2014年11月17日月曜日

助川砥を含め5種類の青砥を研ぎ比べ

茨城県日立市で産出されていた
助川砥(青砥)を手に入れました

このようなラベルが貼られています

ラベルの天側が柾目になっているものと
思われますが
寸八鉋を砥ぐには狭すぎるので
板目面を研ぎ面にして使ってみました

せっかくなので、他の産地の青砥と
研ぎ比べをやってみました
TouTube動画参照下さい

やや硬めですが、よく反応します

板目面の影響か研ぎ傷が浅く
全体にピカリと光る感じに
研ぎ上がりました

これは動画ではやっていませんが
柾目面でも研いでみました

板目面とはずいぶん違った研ぎ上がりで
ムラのある荒い傷が付き
中砥というよりは荒砥のような感じです
私としては、この面では
研ぐ気になりません・・
やはり、以前紹介したように
このように粒度にムラがあり
荒めの青砥は板目面で
使った方がいいような気がします

また、昔の大工さんのなかには
行きつけの砥石店に
新しい砥石が入荷すると
その一つを試し
良いものだったらまとめて
大量に買って行った
ということを聞いたことがありますが
その理由が分かるような気がします

動画で次に使ったのは
同じく茨城県産の
大泉砥とされるものですが
その後、この砥石は
栃木県茂木町深沢産のもの
ということが判明(参照
丹波亀岡産の佐伯砥saeki-to
よく似ているのが興味深いところです


上の助川砥よりは細かめの石質で
粒度は揃っています

次に使ったのは栃木県産の荒内砥


やや粒度にムラがありますが
上の大泉砥とほぼ同じような
研ぎ上がりです

そして青砥の本場とも言える
京丹波・亀岡産の青砥


丹波産青砥によく見られる
針気が気になります
粒度は上の大泉砥と
ほほ同じ感じです

丹波産青砥


粒度がよく揃っていて
針気はほとんどありません
素晴しい研ぎ上がりです
このような青砥には現在では
ほとんどお目にかかれません

25 件のコメント:

高口定雄 さんのコメント...

助川青砥を調べていたら、今は見ることの出来ない助川青砥で研ぐ映像を見ることができました。ありがとうございます。

ご参考までにですが、助川青砥最後の採掘・加工者 黒澤さんの映像がYou-Tubeにアップされていました。ご参考まで。1990年に撮影した映像です。

https://www.youtube.com/watch?v=utBraP3aYhg

映像の中で、「まだ一人で掘ればまだ100年くらいは掘る量がある」とおっしゃっています。
尚、黒澤さんは、1998年3月に廃業され、2015年にご永眠されました。

助川青砥は、茨城県ひたちなか市埋蔵文化財調査センター発行「ひたちなか埋文だより42号」2015年3月発行によれば、古墳時代前期から平安時代にかけて茨城県北部に大量に流通したとの報告です。

楽器製作家 田中清人 さんのコメント...

高口定雄様
たいへん貴重な映像を紹介下さり、お礼申し上げます。
採掘をなされている、当時の黒澤さんの表情に深く感動しました。
まだまだ砥石はあるようですので、採掘が再開されるのを期待したいところです。

京都亀岡の青砥産地も青野あたりではまだまだ優れた石質のものが
眠っているようなので、こちらも期待しているところです。
優れた中砥があると、人造砥石の補佐としてかなり威力を発揮してくれ、
我々木工職人はたいへん助かります。

匿名 さんのコメント...

コメントありがとうございます。

実は、亀岡市と日立市で砥石、水晶、玉作に関わる地名の共通点があるようなので、もしご興味があればご一読いただければ幸いです。

砥石は玉作にも使用され、亀岡市では弥生時代中期には砥石を採掘していたと推定されますが、一方、茨城県日立市は古墳時代前期からの採掘、流通と考古学者が公表しています。


砥取家さんが砥石採掘されている丸尾山から直線距離約10kmに、亀岡市畑野町千ケ畑小字クルビ谷があります。また畑野町広野では水晶を産出するとの記録もあります。クルビはクルベ、クロベと同じで漢字で書くと黒部とも書きます。

日立市の砥石山の約1km直近に、小字「黒目作」(くろめさく)がありますが、「くろべ」の「ベ」が「メ」に変化したものです。「余部」が「余目」に変化しているのと同じ理屈。作は坂、谷、沢などの意味。
日立市の砥石山がある山地を多賀山地といいますが、水晶、滑石、蛇紋岩や金、銅を産出しました。

