2011年11月25日金曜日

駒王丸と高麗王若光 その3


きょう、八木書店から刊行されている「楽只堂らくしどう年録 第一巻」を手に入れました。この本については後日詳しく紹介するつもりですが、楽只堂とは徳川五代将軍綱吉の側用人として仕えていた柳沢吉保(よしやす1658~1714)の号だということです。
楽只堂年録は吉保の公用日記が翻刻刊行されるにあたって付けられたものだそうですが、この最初に吉保の先祖の家系が記されています。
その書き出しを少し写してみます・・(旧字は新字に直しています)

信定 
「青木尾張守と号す、吉保が高祖父なり。そもそも青木氏は昔時、清和天皇五代の孫、伊予守源頼義の三男、新羅三郎義光、甲斐守に任ぜしより子孫彼国に充満す。これ甲斐源氏の太祖なり。」
このように、「駒王丸と高麗王若光 その2」で、源氏のルーツは朝鮮半島の新羅にあると述べたことの裏付けになるようなことが記されています。新羅三郎の郎は
花郎の郎でもあります。花郎のトップを源花、あるいは花主、また国仙と云うそうですから源氏の源という字も花郎軍団からきているのかもしれません。因みに源花の下が花郎、または仙郎があり、その下に郎徒または門徒という位があるということです。日本の武士について一族郎党と言ったりしますが、これは花郎軍団の郎徒からきているようです。







2 件のコメント:

源信正 さんのコメント...

楽器の装飾は古来に習ってされるものが多い中、キヨンドさんのように、その根拠を追求される方は少ないと思います。
そのこだわり楽器を手に入れられる方は本当に幸せ者だと思います。
ファランについてで朝鮮ドラマの受け売りで申し訳ないのですが、女王、国王の親衛隊であったかと思います。
そうすると、その国王に類するものが朝鮮の政権崩壊の際に古代日本に亡命し、その警護として来たものと思います。
埼玉の高麗神社の主祭神は高麗王若光で、そのほか猿田彦命、武内の宿禰命が祀られています。
668年に唐、新羅から高麗が滅ぼされるのですが、どのようにして、日本まで来たのであろうか、その逃走ルートも気になるところです。
若光は703年に朝廷から王姓を下賜され、716年に武蔵国高麗郡設置のために一族郎党とともに移住。
将軍標があることから、北方制圧にも活躍したことでしょう。

楽器製作家 田中清人 さんのコメント...

高麗(こま)神社の祭神に猿田彦が祀られているのが不可解で、このことについてはどの研究者も戸惑っているようです。
若光は晩年、髭と髪が白かったため白髭明神と称え奉ったと高麗神社の由緒書にあるということですが、猿田彦は白髭神社の祭神でもあるということから、合祀されるようになったという説もあります。また、塩土翁(しおつちのおじ)も同類とする説もあります。
白髭神社については中村倉司氏の優れた研究がありますが、このことについては後日少し紹介しようと思います。

高句麗からの渡来人が関東地方に居を構えたことにつては、徐福伝説との共通点もみられるので、もしかして徐福と何らかの関係があるのかもしれません。
そうすると富士宮下文書を探る必要がでてくるわけですが、源氏が神代文字の一種である豊国文字を使っていたという指摘があることから、源氏のルーツは以外と遠くにあるのかもしれません。
また、富士山を中心とする地域で高麗王若光と源氏が繋がる可能性もあるかもしれません。甲斐源氏などはそうかもしれませんね・・