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2013年1月14日月曜日

古い会津鉋、重時銘寸六を研ぐ


古い会津鉋、重時銘寸六を研いだ
動画をUPしました

今回二度目の研ぎになりますが
試し削りで刃先がかなり
摩耗していたので
最初は荒めの伊予砥を使いました
粒度約800

刃角度を26度ほどに修正しているので
研いだのは刃先から5mmほどです
鋼(おそらく東郷ハガネレイ
号)が強靭なので
砥石の反応が鈍いのが分かって
頂けると思います
この伊予砥では途中目起こしをし
砥泥を出して研ぎました

次に丹波亀岡・岡花産青砥
(粒度約1200)を使いました
この砥石も通常の刃物には
良く反応するのですが
今回の研ぎでは鈍い反応でした
動画でお分りのように
以下どの砥石にも同様の反応です


仕上げ研ぎは丹波亀岡産の
3種類を研ぎ比べてみました
最初に使ったのは丸尾山産巣板・黒蓮華


そして一本松産砥前


そして先日紹介した大内産仕上砥


最終仕上げはこれも先日紹介した
京都梅ヶ畑・中世中山産仕上砥


2011年1月13日木曜日

砥石の不思議 その3


今回、新たに手に入れた天然仕上砥石(本巣板)
産地は京都梅ケ畑地区大突産(地図参照)のもの
購入した「さざれ銘砥」によると
大突から菖蒲にかけて掘られていた
裏大突という間府だということです 
参照





使ってみてビックリ
ほどよい硬さで反応良く
かなり荒い研ぎ応えなのですが
仕上がりは緻密で
鏡面近くまで仕上がっているのです
ここまで荒い研ぎ応えの仕上砥には
初めて出会いました

同じ間府の内曇砥(天上巣板)も
何枚か持っていますが、硬さはほぼ同じですが
研ぎ心地は緻密で、仕上がりは曇ります
同じ産地の砥石とはとうてい思えません
砥石というものはほんとうに不思議です

2014年2月20日木曜日

磨工室瑣談から浄教寺砥について その2

磨工室瑣談四十一の八十三 浄教寺砥に就て
現代語風に読み下しておきます
その1はこちら

浄教寺じょうけんじ赤砥(参照) 

浄教寺白砥(参照


磨工室瑣談 四十一
八十三、浄教寺砥に就いて
陸軍一等薬剤官 藤永賢仁

浄教寺砥については、さきに磨工室瑣談第二に於いて松木看護長の報告があり、今また鯖江衛戊病院からの報告に接し、さらに詳細に知ることができたので、許可を得てこれを掲げておきます(北川薬剤正)。

一、沿革及び歴史
詳細な歴史記述は存在しないが古老の言い伝えによれば、今から400年前、戦国時代に朝倉義景が足羽郡一乗谷村に城を構え、隆盛を極めていた時代に浄教寺砥はすでに発見・採掘されていたということである。発見当初は地元民の雑用として使われていたに過ぎないが、50年ほどの後、ある刀剣師によりこの砥石の良さが認められ、しだいに諸藩の刀剣界に用いられるようになった。
そうして150年前、大阪の蓬莱屋という砥石屋が盛んにこの砥石の採掘を始め、全国的に販路を開拓していたが、途中、大山崩れの災害に遭遇したため多数の死傷者を出し採掘を中止せざるを得なかった。その後はほとんど廃坑の状態だったが、明治29年頃、浄教寺区民が集まり協議した結果、砥石山を区の共有財産として、昔のように盛大に採掘することとし、入札の上、年貢一円五十銭で20年間責任採掘することを約束した。その間、明治37~38年から40年に至るまで採掘作業は最も全盛を極め、年産1140トン~1520トンを突破し、全国各地の煙草専売局の大量の需要にも応じたということである。その後、大正15年にはさらに年貢350円の契約入札で採掘権を行使し現在に至っている。
現在の採掘者は、
赤砥:吉田俊雄 福井県足羽郡一乗谷浄教寺区 従業員4名
白砥:伊与仁作 福井県足羽郡一乗谷浄教寺区 従業員2名

伊与仁作氏が経営している砥石山は個人所有で、4年前に赤砥坑付近から白砥山を発見し採掘を始めたが、これはどちらも足羽郡方面の山腹にあり、これと反対側の今立郡方面の山腹は寺中村の尾崎仁作吉という者が現在採掘している。

二、砥石山の位置
浄教寺砥を産出する地区は福井県足羽郡一乗谷浄教寺区より約2km隔たった山腹にあり、足羽、今立、大野の三郡の郡境に位置し、海抜465.3mの高地にある。足羽郡側からは赤砥坑と白砥坑があり、今立郡側には薄赤砥坑があり、両側から採掘されている。
浄教寺区から砥石山に至る途中には有名な一乗ヶ瀧(梵字瀧とも呼ばれている)があり、真夏には福井方面からの避暑客が多い。福井市から浄教寺に向かうときは美濃街道または下東郷、東郷村を経て安波賀で美濃街道と合流し、さらに城戸の内、西新町、東新町を経て浄教寺に至る。その間、道路(県道)は比較的良好で、荷馬車や自動車の通行は容易である。浄教寺区からは道が狭くなるが一乗ヶ瀧近辺までは小型自動車の通行は可能である。さらに近道を求めた場合、福井市から足羽川堤防に沿って河原脇まで遡り東郷街道に合流し、安波賀から浄教寺に行くのが便利である。距離は16kmほどで道路は良好である。安波賀から途中の城戸の内付近には朝倉義景の墓所と城跡があり、桃山時代の建造物がまだ現存している。