実は「黒目作」と全く同じ地名が、日本でもう1ケ所あります。新潟県佐渡市畑野黒目作です。この近くに弥生時代中期の下畑玉作遺跡があり、玉作工房が発見されてますが、近くで瑪瑙原石も取れます。

茨城県域は、古墳時代初頭に一斉に五領式土器(埼玉県東松山市五領遺跡)に切り替わりますが、埼玉県東松山市の五領遺跡から約4kmは東松山町大黒部(おおくろべ)で、やはり「黒部」地名があります。
大黒部から約1kmに古墳時代前期の反町遺跡があり、玉作工房が発見され、主に水晶工房でした。
その水晶加工技法から、京都府京丹後市弥栄町の奈具岡遺跡から工人が移住してきたと考古学者は推定、報告しています。
奈具岡遺跡から約1kmは京丹後市弥栄町黒部で、やはり「黒部」地名があります。

奈良県磯城郡田原本町黒部から約2km西には、古墳時代前期の十六面遺跡があり、玉作工房が発見されています。また、奈良県桜井市倉橋クロメから約5kmの上之庄遺跡は古墳時代前期の遺跡ですが、これも玉作工房が発見されています。

玉作で有名なのは出雲ですが、島根県松江市玉湯町玉造から約5kmに黒目山(東忌部町)があります。

以上のように、資源を求めて古代人は移動し、地名も残していたようです。

砥石も重要な資源だったと思います。
京都市右京区梅ケ畑より弥生時代中期の銅鐸が出土していますが、梅ケ畑は仕上げ砥産地です。
この砥石の資源により、富を気づくことができ、銅鐸を入手したのではないかと勝手な想像をしています。

歴史を語る重要なキーワードのひとつとして、「砥石」は重要ではないでしょうか。

高口定雄(茨城県日立市在住)

楽器製作家 田中清人 さんのコメント...

高口定雄様
たいへん興味深いお話をありがとうございます。
とくにクロベと玉作が関連しているというのはなるほど・・と感心させられました。
黒という地名は鉄とも深く関連しているので、玉加工(特に穴開け)に欠かせない鉄とも
関連しているとも言えるような気がします。
このことはこちらのHPでも述べたことがありますが
http://www.kiyond.com/gyoku-kakou.html
勾玉や管玉の穴開けの導き穴や水晶の穴開けにはかなり早い時期から
鉄の工具が使われていたものと思われます。
そして貫通穴を開けるには銅などの柔らかい金属が有効ですので、
そういった玉加工に必要な金属製の道具を得ることのできる場所の近くで砥石も採れれば
玉加工にはもってこいの地域だったのではないでしょうか。
ヒスイ、メノウなどの原石と砥石、そして金属加工道具は
三種の神器をつ作るための三種の神器だったのでしょうね・・

ちょっと話は脱線しますが、鉄の防錆や潤滑のための油は
古代は椿油が使われていたようですが、
サルタヒコを祀った神社には不思議と椿の木が多いという指摘もあるようです。
銅鐸民族の主ともいえるサルタヒコと椿油・・何か関係があるようにも思えるのですが・・

古代の謎が地名や神社の特徴などに影を落としているというのは
日本という国の一つの特徴でもありますが、
そういったことに思いをめぐらせるは楽しいものです。

高口定雄 さんのコメント...

紹介いただいたHPを読ませていただきました。穴開けについての写真入り説明は大変わかりやすいです。
考古学報告書でも もっと穴開けについての情報が増えるといいなと思ってます。ありがとうございました!!

 三種の神器の素材である銅、鉄、玉(威信財原料、交易材料)の採掘・加工技術を持ち、強力な水運技術をもった人達が、古代ヤマト王権の重要な構成メンバーであったろうと推測します。

特に、縄文時代から蓄積した技術であるヒスイなどの玉が、中国・朝鮮半島との重要な交易材料だったでしょうか。

ちなみに、「黒部」「黒目」地名が、北海道~鹿児島県まで、存在するので、海運力の優れた集団に関わる地名
だったかと考えます。具体的的には、中国の「呉」地域からの渡来人に関わると推測してます。実証はできませんが。

1)北海道檜山郡江差町 小黒部(おぐろっぺ)     約8kmに笹山鉱山(銅 金)
2)鹿児島県大島郡徳之島町魚津 黒目塔(くろめとう) 約2kmに下久志鉱山(銅)

また、沖縄県には「久米島」もあり、長崎県対馬市には、黒部地名の変形<くろべ⇒くろぼ、くろぼう>である「黒方」地名もあり、朝鮮半島、中国本土との交易ルートを確保している様子が、地名からうかがえます。

