2011年12月23日金曜日

工房の様子 鉋と木地磨き


以前紹介した一枚刃寸三鉋(身幅55mm)
メープルの荒削りに使うことにし
押え金を付け、二枚刃に仕立て直しました





製作中の二台のギターは
木地磨きを終え
これからニス塗りにかかります
木地磨きをできるだけ薄く済ませるには
その前段階の鉋仕上げが重要になってきます






2011年12月21日水曜日

銀のクリスマス・ツリー



知人のシルバー・アクセサリー作家から
クリスマス・ツリーが届きました
すばらしいセンス





こちらはオマケの画像



2011年12月20日火曜日

生反り小刀

 注文していた「生反り小刀」が届きました
これをこれから刃の厚みを薄くし、柄を挿げ
自分の道具にしていきます
生反りは槍鉋(やりがんな)の小さなもので
日本では弥生時代から使われているものです
刃の形状、反り具合など無数の種類があります


刃の形状を修正した後
このように柄に挿げました




この後、鉋で柄を削り
自分の手に合うように仕上げます


出来上がりました
私の手には木地のままだと
滑って使いにくいので
この後薄くニスを塗ります
研ぎの動画をUPしました


生反り小刀が1本増えました(手前のもの)


工房の様子 猫の手も借りたい



 ネコの手も借りたいのに・・




ネックの加工中・・







荒削りが終わりました
この後サンドペーパーで仕上げます




2011年12月16日金曜日

楽器製作の端材でオブジェ その3



端材でオブジェを作ってみました
今回のものはシルバー・アクセサリー作家の
ところへ行くことになりました


2011年12月15日木曜日

丹波篠山 モンゴルの里


モンゴルの里にお邪魔しました

ラム肉のモンゴル風シャブシャブは最高
私は子供の頃、羊の肉はよく食べていたので
独特の匂いは平気なのですが
この肉はまったく匂いがありません
しかも食べ易く胃にもたれないのです
胃にもたれないのは猪肉と同じですね
数日前に食べたボタン鍋よりも
こちらの方に軍配を上げたいところです・・


オーナーの息子さんはまだ14歳だということですが
モリンホール(馬頭琴)の名手であります
11歳のときにはCDも出しているということで
店内で販売もされています
モンゴル平原の広大な空気を振わせ
遥か遠くの空に消え入る響き・・
最初に奏される「私はモンゴル人」という曲は
日本人である私の胸にも深く沁みわたりました


オーナーのスーチンドロンさんに
流暢な日本語でモリンホールの
説明をしてもらいました


竹で作られた、この美しく装飾された道具は
モンゴルの人々にとって
必要不可欠なものだそうですが
さて、これは何でしょうというオーナーの問いに
私は最後まで正解できませんでした

これはモンゴルの厳しい冬に使われるもので
馬を走らせた後、馬の汗を拭うものだそうです
拭うというよりも掻き飛ばすのだと思いますが
これをやっておかないと零下数十度の厳寒の中
汗がたちまち凍って馬が凍死してしまうのだそうです

その道具に最高の装飾を施しているところに
馬がどれほど重要なものか推し量ることができます・・

2011年12月7日水曜日

Sinier de Ridder工房の本

フランスの楽器修復工房
から2冊目の本が
出されました
(2011年9月刊行)