三、産出の状況
吉田俊雄氏が採掘している砥石山は70年ほど前から採掘され次第に掘り進み、今では18mほどの坑道内で火薬や金矢を使って100kg~150kg大の塊にし、40mほどの軌道で石小屋付近まで運ばれる。砥石山は縦の方向におよそ30cm~90cmほどの厚さの砥石層が無数に並列していて、各層の間には小さな亀裂が入っている。これに沿って金矢を打ち込むと容易に離脱することができるが、横の層に比べて作業は比較的困難である。また、赤砥層の所々に円形で質が強硬な白砥の塊が間在していることがある。砥石の質は上層よりも下層のものが良好で、現在も次第に下層に掘り進んでいて、坑内に水が溜まっている状態である。
尚、現在採掘している左側には往年盛んに採掘された坑があり、下層は20年~30年前までは約20m四方の穴を形成していて水が深く溜まっていたので、これを汲み出して採掘していた。後には隧道(トンネル)式の排水溝を設けそこから排水し、さらに深く採掘を継続したが、充分な成績を収めることができなかったのでこれを埋め立て、現在の箇所を採掘するようになったという。
赤砥坑から20m~30m隔てた谷間に白砥を産出する坑がある。この白砥も赤砥と同様縦層になって並列している。質は柔軟質と強硬質の両方あるが、後者は砥石として不適当なのでほとんど採掘していない。柔軟な白砥の内部に所々胡桃(クルミ)大の硬い部分(星と言っている)が入っているのが欠点で、これを除去しながら加工している。
赤砥坑と白砥坑の中間山腹からは淡黒褐色の緻密な潤(うるみ)砥(泡砥とも言う)が産出する。
以前はかなり採掘し、越前(福井県)の片山、能登(石川県)の輪島、加賀(石川県)の山中などの漆器山地で小割砥として刃物研ぎに使われていたが、現在では需要が減少し採掘していない。
浄教寺砥は福井県の物産としては極めて少量であるが、その販路は全国的に普及し、年間380トンほど採掘されていて、東京、名古屋、大阪方面に移出している。
昨今、次第に需要量が減少し、全盛期の三分の一ほどの年産量となっている。しかしながら、砥石山は埋蔵量は豊富なので、需要を開拓していっても供給が不足になったりはしない。
ここ数年間の年産額の調査報告は表を参照されたし(参照)。

四、採掘方法
採掘作業は毎年4月~5月の雪解けを待って開始され、12月下旬まで行われる。作業は常雇いの人夫約30名、臨時雇いの人夫約20名、合計50名ほどで行われたそうだが、昨今は14名ほどで行われるに過ぎない状態である。
浄教寺砥は各層の裂目に沿って金矢という道具、あるいは火薬を使って離脱させ、鶴嘴(ツルハシ)、斧などで不要の部分を除き、軌道を使って石小屋の中に運搬して加工し(表参照)、一梱包60kgほどの荷物にして需要先に直送している。あるいは自宅に担ぎ込んで貯蔵し、冬籠もりの時期に加工して出荷している。価格は白砥は赤砥の約半額である。
採掘や加工に使用する道具類は簡単なものが用いられ、まだ動力等の利用はなされていないということである。主に使用する道具は長・短、厚・薄各種の金矢、十字鍬(クワ)、斧、鶴嘴(ツルハシ)、鉈(ナタ)、砥鋸等でその形状は図のようなものである。
砥石小屋内にはこれらの道具を焼き入れ修理するために鞴(フイゴ)の設備がある。砥脈の離脱には火薬を使用することもあるが、金矢に比べ砥石に亀裂が入ることが多いという。

五、浄教寺砥の種類と性状
この砥石は品質によりおよそ次の四種類に区分されている。
1、潤(うるみ)砥: 黒褐色で最も緻密な質で品質も良い。
2、赤砥     : 灰赤褐色で質は緻密。美しい紋理(模様)がある。
3、薄赤砥    : 淡灰赤色で質はやや粗く、黒褐色の紋理がある。 
4、白砥     : 灰白色で質は柔らかい。

白砥も2種類あるがその一種は質が硬くほとんど砥石として使えない。潤砥は品質が良いが産出量が少なく、一般に赤砥を上等品とし、灰赤褐色でやや緻密な質な中に灰褐色または黒褐色の波紋状の紋理と斑点があるものを真正の浄教寺砥と呼んでいる。
この砥石の名称に関しては、書籍によっては浄慶寺あるいは浄見寺と記載されているが、原産地の地名から考えると浄教寺砥と記載するのが適当と思われる。

六、浄教寺砥の用途
刀剣類の中研ぎ用として用いられ、一般には鎌、鉈、包丁、剃刀、鋏類の打刃物の刃付け用として打刃物工場、大工、家庭などで愛用されている。
尚、白砥は赤砥に比べ品質が劣るので、小さなものは鎌、大きなものは大工の鉋などの刃付用として北陸地方に販路がある程度である。

七、販路
北陸及び関東、関西地方の金物問屋、並びに砥石屋に直送し、全国一般に広く普及している。   


2023年1月17日火曜日

匠家必用記上巻九章と十章の 読み下しを紹介

匠家必用記上巻 九章と十章の
読み下しを紹介
間違いなどありましたらご教示願います

九 彫物の弁
俗間に堂塔の彫物をする番匠は器用也とて褒美し、彫物不鍛錬の番匠ははじ也とて賤むもの有。今按ずるに、堂塔の木鼻、渦雲、唐草等は皆番匠の職也。此外、生物、草木の類は彫刻匠の職也。彫刻匠も木匠の内の其一也といへども、今番匠、彫匠、板木匠とわかれたれば、器用たり共番匠は彫べき事にあらず。伝へ聞、上古は彫物はなきことにて、中比寺院建立の節は彫物をやとひてならしめ、番匠は番匠の職を勤といへり。必竟、彫物は番匠の表とすべき事に非ず。譬ば、屋根をふき、かべをぬるにも同じき也。