穴開けの研磨材についてですが、「金剛砂」が気になっています。

 前回記載した十六面遺跡には同じ地内に「穴虫(あなむし)」という小字地名が記録されています。
同じ「穴虫」地名が、奈良県香芝市の二上山にあり、金剛砂産地です。このことから、金剛砂を玉作にも使用できたことが地名から推測されます。ただし、遺跡から金剛砂が出土しないと実証にはなりませんが。

 長野県域も古代玉作遺跡が発掘されています。そして、地名「穴虫」、「黒部」地名もあり、銅鐸も出土している先進的な地域です。弥生時代後期には「箱清水式土器」という土器が盛んに使用されましたが、土器の表面をベンガラ(酸化第2鉄)で赤く採色しており、鉄に強い集団がいたことが推測されます。
地名「穴虫」がその背景を象徴していると感じます。

「穴虫」の語源は、あなぶき(穴吹)⇒穴伏⇒あなぶし⇒あなむし⇒穴虫  と想定しており、朝鮮半島の「あな、あや、かや」地域からの鉄技術に強い渡来人に起因する地名ではないかと考えています。

私は京都地名研究会の所属し、弥生時代・古墳時代にさかのぼる地名を抽出することを趣味にしており、年代のわかる考古遺跡と地名との関連にどうしても目がいってしまいます。蛇足で長々と記載してしまいました。

高口定雄(茨城県日立市)


 

楽器製作家 田中清人 さんのコメント...

たいへん興味深く、おもしろい話をありがとうございます。
いろいろと参考になります。

私の生まれ育った地には金属精錬に関係した地名がいろいろありまして、
別府(べふ)などはその最たるものですが、他に多々良、鏡があります。
http://www.kiyond.com/kameyama.html
この地で、日本最古とされるの梵鐘が鋳造されているのも頷けるところですが、
その地に横枕遺跡という旧石器時代~弥生時代中期前半の遺跡があります。
その出土物で私が興味深いのは砥石なのですが
http://www.isekiwalker.com/iseki/234866/
(このサイトに写真を投稿したのは私ですが)モノクロ写真で色は判然としませんが
青砥のように見えます。ところが、福岡県では青砥の産地は現在のところ確認されていないので、
どこからか(交易品として?)持ち込まれた可能性もあるのですが、産地がどこなのか興味が湧きます。

余談になりますが、砥石と一緒に撮影されているものに投弾がありますが、
この横枕遺跡から数百メートル西に稲城(いなぎ)というところがあり、
イナギという地は投石を専門にする集団(兵士)が住んでいたという説(鹿島昇説)があるのです。
鹿島氏の説ですから、当然ルーツはシュメールあたりにしているわけですが、
これも完全には否定できません。興味は尽きません・・

高口定雄 さんのコメント...

横枕遺跡、亀山古墳、粕屋町の銅戈鋳型出土の情報ありがとうございます。

別府、別所については、私も興味を持って調べたことがあります。しかし、年代のわかる考古遺跡との関連性、相関性説明が非常に難しく、研究は諦めました。柴田弘武著 全国別所地名事典が有名ですね。

福岡県糟屋郡宇美町を訪問したことがあります。光正寺古墳、宇美八幡宮、宇美町郷土博物館なども見てきました。宇美町は古代不彌国の候補地のひとつですし。 

真の目的は、宇美町に、黒部と同じである小字「黒坊」があることを知り、宇美町役場で、地図上の位置を確認特定する事でした。黒坊は黒部と同じです。特定はできたのですが、何故そこに黒部関連地名があるのか、なぜそこに光正寺古墳があるのかいまだによく理解できていません。

光正寺古墳から直線距離で約6kmに、篠栗鉱山(銅山 糟屋郡篠栗町)があるのですが、山越えになりますし。
篠栗鉱山に行くとすれば、多々良川から直接行った方が早い気がしますし。

現在の仮説は、「大宰府経由で有明海へ抜ける交通の要衝地を確保するため」と考えています。福岡県小郡市津古にも、黒坊地名があるので。

ところで、糟屋郡には、あと一カ所 銅山があります。糟屋郡久山町久原に複数の鉱山があります。多々良川支流の久原川上流です。その多々良川が博多湾に流れでる河口部左岸に、筥崎八幡宮があり、近くの九州大学敷地から銅鐸か出土しています。九州大学北側の箱崎には、小字「コロメキ」があり、この小字地名は、「くろぶき(黒吹)」からの変化地名です。

