匠家必用記 中巻 七、八、九、十章
の読み下しを紹介
間違いなどありましたら
ご教示願います
七 天照太神笠縫の里に御鎮座の事
瓊瓊杵尊日向の高千穂の峯に天降りましますとき天照太神三種の神宝を授け給ひて、此国の主としたまふ。よって皇孫尊へ勅(みことのり)して曰(のたまはく)、此宝鏡をを見まさんこと我を見るがごとくすべし。床を同(おなじふ)し殿(みあらか)を供にして斎(いはひ)の鏡となすべしとの神勅によりて、御同殿に斎ひ祭り給ふ。人皇神代神武天皇も厚く神を尊敬し給ひ、神代の教のごとく三種の神宝を御同殿に斎ひましける。然に人皇十代崇神天皇にいたりて、甚神威をおそれ給ひ、供に住て安からずとおぼし召て、更に石凝姥(いしこりどめ)神の裔(はつこ)、又
天目一箇命の裔二氏に命(みことのり)して、剱鏡を造らしめ御身の護とし給ひて、御殿に祭り給ふ。又手置帆負命、彦狭知命の裔に命して、大和国笠縫の里に宮殿を造らしめ、神代より伝ふる剣鏡を遷し鎮め奉り給ふ。天照太神宮是なり。則、皇女豊鋤入姫を斎宮(さいくう)とし給ふ。然ども此御宮地神の御こころに叶ざりしにや。是より国々所々に太宮地を竟(もとめ)給ひ、大和国三輪の御諸の宮にて御姪の大倭姫命(やまとひめのみこと)に斎宮をゆづり給へり。是より又、所々に遷幸まします。凡此御宇より垂仁天皇の御宇を国々所々に宮を建立し給ふこと其数かぞへがたし。皆手置帆負命、彦狭知命の裔に命じて造らしめ給ふとかや。此笠縫の里に御鎮座ありし年より今宝暦四年迄千八百四十五年になる也。
八 天照太神五十鈴の川上に御鎮座の事
大倭姫命、国々所々に宮地を求め給へども、とかく太神(おおんかみ)の御心に叶ざりしにや。其後伊勢国に至り給ふ。ときに天照太神、大倭姫命に晦(おしへ)て曰(のたまわく)、是神風、伊勢国常世の浪重(なみしき)浪帰(なみよす)可怜(うまし)国也。此国に居(お)らんと欲(おぼす)と。故(かるがゆへ)に太神の教に随て御宮地を定め給ふ。此故に大倭姫命諸氏に命じ給ふは五十鈴の川上の艸木(くさき)を伐はらひ、大石小石を平にし、地の高卑をならして宮地と定むべし。又手置帆負命、彦狭知命の裔に命じて、先(まづ)斎柱(いんばしら)を立て、後御宮を造らしめ、天照太神を遷し鎮め奉る。今の内宮是なり。此とき所々に枌社、末社を建立し給ふ。其数多し。是又手置帆負命、彦狭知命の裔に命して造らしむ。此御鎮座の年より宝暦四年迄千七百五十六年なり。
九 豊受太神山田原に御鎮座の事
天照太神伊勢国宇治の五十鈴の川上に鎮座し給ひて後四百八十一年を歴(へ)て、雄畧(略)天皇の御宇(ぎょう)二十一年冬十月、天照太神大倭姫(やまとひめ)命に誨覚(おしえさと)し給ふは、丹波国魚井(まない)の原に座(まします)す、豊受太神を我座国(わがますくに)に遷し奉れと有し故。此旨天皇へ奏聞ありければ、則大若子の命に勅(みことのり)ありて、丹波国へ往(ゆき)て遷幸の義を申上らる。又手置帆負命、彦狭知命二神の裔に命じ、山の材を伐とり宮を造らせ給ひ、明年七月七日大佐々命に勅有て丹波国より豊受太神を迎え奉り、伊勢山田の平尾に行宮(かりみや)を建て、爰に三ケ月宿し奉る。其後九月十六日に今の御宮地に遷し奉る。外宮豊受太神宮是なり。此外摂社、末社も建立あり。是皆手置帆負命、彦狭知命の裔の制作也。又此後は格式定まりて、両宮共に二十年に一度づつ御宮を造りかへ給ふ。此御鎮座の年より宝暦四年に至り千二百七十七年也「内外宮の事は委諸書に有之故ここに畧す」。
十 番匠の神御神徳の大意
番匠の祖神手置帆負命、彦狭知命の御事右に書するは神書の大概也。其神功の委こと諸書に便てあきらむべし。上にもいふごとく、日本開闢の始は人の家といふこともなく、岩穴を造りて居住せり。其とき二神、人の難儀を憐給ひ、心を合て番匠の基本を起し給ふ。まことに二神の神徳普く天下に繁栄し、今諸人家に居することは此二神の御恵也。番匠は此職を受継て、宮殿、屋宅、諸々の器材を造ること、皆二神の神教なれば、此職をつとめて今日妻子を養事、偏(ひとへ)に是二神の大恩ならずや。番匠たる人は別て敬奉るべし。此外桶工、桧器匠(ひものや)、鋸匠(こびき)、竹細工人等も此二神を敬ふべし。
匠家必用記中之巻終