堂塔建立の節は必其人を頼て彫しむべし。番匠の極上彫より彫匠の下手が遥に勝べし。俗に餅は餅屋のが吉といふがごとく、番匠の彫物多くはいきほい(勢い)あしく、笑ひを後代にのこさん彫ざるが大に益有べし。彫物をするともほまれにならず、又ほらず共恥にもならず、是番匠の職に非るが故によく心得有べし。


十 番匠の祖神祭るの事
日本上古より伝へて番匠の祖神祭事は其職たる人のつね也。然共、祖神ましますことは知りながら其神名を取失ひ、仏者に混雑せられ、其祭においては仏経を誦、魚類を禁じ精進なることは、神事に非して仏法らしき紛物也。然ば屋造り、棟上等にも魚類を禁べきに、左はなくて反て酒肴等の統義を用ゆるは何事ぞや。是日本上古の遺風たへざるもの也。故に魚類を禁ずるは必仏者の取為としるべし。祖神の神の字を貴むからは、是非神事ならでは叶はぬ事也。早く本道へ立かへりて、日本の神事(に)改、日々に尊信し奉るべし。

番匠の祖神祭るの次第。
手置帆負命(たおきほおいのみこと)
彦狭知命(ひこさちのみこと)
如此(このごとく)板にでも紙にて此神号を書し、神棚に祭べし。神棚の上に鈴をかけて神並びの度毎に引きならすべし。
祭日五節句、又毎月朔日(ついたち)、十五日、二十八日。


借物
鏡餅 二 正月には勿論つねには見合たるべし。
神酒(みき) 弐瓶
魚類 弐尾 何にても時の見合たるべし。
御供(ごくう) 弐膳 長〇を用ゆて白木の木具を用ひてよし。ぬり物はあしし。
松榊を立べし
毎朝怠ず神拝して神恩を謝すべし。

禁忌(いみもの)
樒(しきみ) 俗に是を花枝といふ。大毒木なる故神事に不用(用いず)故に、あしきみと訓ず。「あ」を略して今しきみといふ。毒木也事は日本の書はもちろん唐土草綱目毒草の部の内にも見へたり。
線香 抹香 シキミにてセイスルゆえ右に同じ。或は常此香を匂へば自然とウツ上の病を生じ、あるいは人のキ(気)ヲヘラスといふ。よってソクセツシヤウカウバン(常香盤)の日(火)にてたばこをすわざるは此謂也。故に神社に香を焼ざるを見てスイリヤウすべし。元来香を用ゆる事はイコク(異国)よりはじまる也。天竺などは別して熱コク(国)也。ゆへに人のミチくさし、此ゆへにキ(貴)人に対メンするときはかなら(必)ずエカウロをマヘにおいてそのミのアシイをシリゾクル也。大ちとろん(大智度論)にもテンジクのクニはネツス以てミのクサキゆへを香以てミを 〇、ミニヌルといへり。
仏経 並に念仏唱ふるべからず。
数珠 並に仏具類
尼僧及汚穢、不浄の人神前に近付べからず。

2012年2月8日水曜日

セーリスの手紙


1月29日に紹介した
長崎の出島から江戸城に
拝謁に来たオランダ商人のことも記されています
そのことについてもう
少し知りたいと思い
新異国叢書を取り寄せ
今それにザッと目を
通しているのですが
第六巻の「セーリス日本渡航記」にイギリスの東インド会社から
派遣された貿易船隊の
司令官であるジョン・セーリスが
1613年に徳川家康に出した
請願書の写真が
掲載されているのです

これがそうですが
本書の説明では
通詞(つうじ・通訳)によって
書かれたものを
柔らかい鷲ペンで影写したものであろうとされています

以下、現代字に翻訳されたもの

   覚
一 
日本へ今度初而渡海仕候、万商売方之儀御じゆんろに被仰付可被下候事

両御所様へ御用之御物の儀は、御目録を以被召上可被下候事

於日本いきりすふねの荷物、おしかいらうせき不致様に被成可被下候事

いきりすふね大風にあい、日本の内何れのみなとへ着申候共無相違様に被仰付可被下候、何方ニ而も望のみなとニ家をたて売買可仕候間、御屋敷可被下候事

日本ニ而かい申度物御座候は、其商人相対次第かい取り申候様に被仰付可被下候事

一 
日本人といきりすの者けんくわ仕出候は、理非を御せんさく被成理非次第、有体に被仰付可被下候事 

一 
いきりすへ帰国仕度候は、何時ニ而も帰国仕候様に被成可被下候事但帰国仕候時は、立申候家をはうり候て帰申候様に、被成可被下候事

       かぴたん
       しゆわん
       さいりす
       せに良んゆ



一応、読み下しておきます。
確信がもてない箇所は?としておきます。
間違いなどありましたらご指摘願います。

一 
日本へこの度初めて渡海仕(つかまつ)り候(そうろう)、(よろず)商売方の儀(こと)御順路(?)に仰せ付けられ下さるべく候こと。

一 
両御所様へ御用の御物の儀は、御目録をもって召し上げられ下さるべく候こと。

一 
日本に於いてイギリス船の荷物、押し買い狼藉(?)致さずようなされ下さるべく候こと。

一 
イギリス船 大風に遭い、日本の内 何れ(いずれ)の港へ着き申し候とも、相違なきように仰せ付けられ下さるべく候、何方(いずかた)にても望みの港に家を建て、売り買い仕りべく候間、御屋敷下さるべく候こと。 