今回はフランスの
ミルクール出身の製作家が
作った19世紀ギターが
特集されています

フランスLamy工房の様子
楽器の鮮明な写真と共に
当時の楽器店や

工房の写真も
掲載されています
(同書籍から部分転載)
このような資料は
我々楽器を作る者にとって
バイブルです
ありがたいことです・・

2011年12月5日月曜日

駒王丸と高麗王若光 その4

富士宮下文書では、日本列島に渡ってきた国狭槌尊
クニサツチノミコトをカラスが道案内をしたことや、富士山に辿りつくまで猿や鹿が協力をしたことも記されています。このことに関して、山梨県の富士山駅周辺には
八咫(やた)という字が付けられた山や地名があったのは富士宮下文書と何らかの関係があるのかもしれません。現在は見られませんが、矢田や谷田は現在でもあるようです。
国狭槌尊をカラスが道案内をした話は、古事記の神武東征譚に登場する八咫烏と同様ですし、猿が同様の働きをすることは、天孫降臨譚で猿田彦が邇邇芸尊ニニギノミコトを道案内する話と酷似しています。
その2のコメントで述べたように、鹿島曻説では、倭人興亡史や桓檀古記から判断すると、神武は扶余王仇台のことになるとしています(百済王仇首でもある)。
また、仇台(神武)は帯方(ソウル)の地に伯済(後の百済)を建て、海を渡って九州北部福岡県の糸島に伊都国建て、さらに熊本では多婆羅国を建てています。
初代扶余は高句麗を建国した人物ですから、古事記や日本書紀の記述は朝鮮半島の出来事だった可能性も考えられます。ということは富士宮下文書も朝鮮半島での出来事であった可能性がでてくることになります・・
日本書紀は中国や朝鮮半島の歴史の借史であるという説もあるくらいですが、そのことをカラスや猿の道案内の説話が裏付けているのでしょうか・・
因みに、古事記に記されている因幡の白兎譚でのワニ騙しの話のルーツはマレー半島にあるとされています。




2011年12月1日木曜日

津田彩穂梨さんの絵




津田彩穂梨さんの絵が届き
ここ数日じっくりと眺めています
小さな絵ですが、その世界は広く大きく
長い間見入ってしまうのです・・
中央に描かれているものは
石好きのワタクシにとってはタマラナイ質感です






宇宙を連想させるものとしては
もう一つ、このような石が工房にはあります
これは25年ほど前に手に入れたものと
記憶していますが、もっと前かもしれません
縞メノウAgateを熱処理で変色させ
輪切りにしたものと思われますが
偶然の産物として表れた模様が
洞窟の中から眺めた宇宙のようにも見えます
この模様を見る度に不思議な感慨に打たれ
我を忘れてしまうのです・・

2011年11月28日月曜日

端材でオブジェ



楽器を作る際に出た端材で
オブジェを作ってみました
いい息抜きになりました

2011年11月25日金曜日

駒王丸と高麗王若光 その3


きょう、八木書店から刊行されている「楽只堂らくしどう年録 第一巻」を手に入れました。この本については後日詳しく紹介するつもりですが、楽只堂とは徳川五代将軍綱吉の側用人として仕えていた柳沢吉保(よしやす1658~1714)の号だということです。
楽只堂年録は吉保の公用日記が翻刻刊行されるにあたって付けられたものだそうですが、この最初に吉保の先祖の家系が記されています。
その書き出しを少し写してみます・・(旧字は新字に直しています)

信定 
「青木尾張守と号す、吉保が高祖父なり。そもそも青木氏は昔時、清和天皇五代の孫、伊予守源頼義の三男、新羅三郎義光、甲斐守に任ぜしより子孫彼国に充満す。これ甲斐源氏の太祖なり。」
このように、「駒王丸と高麗王若光 その2」で、源氏のルーツは朝鮮半島の新羅にあると述べたことの裏付けになるようなことが記されています。新羅三郎の郎は
花郎の郎でもあります。花郎のトップを源花、あるいは花主、また国仙と云うそうですから源氏の源という字も花郎軍団からきているのかもしれません。因みに源花の下が花郎、または仙郎があり、その下に郎徒または門徒という位があるということです。日本の武士について一族郎党と言ったりしますが、これは花郎軍団の郎徒からきているようです。







