2023年2月11日土曜日

平安時代高杯 方形盆の加工

 
製作中の19世紀ギター
特注ラコート・タイプ
弦長630mm
ブリッジを接着


こちらは
平安時代の高坏
Takatsuki
方形盆の加工


浅丸ノミで
彫り込む


際鉋 kiwaganna 気味の
豆平鉋で平らに均す 


コーナー部分は
豆隅削鉋を使う


2023年2月10日金曜日

匠家必用記 下巻 一章 二章 読み下し

 宝暦四年(1774年)に書かれた
匠家必用記 下巻から
一章と二章の読み下しを紹介
間違いなどありましたら
ご教示願います


匠家必用記下之巻
立石定準記
一 地鎮(ちしずめ)の事
宮社を造らんと願ば先其地をたいらにして、不浄をはらひ水縄を引、地取を極め其まん中にはしらを立る。是を斎柱(いんはしら)と云。俗家にては是を大極はしらといふ号く「俗せつにキモンハシラと名て東北のはしらはあやまり也。キモンのことは日本のことにあらず、本朝りげんといふ書にでたり。かんがえ知るべし」。則此はしらを家の大こくはしらに用ゆるべし。づ(図)のごとくくいを四本うち、しりくめ縄を引廻し、榊(さかき)を以て飾べし。又弓二張「白木綿の弓つるを用ゆべし」。矢二筋用ゆ「一筋はかぶらや、一筋はかりまた」。天神地祇を祭り、又番匠の神の神号を板に書て柱にかけ、前に鏡餅、角樽、鯣(するめ)、昆布等の祝儀物を献上すべし。此時尼僧及すべての不浄を遠(とおざ)く可(べく)也。番匠のたる人、礼服を着して神を拝すべし。是則、神代に伊弉諾尊、伊弉冉尊国中に柱を立給ふよりこと起り、神代に専(もっぱら)此こと神事ありて、


今上古の遺風たえざるはあり難こと也。伊勢太神宮にも宮建立の前、此祭り有。是を心の御はしら祭りといへり。「心御柱記」曰、心御はしらは一気(いつき)の起、天地の形陰陽の源、万物の体也云々。此はしらを御はしらとも天御柱とも忌はしらともいへり。前にもいふごとく此みはしらのことあ神道の根元至てふかき意有故に宮社並に屋宅を造るに、先(まず)忌はしら大極柱を立、不浄をはらひ地を鎮る(しずむる)は其縁(ことのもと)なり。是をしらずして何心なくはしらを立るは、番匠の本意にあらず。よく考へ知るべきこと也。或人曰、家の真中のはしらを大黒柱といふは大極の字を誤り、夫(それ)家は一天地のごとく、此故に其真中の柱を大極と名(なづけ)たり。心御はしらに比すと。云々

二 釿始(ておのはじめ)之神事
釿始は宮造り、家造りの始、万歳をたもつの基なれば、別て(べっして)めでたき神事也。番匠たる人、礼服を着し職神を祭り、神酒、鏡餅、肴等の祝儀物をささげ祭りて、釿始すべし。一書(ある書)に釿始に唱ふる文有。仏説のしん言をもちゆといへり。是等のことは天竺にては左も有べし。日本にては、大気にいむ事也。天照太神の御託宣にも、仏法の息を屏(しりぞけ)、祭神祇を崇(あがむ)とあるを、今更思合すべし。そうじて、釿始の前日、当日万事不浄を遠く(とおざく)べし。宮造りはいふにをよばず、家造りとても慎(つつしみ)を第一とし、喧嘩、口論等相互にかたく禁(いましむ)べきことなり。


2023年2月9日木曜日

化石いろいろ そして富士山を背負ったカモノハシ

 
世界を変えた100の化石
という本を入手
何よりも造形の見事さに目を奪われる


シカツノサンゴ
新生代(6600年前~現代)の
化石で現在では
絶滅寸前とされている


古生代
3億年ほど前の
樹皮の化石


古生代
4億年ほど前の
クサリサンゴ


古生代
4億年ほど前のウミユリと巻き貝
この巻き貝はウミユリに
寄生していたらしい


こちらは手許にある化石
なぜこのようになっているのか
は分からない


こちらも手許にある
アンモナイトの化石
アンモナイトはオンブバッタのように
オスよりもメスの方が
大きいことが分かっているが
これはもしかして
オスとメスだろうか・・?