一 
日本にて買い申したき物御座候は、その商人相対し次第、買い取り申し候ように仰せ付け下さるべく候こと。

日本人とイギリスの者、喧嘩仕り候は(そうらわば)、理非を御詮索なられ、理非次第、有体(ありてい)に仰せ付けられ下さるべく候こと。

一 
イギリスへ帰国仕りたく候は、何時にても帰国仕り候ようになられ下さるべく候こと、但し帰国仕り候ときは、立(建て)申し候家を放り候て帰り申し候ようになられ下さるべく候こと。

2016年6月25日土曜日

高口定雄氏の興味深い説

以前、こちらのブログで紹介した助川砥についての投稿にコメントを頂いた
高口定雄氏(茨城県日立市在住)の砥石に関する独自の説を紹介しておきたいと思います。
たいへん興味深い内容で、古代史に関して多くの示唆が含まれています。

茨城県産大泉砥、栃木県産深沢砥と、地名の関係について情報提供させて頂きます。
2件の砥石産地は八溝山系でごく近傍ですので、同一地質と考えられます。この地にも、黒部関係地名「クロカタ」が付近にあります。カタカナ地名でして、漢字で書くと「黒方」だと推定します。
1.地名「クロカタ」 栃木県芳賀郡茂木町小貫小字クロカタ
< くろべ → くろぼ、くろぼう→ 黒方 → くろかた >の変化をしたと推定
「船木」地名と近接した事例が長崎県にあります。
・長崎県五島市岐宿町岐宿小字黒方(読み くろかた)
・長崎県五島市岐宿町岐宿小字船木ノ元
・長崎県五島市岐宿町岐宿小字舟木ノ山
なお、岐宿町から西へ約3kmの岐宿町白石は、遣唐使船が、中国に向けて出発する前に
停泊した「川原浦」の比定地とされています。

2.砥石産地と「クロカタ」の距離
(1)深沢砥: 栃木県芳賀郡茂木町深沢上深沢 約3km
(2)大泉砥: 茨城県桜川市大泉          約9km

3.茨城県桜川市岩瀬小字北着にある長辺寺山古墳(5世紀後半、前方後円墳)との距離 
(1)深沢砥: 栃木県芳賀郡茂木町深沢上深沢 約7km
(2)大泉砥: 茨城県桜川市大泉          約5km

4.なお、長辺寺山古墳の前を流れる桜川は、最終的に茨城県土浦市の霞ヶ浦へ流れ込みますが、桜川河口部の茨城県土浦市烏山には、古墳時代前期の玉作工房である烏山遺跡があります。

5.深沢砥の栃木県芳賀郡茂木町深沢から南へ約3kmは、茨城県桜川市平沢ですが、小字「トットリ」があります。常識的には漢字で書くと「鳥取」となりますが、氏族伝承で鳥取と記載したのであって、元々の地名発祥時の意味は、「砥取」に従事する場所だったろうと推定します。氏族伝承や系図では良く見せたいので、脚色することがままあるようです。 
以上のことからも、古代人は意図を持って、金属鉱物資源を求めて移動していたのではないでしょうか。

私は京都地名研究会の所属し、弥生時代・古墳時代にさかのぼる地名を抽出することを趣味にしています。そういった観点から、京都府亀岡市と茨城県日立市で砥石、水晶、玉作に関わる地名の共通点があるようなので、少し述べてみたいと思います。
砥石は玉作にも使用され、亀岡市では弥生時代中期には砥石を採掘していたと推定されますが、一方、茨城県日立市は古墳時代前期からの採掘、流通と考古学者が公表しています。京都府亀岡市の砥取家さんが砥石採掘されている丸尾山から直線距離約10kmに、亀岡市畑野町千ケ畑小字クルビ谷があります。また畑野町広野では水晶を産出するとの記録もあります。クルビはクルベ、クロベと同じで漢字で書くと黒部とも書きます。
茨城県日立市の砥石山の約1km直近に、小字「黒目作」(くろめさく)がありますが、「くろべ」の「ベ」が「メ」に変化したものです。「余部」が「余目」に変化しているのと同じ理屈です。作は坂、谷、沢などの意味があります。
日立市の砥石山がある山地を多賀山地といいますが、水晶、滑石、蛇紋岩や金、銅を産出しました。実は「黒目作」と全く同じ地名が、日本でもう1ケ所あります。新潟県佐渡市畑野黒目作です。この近くに弥生時代中期の下畑玉作遺跡があり、玉作工房が発見されてますが、近くで瑪瑙(メノウ)原石も取れます。
茨城県域は、古墳時代初頭に一斉に五領式土器(埼玉県東松山市五領遺跡)に切り替わりますが、埼玉県東松山市の五領遺跡から約4kmは東松山町大黒部(おおくろべ)で、やはり「黒部」地名があります。大黒部から約1kmに古墳時代前期の反町遺跡があり、玉作工房が発見され、主に水晶工房でした。その水晶加工技法から、京都府京丹後市弥栄町の奈具岡遺跡から工人が移住してきたと考古学者は推定、報告しています。奈具岡遺跡から約1kmは京丹後市弥栄町黒部で、やはり「黒部」地名があります。

