竟、彫物は番匠の表とすべき事に非ず。譬ば、屋根をふき、かべをぬるにも同じき也。


堂塔建立の節は必其人を頼て彫しむべし。番匠の極上彫より彫匠の下手が遥に勝べし。俗に餅は餅屋のが吉といふがごとく、番匠の彫物多くはいきほい(勢い)あしく、笑ひを後代にのこさん彫ざるが大に益有べし。彫物をするともほまれにならず、又ほらず共恥にもならず、是番匠の職に非るが故によく心得有べし。


十 番匠の祖神祭るの事
日本上古より伝へて番匠の祖神祭事は其職たる人のつね也。然共、祖神ましますことは知りながら其神名を取失ひ、仏者に混雑せられ、其祭においては仏経を誦、魚類を禁じ精進なることは、神事に非して仏法らしき紛物也。然ば屋造り、棟上等にも魚類を禁べきに、左はなくて反て酒肴等の統義を用ゆるは何事ぞや。是日本上古の遺風たへざるもの也。故に魚類を禁ずるは必仏者の取為としるべし。祖神の神の字を貴むからは、是非神事ならでは叶はぬ事也。早く本道へ立かへりて、日本の神事(に)改、日々に尊信し奉るべし。

番匠の祖神祭るの次第。
手置帆負命(たおきほおいのみこと)
彦狭知命(ひこさちのみこと)
如此(このごとく)板にでも紙にて此神号を書し、神棚に祭べし。神棚の上に鈴をかけて神並びの度毎に引きならすべし。
祭日五節句、又毎月朔日(ついたち)、十五日、二十八日。


借物
鏡餅 二 正月には勿論つねには見合たるべし。
神酒(みき) 弐瓶
魚類 弐尾 何にても時の見合たるべし。
御供(ごくう) 弐膳 長〇を用ゆて白木の木具を用ひてよし。ぬり物はあしし。
松榊を立べし
毎朝怠ず神拝して神恩を謝すべし。

禁忌(いみもの)
樒(しきみ) 俗に是を花枝といふ。大毒木なる故神事に不用(用いず)故に、あしきみと訓ず。「あ」を略して今しきみといふ。毒木也事は日本の書はもちろん唐土草綱目毒草の部の内にも見へたり。
線香 抹香 シキミにてセイスルゆえ右に同じ。或は常此香を匂へば自然とウツ上の病を生じ、あるいは人のキ(気)ヲヘラスといふ。よってソクセツシヤウカウバン(常香盤)の日(火)にてたばこをすわざるは此謂也。故に神社に香を焼ざるを見てスイリヤウすべし。元来香を用ゆる事はイコク(異国)よりはじまる也。天竺などは別して熱コク(国)也。ゆへに人のミチくさし、此ゆへにキ(貴)人に対メンするときはかなら(必)ずエカウロをマヘにおいてそのミのアシイをシリゾクル也。大ちとろん(大智度論)にもテンジクのクニはネツス以てミのクサキゆへを香以てミを 〇、ミニヌルといへり。
仏経 並に念仏唱ふるべからず。
数珠 並に仏具類
尼僧及汚穢、不浄の人神前に近付べからず。

2023年1月15日日曜日

くずし字解読アプリ 刀の鍔


ウェブニュースで紹介されていた刀の鐔tsubaの文字について

とある崩し字解読アプリを使ったら一休宗純の
「わけのほる 麓の道はおほけれど おなじ高ねの 月をこそみれ」
という和歌が解読できた、とありました。このソフトは私も使ったことがありますが、平仮名あたりはほぼ正確ですが、漢字はあまり信用できず、今は使っていません。今回の記事の文字も肝心のところが曖昧で、一休宗純の歌にたどり着くよすがとはなりますが、なかなか難しいところだと感じます。

「わけのほる」はソフトでは「とる」(実際は「分登る」と思われます)、
「おなし」は「おいし」、
「高ね」は「雲い」と読まれています(実際は「雲間」と思われます)。

私としては
このように読みたいところです
「分登る 麓の道は おほけれど おなじ雲間の 月をこそみれ」

2023年1月14日土曜日

匠家必用記上巻七章、八章


七章と八章の
読み下しを紹介
間違いなどありましたら
ご教示願います
七章 尉(じょう)の家書弁
俗間に番匠の宮社の棟札を書するに、何兵衛尉、何左馬尉と書者あり。今按ずるに、官職備考曰、佐馬尉は大従六位に相当り、置正七位上に相当る。左兵衛、右兵衛尉は従六位下に相当たらず、正七位上相当る、とあれば、無官無位の人みだりに尉の字を用いる事あらず。

八章 藤原姓氏の弁
俗説に唐土(もろこし)漢の明帝の時、天竺の番匠、漢とに来り。始て番匠の術を弘む。此時、明帝甚仏法を信じ給ふ故に、番匠互に命じて一宇を建立し給ふ。号て数改寺と云、後に白馬寺と改、山号を藤原寺と云故に、日本の番匠の皆藤原姓也と云。又一説に、日本の職人は何職によらず、藤原の姓氏を名乗といへり。今按ずるに、藤原山の号を以て藤原の姓氏とする事附会の妄説信ずるにたらず。本朝藤原の姓と申は、唐土より渡りたる姓氏にあらず。

人皇三十九代天智天皇八歳大職冠鎌足(かまたり)公に、帝より藤原姓氏を賜。鎌足公は神代天児屋根命二十二代の神孫、中臣御食事大連(なかとみ みけじ おおむらじ)の御子也。きうせ(旧性)は中臣を改て藤原の姓を賜り、内大臣に任じ給ふ、是藤原の始也。故に此御子孫末葉に限りて藤原の姓氏也。他の人は是を名乗事にあらず。然を其姓ならざる番匠、己が姓を捨て、みだりに藤原を名乗は他の姓を盗むの罪也。若(もし)

此事をしらずにして藤原を名ののば早く改むべし。諸職人も又同じ。譬ば清和天皇の御孫、六孫王経基公血脈ならば源姓也。桓武天皇の皇胤高望(たかもち)王の血脈を平の姓と云。天太玉命の神孫也ば忌部の姓也敏達天皇の御孫、井出左大臣諸兄公の血脈を橘の姓といふ。平城天皇の御孫、備中守基主の血脈を大江の姓とす。孝元天皇の皇子、太彦命の血脈は

安信(安倍)の姓也。天智天皇の後胤、夏野公の末葉を清原の姓と云。皆それぞれの血脈を以て、姓名をわかる事也。いかに末世になりたればとて、他姓を以て家姓名とする謂あらんや。愚なりとも是等は弁へ(わきまえ)しるべきこと也。又世俗、源、平、藤、橘の四姓の外には、姓氏なきやうに覚る人有。是此事をしらざるの謂也。万多親王の姓氏録に千百八十二姓出たり。又此後も姓氏有。

今又四姓の外、その一、二をいう時は菅原、春原、有原、永原、和気、小槻(おつき)、文屋、石川、加茂、平群(へぐり)、道守(ちもり)、物部、小野、高階(たかしな)などのごとし。然れば、大職冠鎌足公の末葉ならざる人、みだりに藤原を名乗べからず。他の人は其実名の上にそれぞれの姓氏を冠して唱ふべし。棟札を出するにも、右に随べき也。又中比より姓名取失ひたる人は、何れも書べからず。故に藤原山の号を以て藤原の姓氏とし、諸職人の藤原を名乗といふ俗説のあやまりを考えしるべきなり。