2011年11月22日火曜日

駒王丸と高麗王若光 その2

幼名駒王丸の木曽義仲は源氏でありますが、源氏のルーツについては諸説あり、その一つに藤原氏の護衛、あるいは荘園の用心棒的存在として仕えていたというものがあります。これが地方の有力者と結び付き、徐々に力を蓄えていき、武士という存在になったというものです。
それから、新羅の花郎であったという説があります。
907年に唐が滅亡していますが、唐との貿易で成り立っていた新羅も連鎖的に滅びています。このときに新羅に代わって建国したのが契丹と高麗ですが、高麗軍に追放され日本の関東地方に亡命した新羅人の中に、この花郎も含まれていたようです。このときの高麗は後に述べる若光の高麗(高句麗)とは別の王朝で王氏高麗のことです。

高麗王若光のことは日本書紀と続日本紀に僅かしか記されておらず、日本書紀・天智五年(666年)に「冬十月甲午朔己未、高麗遣臣乙相奄鄒等進調、大使臣乙相奄鄒 副使達相遁 二位玄武若光等」とあり、続日本紀巻三の文武三年(699年)に「乙未 從五位下高麗若光賜王姓」とあるのみです。このなかの「王」という字には一般的に「こきし」という朝鮮語の訓が付けられています。
続日本紀には他に高麗人についての記述があり、霊亀二年(716年)に「以駿河(静岡県)、甲斐(山梨県)、相摸(さがみ・神奈川県)、上総(かずさ・千葉県中部)、下総(しもうさ・主に千葉県北部、茨城県南西部)、常陸(ひたち・茨城県北東部)、下野(しもつけ・主に栃木県)七国高麗人千七百九十九人、遷于武藏國、始置高麗郡焉」とあります。
このことから、668年に滅んだ高句麗(高麗)から多くの亡命者が日本列島に入ってきたことが窺われます。先に紹介したように、若光には從五位下の位と王(こきし)姓が与えられています。これが高麗王若光という名の起こりのようです。
参考までに、王氏高麗(918年~1932)に対し、若光がいたときの高句麗(紀元前37~紀元668)は6世紀頃から高麗を正式な国号にしていたということです。尚、若光のときの最後の王は宝蔵王とされています。










2011年11月19日土曜日

駒王丸と高麗王若光 その1

次に製作の予定である平家琵琶の撥面には、
木曽義仲に因んだ絵を描くことにしています、それで、いま木曽義仲のことをちょっと調べています。
琵琶を依頼して下さった方から、義仲の幼名は駒王丸(こまおうまる)であるということを教えてもらっていたので、どうしてそのような幼名が付けられたのかも知りたいと思い、調べ始めたのですが、手立てがほとんどないのです。
そういうことなので、こまおうまる コマオウマル・・・と
念仏のようにブツブツ云いながら本棚を眺めていたら、以前、滋賀県にある渡来人歴史館で買っていた高麗王若光(こまおう じゃっこう)に関するDVDが目に入ったのです。コマオウ! 近い! もうちょっとでコマオウマルではないか・・・ということで、早速そのDVDを見直したのですが、最初に高麗、許麻、巨摩、狛、駒、という字が紹介されているのです・・
どれもコマと発音します。このコマという発音に様々な当て字が付けられているのですが、漢字の意味はそれほど重要ではなく、コマという発音が重要なのは想像がつきます。
許麻、巨摩は地名によく見られます。狛は神社の狛犬のコマですね・・
そして駒は「ヒョウタンからコマ」の駒で馬のことです。







2011年11月17日木曜日

「楠美甚之助勤務控え」

平家詞曲相伝者である鈴木まどかさんが
共著で「弘前城手廻組藩士の日常と世相」
副題 「楠美甚之助勤務控え」を出されました
楠美甚之助はまどかさんの御先祖でもあります
出版社 大河書房

歴史は鑑と言われますが
そのことを痛感させられる1冊です
300年前のことが昨日のことのように蘇ります


2011年11月14日月曜日

もう1台の新作ラプレヴォット・タイプ


今回出来上がった
もう1台を紹介しておきます



全体に淡いクリーム色に着色してほしい
という要望がありましたので
このように仕上げてみました





 
ポジション・マークは白蝶貝






糸巻きは特注ロジャースです


ブリッジ・ピンにはアバロンを入れています
実際はもっと濃い緑色です