奈良県磯城郡田原本町黒部から約2km西には、古墳時代前期の十六面遺跡があり、玉作工房が発見されています。また、奈良県桜井市倉橋クロメから約5kmの上之庄遺跡は古墳時代前期の遺跡ですが、これも玉作工房が発見されています。
玉作で有名なのは出雲ですが、島根県松江市玉湯町玉造から約5kmに黒目山(東忌部町)があります。以上のように、資源を求めて古代人は移動し、地名も残していたようです。砥石も重要な資源だったと思います。京都市右京区梅ケ畑より弥生時代中期の銅鐸が出土していますが、梅ケ畑は仕上げ砥産地です。この砥石の資源により富を蓄え、銅鐸を入手したのではないかと勝手な想像をしています。歴史を語る重要なキーワードのひとつとして、「砥石」は重要ではないでしょうか。

三種の神器の素材である銅、鉄、玉(威信財原料、交易材料)の採掘・加工技術を持ち、強力な水運技術をもった人達が、古代ヤマト王権の重要な構成メンバーであったろうと推測します。
特に、縄文時代から蓄積した技術であるヒスイなどの玉が、中国・朝鮮半島との重要な交易材料だったのではないでしょうか。
因みに、「黒部」「黒目」地名が、北海道~鹿児島県まで、存在するので、海運力の優れた集団に関わる地名だったのではないかと考えます。具体的的には、中国の「呉」地域からの渡来人に関わると推測してます。実証はできませんが・・

1)北海道檜山郡江差町 小黒部(おぐろっぺ) 約8kmに笹山鉱山(銅 金)
2)鹿児島県大島郡徳之島町 魚津黒目塔(くろめとう)約2kmに下久志鉱山(銅)
また、沖縄県には「久米島」もあり、長崎県五島市には、黒部地名の変形<くろべ⇒くろぼ、くろぼう>である「黒方」地名もあり、朝鮮半島、中国本土との交易ルートを確保している様子が、地名からうかがえます。
前回記載した十六面遺跡には同じ地内に「穴虫(あなむし)」という小字地名が記録されています。同じ「穴虫」地名が、奈良県香芝市の二上山にあり、金剛砂産地です。このことから、金剛砂を玉作にも使用できたことが地名から推測されます。ただし、遺跡から金剛砂が出土しないと実証にはなりませんが・・。長野県域も古代玉作遺跡が発掘されています。そして、地名「穴虫」、「黒部」地名もあり、銅鐸も出土している先進的な地域です。弥生時代後期には「箱清水式土器」という土器が盛んに使用されましたが、土器の表面をベンガラ(酸化第2鉄)で赤く採色しており、鉄に強い集団がいたことが推測されます。地名「穴虫」がその背景を象徴していると感じます。
「穴虫」の語源は、あなぶき(穴吹)⇒穴伏⇒あなぶし⇒あなむし⇒穴虫と想定しており、朝鮮半島の「あな、あや、かや」地域からの鉄技術に強い渡来人に起因する地名ではないかと考えています。

福岡県については、糟屋郡宇美町を訪問したことがあります。宇美町は古代不彌国の候補地の一つということで興味があり、光正寺古墳、宇美八幡宮、宇美町郷土博物館なども見てきました。
真の目的は、宇美町に、黒部と同じである小字「黒坊」があることを知り、宇美町役場で、地図上の位置を確認特定する事でした。黒坊は黒部と同じです。特定はできたのですが、何故そこに黒部関連地名があるのか、なぜそこに光正寺古墳があるのかいまだによく理解できていません。光正寺古墳から直線距離で約6kmに、篠栗鉱山(銅山 糟屋郡篠栗町)があるのですが、山越えになりますし、篠栗鉱山に行くとすれば、多々良川から直接行った方が早い気がします。現在の仮説は、福岡県小郡市津古にも、黒坊地名があるので、「大宰府経由で有明海へ抜ける交通の要衝地を確保するため」と考えています。ところで、糟屋郡には、あと一カ所 銅山があります。
糟屋郡久山町久原に複数の鉱山があります。多々良川支流の久原川上流です。その多々良川が博多湾に流れでる河口部左岸に、筥崎八幡宮があり、近くの九州大学敷地から銅鐸か出土しています。九州大学北側の箱崎には、小字「コロメキ」があり、この小字地名は、「くろぶき(黒吹)」からの変化地名です。「くろ(黒)」を「ころ」と読む事例があり、「くろぶき→ころぶき→ころべき→ころめき」という変化を想定しています。「黒吹」という地名が、兵庫県朝来市生野町の生野銀山から約1kmの竹原野にあります。金、銀、銅の鉱物つながり地名ですね。黒吹、穴吹は、同時代の地名だと考えています。