端材で作ったオブジェ
富士山を背負った
カモノハシ

2023年2月7日火曜日

木工旋盤治具を自作する

 

19世紀ギターの
ブリッジ・ピンや
ストラップ・ピンを
作るための木工旋盤治具を
作っていく
まずこの作業
材は紫檀

端材

真鍮板を糸鋸で切る

このように嵌め込む


木ネジで固定

中央底は真鍮板

先端はこのような状態

出来上がり


ブリッジ・ピンを作るための
黒檀材を固定したところ

匠家必用記 中巻 七、八、九、十章 読み下し

 匠家必用記 中巻 七、八、九、十章
の読み下しを紹介
間違いなどありましたら
ご教示願います


七 天照太神笠縫の里に御鎮座の事
瓊瓊杵尊日向の高千穂の峯に天降りましますとき天照太神三種の神宝を授け給ひて、此国の主としたまふ。よって皇孫尊へ勅(みことのり)して曰(のたまはく)、此宝鏡をを見まさんこと我を見るがごとくすべし。床を同(おなじふ)し殿(みあらか)を供にして斎(いはひ)の鏡となすべしとの神勅によりて、御同殿に斎ひ祭り給ふ。人皇神代神武天皇も厚く神を尊敬し給ひ、神代の教のごとく三種の神宝を御同殿に斎ひましける。然に人皇十代崇神天皇にいたりて、甚神威をおそれ給ひ、供に住て安からずとおぼし召て、更に石凝姥(いしこりどめ)神の裔(はつこ)、又

天目一箇命の裔二氏に命(みことのり)して、剱鏡を造らしめ御身の護とし給ひて、御殿に祭り給ふ。又手置帆負命、彦狭知命の裔に命して、大和国笠縫の里に宮殿を造らしめ、神代より伝ふる剣鏡を遷し鎮め奉り給ふ。天照太神宮是なり。則、皇女豊鋤入姫を斎宮(さいくう)とし給ふ。然ども此御宮地神の御こころに叶ざりしにや。是より国々所々に太宮地を竟(もとめ)給ひ、大和国三輪の御諸の宮にて御姪の大倭姫命(やまとひめのみこと)に斎宮をゆづり給へり。是より又、所々に遷幸まします。凡此御宇より垂仁天皇の御宇を国々所々に宮を建立し給ふこと其数かぞへがたし。皆手置帆負命、彦狭知命の裔に命じて造らしめ給ふとかや。此笠縫の里に御鎮座ありし年より今宝暦四年迄千八百四十五年になる也。

八 天照太神五十鈴の川上に御鎮座の事
大倭姫命、国々所々に宮地を求め給へども、とかく太神(おおんかみ)の御心に叶ざりしにや。其後伊勢国に至り給ふ。ときに天照太神、大倭姫命に晦(おしへ)て曰(のたまわく)、是神風、伊勢国常世の浪重(なみしき)浪帰(なみよす)可怜(うまし)国也。此国に居(お)らんと欲(おぼす)と。故(かるがゆへ)に太神の教に随て御宮地を定め給ふ。此故に大倭姫命諸氏に命じ給ふは五十鈴の川上の艸木(くさき)を伐はらひ、大石小石を平にし、地の高卑をならして宮地と定むべし。又手置帆負命、彦狭知命の裔に命じて、先(まづ)斎柱(いんばしら)を立て、後御宮を造らしめ、天照太神を遷し鎮め奉る。今の内宮是なり。此とき所々に枌社、末社を建立し給ふ。其数多し。是又手置帆負命、彦狭知命の裔に命して造らしむ。此御鎮座の年より宝暦四年迄千七百五十六年なり。

九 豊受太神山田原に御鎮座の事
天照太神伊勢国宇治の五十鈴の川上に鎮座し給ひて後四百八十一年を歴(へ)て、雄畧(略)天皇の御宇(ぎょう)二十一年冬十月、天照太神大倭姫(やまとひめ)命に誨覚(おしえさと)し給ふは、丹波国魚井(まない)の原に座(まします)す、豊受太神を我座国(わがますくに)に遷し奉れと有し故。此旨天皇へ奏聞ありければ、則大若子の命に勅(みことのり)ありて、丹波国へ往(ゆき)て遷幸の義を申上らる。又手置帆負命、彦狭知命二神の裔に命じ、山の材を伐とり宮を造らせ給ひ、明年七月七日大佐々命に勅有て丹波国より豊受太神を迎え奉り、伊勢山田の平尾に行宮(かりみや)を建て、爰に三ケ月宿し奉る。其後九月十六日に今の御宮地に遷し奉る。外宮豊受太神宮是なり。此外摂社、末社も建立あり。是皆手置帆負命、彦狭知命の裔の制作也。又此後は格式定まりて、両宮共に二十年に一度づつ御宮を造りかへ給ふ。此御鎮座の年より宝暦四年に至り千二百七十七年也「内外宮の事は委諸書に有之故ここに畧す」。

十 番匠の神御神徳の大意
番匠の祖神手置帆負命、彦狭知命の御事右に書するは神書の大概也。其神功の委こと諸書に便てあきらむべし。上にもいふごとく、日本開闢の始は人の家といふこともなく、岩穴を造りて居住せり。其とき二神、人の難儀を憐給ひ、心を合て番匠の基本を起し給ふ。まことに二神の神徳普く天下に繁栄し、今諸人家に居することは此二神の御恵也。番匠は此職を受継て、宮殿、屋宅、諸々の器材を造ること、皆二神の神教なれば、此職をつとめて今日妻子を養事、偏(ひとへ)に是二神の大恩ならずや。番匠たる人は別て敬奉るべし。此外桶工、桧器匠(ひものや)、鋸匠(こびき)、竹細工人等も此二神を敬ふべし。
匠家必用記中之巻終