兵庫県篠山市に関しては黒部関連地名調査で、訪問したことがあります。
・篠山市打坂 黒辺
・篠山市高倉 クルビ谷
しかし、金属鉱物資源との関係がよくわかりませんでした。疑問のままです。
丹波市春日町には、山中鉱山(所在地不明)という銅山があった記録があるので、あるいは篠山市側にも鉱脈が続いていた可能性があるのですが、記録が無いためデータとしては採用できません。ただ、弥生時代後期の「内場山墳丘墓」が、前記2件地名の中間部 篠山市下板井 にあるので、もう少し研究する必要を感じています。
篠山市が武庫川にもつながっていることは、福知山市と同様に、日本海と瀬戸内海を、弥生時代などの古代から往来できる地理的好条件があったと言えます。
丹波市山南町の阿草の南方に山中鉱山という銅鉱山があることがわかりました。味間と近接しています。篠山市火打岩付近には、珪石を産出する畑鉱山があったとのことなので、篠山市で水晶が取れた可能性も考えられます。近くの篠山市畑宮に、佐佐婆(ささば)神社があり、延喜式式内社で、江戸時代には「楽々庭明神」とも称していたとのことです。篠山市の「ささ」との関係を含めて、砂鉄を意味していそうで、気になります。
山陰地方の鳥取県西伯郡伯耆町宮原に、「楽々福神社」があり、「楽々(ささ)」とは砂鉄のことをいうそうです。この神社から約7KMの日野郡江府町吉原には、小字「小黒目(こぐろめ)」があります。余談ですが、有名な楽々福神社としては、鳥取県日野郡日南町宮内にも楽々神社があり、この神社から北へ約7KMのところにも、やはり、小字「小黒目(こぐろめ)」があります。この小黒目から西へ約6KMの大字阿毘縁(あびれ)付近は砂鉄産地です。また同じく小黒目から北東へ約6KMの日南町印賀も砂鉄産地で、「印賀鋼」として有名なブランド鋼です。この印賀鋼は、昭和天皇が皇太子になられる時の儀式で用いた剣に採用されたとのことです。
それから、佐々婆神社が、篠山市以外にないかと調べていたところ、1件発見しました。なんと、京都府亀岡市猪倉に、篠葉神社(ささば)がありました。猪倉も砥石産地ですね。篠葉神社から
1.東側へ約4kmの鹿谷に、大谷鉱山(銅山)
2.北東へ、約4kmの北ノ庄に小字「穴虫」
3.南西へ約約8kmに、亀岡市畑野町千ヶ畑「クルビ谷」
  クルビ=黒部=黒辺
篠山市と似た地名があることが共通しています。

篠山市の佐々婆神社の御祭神である「志布美宿禰」について調べていましたら、京都府京丹後市にも、「志布美宿禰」と同じと思われる「志夫美宿禰」を祭神とする神社があり、付近の地名も篠山市と共通するので、ご紹介しておきたいと思います。
篠山市と京丹後市は古代において、金属鉱物資源と人の移動で、極めて関係性が高いことの証だと思います。
志布比神社: 京都府京丹後市丹後町大山
祭神 志夫美宿禰命(しぶみすくねのみこと)ほか
関連地名、遺跡
(1)約5km 京丹後市弥栄町 黒部
(2)約4km 京丹後市網野町掛津 穴虫
(3)約6km 京丹後市弥栄町 船木
(4)約6km 京丹後市弥栄町 鳥取
(5)約5km 京丹後市弥栄町 井辺(いのべ)←「いんべ」と読むこともできる
(6)約4km 京丹後市弥栄町国久 小字スイショヤマ←水晶山と思われる
(7)約6km 京丹後市弥栄町野中小字トイシダニ←砥石谷と思われる
(8)約6km 京丹後市弥栄町溝谷に奈具岡遺跡
弥生時代中期の玉作工房
水晶加工工程がわかる。鉄製品、砥石出土
(9)約12km 京丹後市峰山町荒山小字キノベ→篠山市東木之部、西木之部
なお、キノベは、吉備に同じと考えられます。キビ→キベ→連帯助詞「の」を追加し「キノベ」と変化。以上の地名はまた、奈良県にもあります。

篠山市下板井の弥生時代後期の内場山墳丘墓群出土の土器棺墓には四国や山陰地方の影響を強く受けた土器が供えられていました。
「四国」と大字「東木之部、西木之部(きのべ)」の二つのキーワードから、私は、遠く離れた四国の徳島県徳島市国府町矢野の気延山(きのべやま)をすぐに思い出します。気延山は蛇紋岩産地で、蛇紋岩は玉作にも使用されます。気延山麓の国府町矢野には、玉作工房が出土した弥生時代後期の矢野遺跡があります。
<矢野遺跡>徳島市国府町矢野
1.蛇紋岩製勾玉未製品出土した玉作工房
2.古墳時代前期の、鉄器を加工した鍛冶工房から、壺に入れた砂鉄が出土
3.約6kmにはザクロ石産地の眉山(びざん)ザクロ石の細かいものが金剛砂→金剛砂は砥材。
キノベは、吉備に同じと考えてます。キビ→キベ→連体助詞「ノ」を追加しキノベと変化したと推定。
砂鉄出土に大きな注意を払いたいところです。
篠山市下板井の「内場山弥生墳丘墓」は弥生時代の遺跡ですが、四国や山陰地方の影響を強く受けた土器が出土しているとのことです。鳥取県も山陰地方ですので、前記の日南町と篠山市との関係があるかもしれませんね。四国地方との関係といえば、地名で、次のことを思い出します。篠山市鷲尾に小字「穴虫(あなむし)」があります。これは、以前お話したように、「穴吹」から変化した地名です。四国にも「穴吹」地名があります。
徳島県美馬市穴吹町の「穴吹」ですが、東側に隣接するのは、吉野川市山川町で、古代忌部(いんべ)郷で銅鉱山が多いところです。なお、出雲玉作で有名な島根県玉湯町玉造の東側は、西忌部町、東忌部町です。東忌部町には、「黒目山」という山があります。
このように、兵庫県篠山市、鳥取県日野郡日南町、島根県松江市、徳島県美馬市・吉野川市で、似たような地名があることがわかります。
篠山市下板井の「内場山弥生墳丘墓」から、四国や山陰の影響を強く受けた土器が出土することと、地名、鉱物が矛盾なく、相関しているように見えます。
以下は、私なりに興味を覚える同様な地名と、共通性を調べた結果の一部です。
(1)兵庫県養父市八鹿町宿南小字「ソチ口」(読み ソチクチ)
約6km兵庫県豊岡市日高町久田谷より銅鐸出土、弥生時代
約6km日高町水上は、砥石産地 「水上砥」
約8km日高町八代はヒスイ産地
約11km日高町羽尻に但馬三方鉱山 金、銀、銅、亜鉛、鉛
約4km日高町久斗に小字「クルビ」←クルビは黒部に同一
約6km日高町伊府(読み イブ)←伊福の変形地名

(2)新潟県柏崎市「曽地」(読み ソチ)
約2KM柏崎市吉井に弥生時代中期後半の玉作工房「下谷地遺跡」
菅玉製法は佐渡市の新穂遺跡とおなじ技法を採用。
佐渡市との交流が想定される
約3km柏崎市西谷に弥生時代後期の玉作工房「西谷遺跡」
約6km柏崎市西山町黒部←地名「黒部」
約6km柏崎市西山町二田に物部神社←二田物部

(3)愛知県豊田市足助町「曽地坂」(読み ソウヂサカ)
現在は小字消失
約9km豊田市手呂町より銅鐸出土 弥生時代
約8km豊田市力石町に小字「黒見(くろみ)」←黒部に同じ
約6km豊田市東広瀬町に小字「船木(ふなぎ)」←船木、舟木は
黒部と良く一緒にでる地名
*舟木と黒部の地名共出関係は、谷川健一、田中巽の有名な説があります。
私もまったく同感です。

3.長野県中野市柳沢出土の銅鐸(弥生時代中期後半)に関連して発見報道当時、
現地に行き、見学と地名調査を行いました。
出土地から約6Kmは、山岸小字黒ボウ←「黒ボウ」は黒部の変形。 
黒坊とも記されたりする
約8km長野県下高井郡木島平村往郷に根塚遺跡 西暦100年頃
韓国・加悦系の渦巻把手鉄剣出土
約8km長野県中野市栗林に栗林遺跡 弥生時代中期の標識土器出土
約9km長野県中野市日野は、かつて銅鉱産出地
約10km長野県中野市間山に間山遺跡 弥生時代後期
愛知県豊川市を標識とする東海欠山式土器出土
石川県金沢市月影町を標識とする北陸月影式土器出土
愛知県岩倉市丹陽町伝法寺を標識とする元屋敷系土器出土
間山遺跡から約5kmは長野県上高井郡高山村黒部←黒部地名
黒部一帯は弥生時代後期の土器出土
間山遺跡から約12kmは 長野県須坂市八町 須坂鉱山で銅を産出した
間山遺跡から約14kmは、長野市小島 小島境遺跡 古墳時代前期の玉作工房
緑色凝灰岩・鉄石英などの未製品と砥石ほか出土

4.以下は私の仮説です。地名「黒部」を使用するグループは、水運に長け、金属鉱物資源全般の知識、技術を持っているように見受けられます。中国の呉国あるいは楚国からの渡来した人達がいたと考えています。そして、中国、朝鮮半島を往来し、交易をすることで古代ヤマト国内で有力なメンバーにのし上がっていったのでしょう。
卑弥呼は巫女だったと思いますが、中国のなかで巫女が最も盛んだったのは、古代中国の「楚」です。楚は紀元前223年に滅びます。滅びた時に、日本に渡来した人たちが居たのではないかと。紀元前223年頃は、日本は弥生時代中期です。楚は「清楚」「四面楚歌」などの用語使用がありますが、「楚」にはバラの花の意味もあります。
楚の中心地は、現在の湖南省、湖北省付近だったようですが、この地域には、ミャオ族が多く住み、雲南省、べベトナム、ラオス、タイにも分布しています。ドンソン文化を共有しているようです。また、長らく文字を持たなかったといわれています。余談ですが、ミャオ族の人達は、自分達の先祖は、兵主神「蚩尤・しゆう」だと主張しています。

大阪府茨木市は銅鐸鋳型を出土していますが、「いばら」+「き: 場所を意味する」と考えています。茨城県も、金属鉱物資源を求めて来た人達が、同じ「いばら+き」の地名を使うグループだったのでしょう。バラの花の三角のトゲが、中国ドンソン文化の銅鼓にも採用され、日本弥生時代の銅鐸、古墳時代初期の三角縁心神獣鏡にも継続して採用されている背景は、中国の古代「楚」の人たちが渡来したからだと思われるのです。


2013年10月4日金曜日

神戸アートマルシェ 画家・柿崎享氏

今日から10月6日まで行われている
神戸アートマルシェへ足を運びました
お目当ては画家柿崎亨さんの作品
展示会場で柿崎さんと作品といっしょに・・


展示会場といってもホテルの宿泊部屋で
13階の客室すべてに展示されている・・






浴室も・・






ベッドも・・


手前は気になるオブジェ・・
タイトルは「だんご」


やはりゲット・・



こちらはほぼ実物大の金属作品
「マイマイカブリ」
殻は本物でフランスのエスカルゴだということ・・


こちらもほぼ実物大


カナブンは内翅まであり
それを閉じて収めることができる・・
外翅の質感といい、全く本物のよう・・
恐るべし


2020年2月3日月曜日

天岩戸神社の岩蓋 古代文字

宮崎県西臼杵郡高千穂町に鎮座する  天岩戸神社で発見されたとされる岩蓋  文政四年(1821年)に発見されたということですが  小型の箱式石棺の蓋(ふた)石だったということです  石棺内には銅鏡七面と四個の土器が副葬されていたということで小型の箱式石棺ということと副葬品の銅鏡に大鏡が含まれていることから  時代は弥生時代後期頃と思われます  文字が刻まれた蓋石と石棺が  同じ時代とは限りませんが・・・  

この岩戸文字が発見された後
明治八年(1875年)、大分県で上記(うえつふみ)が
発見され、そのなかの文字の解説により
この岩戸文字が解読されたということです

明治八年の読み
それみきみ みつみ 
おほえこれのうつはわ
ほのあかりのみこと
これのあめのいわとに
こもりますときに
あそひのそなえに
まつるひとの
おおみかかみわ
すめおおみかみの
みたまとして
あめのいわやとに
のこしもちいたししなるを
あめのいわやどの
これのきしに
いわもてよひらにたてて
かくしおくなり

昭和7年に記された
「高千穂古文字伝」より
田近長陽氏による読み
ソヂ ミキミカミツミカミケ
ミカトヲ(モ)ホエ 
コレノウツハワ
ホノアカリノミコトコレノ アメノイワトニ
コモリマストキノアソビノソナエニマツル
ヒトツノオ々ミカミワ
ハメヲ々ミカミノミタマシテ
アメノイアワトニ
ノコシモチ イダシナルヲ
アメノイワヤドノ
コチノキシニ
イワモテヲヒラニタテ
カクシオクナリ

参考として
藤芳義男氏による解読
其それ 神酒みき 甕みか 水みづ 甕みか
神食みけ 甕みか と覚おぼえ 是これの 器うつはわ
火明命ほのあかりのみこと 是これの天あめの岩戸いわと
に 籠こもります時ときの遊あそびの供そなえ
に奉まつる 一ひとつの大おお御鏡みかがみわ
皇すめ大御神おおみかみの御霊みたまとして天あめの
岩戸いわとに残のこし持もち出いだししなるを 
天あめの岩屋戸いわやどの 是これの岸きしに岩いわもて
四よ皮ひらに立たてて 隠かくし置おくなり

次に高橋良典氏による解読
祖母ゆ開かれつる神
避さるヶ戸を掘り
これに無戸籠うつくまる
火明ほのあかりの御代みよに 天之岩戸へ
籠こもります時に
阿蘇火のそば
地震なゐへわたり
タカヒメの祖おや
ツカヤリは
皇祖すめをやゆかりの
蓋ふたつくりて
天之岩戸へ逃れき
地怒り唸うなるを 
天之岩戸屋殿籠り
救へ岩守もりて 
生きながらえたり
由来いはれを吐けり

平中芳明氏による解読
それ みきみ みつみ お 
(相手側、満気身、密身、緒)
そちらは、気が満ちた御身、きめ細かい綿密な御身、
魂を繋ぐ緒

ほえ これの うつは わ 
(誉、恵、こちら側、打つ、葉、和)
秀でた叡智の、こちらの、心を打つ言葉が上手く混ざる

ほの あかりの みこと これの あめのいわとに (誉、証、尊、こちら側、天岩戸)
秀でた証の尊 こちらの天の簡単には動かない磐戸に

こもります ときに あそ ひの そなえ (籠、時、彼方側、秘、備)
籠ります時に、こちらからもそちらからも遠いあちらの密かな備えをする

に まつる ひとの お おみ かかみ わ (二、祀、尊、緒、御身、加佳味、和)
再び祀る時、尊き人の魂の緒、御身に要素が加わり良い趣きに上手く混ざり和合する

すめおおみかみの 
みたま として あめ
皇大御神の御魂として

いわやとに のこし もち いたし しなる (岩屋戸、残、保つ、至、品)
天の岩屋戸に保管して成熟するように

あめのいわやどの これの きしに い (天岩屋戸、こちら側、居)
天の岩屋戸のこちらの側に居て

わ もて よひらに たてて (和、以て、四方、盾)
協力して四方を護って
かくし おくなり (隠、置)
人の目にふれないようにして置く

他にも
あります。

2011年2月9日水曜日

人造中名倉砥と梅ケ畑内曇砥


You Tube 動画にUPした砥石を
紹介しておきます

これは刀剣研磨用の
人造中名倉の#2000
人造中名倉はいくつかの種類が
ありますが、これまで使ったなかでは
最も気に入っているものです



これまで日本刀研ぎのための
人造中名倉をいろいろ試してきましたが
鉋など木工用の刃物を研ぐには
どれも柔らかすぎて、使いにくかったのですが
これは硬めで反応もよく、充分使えます
使い初めは表面の艶で滑って研ぎ難いですが
使い始める前に表面を磨れば
すぐにこの砥石本来の反応が得られます

商品名は「京東山」
ネット・ショップでも売られています
刀剣用砥石としては驚くほど安価です・・





研ぎ傷が浅く
次は仕上研ぎが行えます






これは三河産(愛知県)の白名倉
この砥石山も今では掘られておらず
入手が困難な砥石になってしまいました


砥面右側の針気がやや当たりますが
悪影響には及びません







これは仕上砥の天井巣板(内曇砥)
京都梅ケ畑の大突(おおつく)から菖蒲(しょうぶ)
かけての間府で採掘されたものだそうです
この間府の天井巣板も珍しいものです

しっとりとした研ぎ感で
心地よく研ぐことができます







そして最終仕上として使った砥石

産地は不明ですが
たいへん硬いにもかかわらず
良く反応し、強い研磨力があります
今ではこういった砥石には
めったにお目にかかることができません