「くろ(黒)」を「ころ」と読む事例があり、「くろぶき→ころぶき→ころべき→ころめき」という変化を想定しています。「黒吹」という地名が、兵庫県朝来市生野町の生野銀山から約1kmの竹原野にあります。金、銀、銅の鉱物つながり地名ですね。黒吹、穴吹は、同時代の地名だと考えています。

ついつい長くなってしまいました。

「たたら」地名も興味あるのですが、鉄採取場所特定か難しく、諦めています。
昭和30年代の銅の産地は、日本鉱産誌 東京地学協会 昭和31年発行に収められており、私はこのデータを主に使用してます。

高口定雄(茨城県日立市)

高口定雄 さんのコメント...

田中様

志免町の「しめ」について一言

糟屋郡は古い歴史を持つので、志免町の「しめ」については、漢字は単なる当て字の可能性があります。
私が語源として思いつくのは、次の2点です。

1. 水際の砂地を磯辺(いそべ」と言います。
  磯(いそ)の5音変化は、(いさ、いし、いす、いせ、いそ)なので、方言としては、「いし+べ」
  を採用し、更に、接頭語の「い」を省略して「しべ」となった。 「しべ」→「しめ」となった。

2. 砂鉄のことを「渋」と言う場合があります。「しぶ」の5音変化、 (しび、しぶ、しべ、しぼ)のうち、
  「しべ」をたまたま採用し、さらに、「しべ」→「しめ」に変化した。 

バ行からマ行への変化は事例か多くあります。黒部でもそうでした。

川や海の砂地から得られる資源として、ケイ砂や砂鉄があります。ケイ砂は研磨にも使用の可能性はあります。
私の家から約300mは海岸で砂浜ですが、戦後の一時期、砂鉄採取事業をしていたとの記録があります。

「いなぎ」地名も、多くは砂地が多いようですので、ケイ砂や砂鉄を取れる可能性があります。
接頭語「い」+(「なぎ」で、「なぎ」は、人間の動作「泣く」から来ています。目から涙がポロポロ落ちる様から、砂や石か風化や水流によりポロポロ落ちることを、「泣く」といったのでしょう。
「泣く」から、5音変化(なか、なき、なく、なけ、なこ、なが、なぎ、なぐ、なげ、なご)か派生し、接頭語「い」との組合せで、「いなぎ」地名などが発生したと考えられます。

あくまでも、一説であり、事実は不明です。

高口定雄(茨城県日立市)

楽器製作家 田中清人 さんのコメント...

志免についてまで解説頂き、嬉しいかぎりです!
イナギの説明のところの「泣く」という字を見て、ふと思ったのですが
「泣く」は「鳴る」とも通じているように感じたのです。
もしイナギの地名が投石集団と関係があるとすれば、
石を投げる前に紐を回転させたときの音からきていることも考えられそうです。
鏑矢ほどではないにしても、先端に石を包んだ長さが70cmほどの紐を
回転させると、かなりの鳴りが発生するはずです。
これはあくまでも妄想ですが、おもしろいなと思いました。

別府、別所、については菊池山哉氏の「別所と俘囚」では
全国に214箇所の別所と1箇所の別惣という地名が挙げられていますが
別府は含まれていません。
同書では別所のあるところは山深いところが多いと説明されていますが
志免町別府は海に比較的近い平野部です。
そのことから志免町の別府はその地で重要なことを行っているが
一般的な居住地とは隔離されていたのかな・・と思っています。
たとえば、金属精錬で有害物質が発生するとか・・
他人に知られてはいけないような特殊な技術とか・・
余部という地名もそのようなところだったと聞いたことがありますが
(ここ篠山にも昔は余部という地名があったようですが・・
http://www.eonet.ne.jp/~enjoykameoka/page/kaidou/kaidou-7.htm )
そのようなことかな・・と私は考えております。 

それから、宇美と鉄については深い関係があると思います。
宇美は筑前刀鍛冶発祥の地とも言われていて、
出羽三山の舞草(もくさ)鍛冶同様修験者によって始まったとされています。
宇美の場合は三郡山から宝満山になります。
話は妄想拡大しますが、神功皇后が三韓征伐の前に宇美に寄ったのが
武器の調達の目的もあったとすれば、宇美の刀鍛冶はもっと時代が遡ることになります。
日本刀の歴史では日本刀の発祥地は大和とされているようですが、
古墳時代まで遡ると、筑前や出羽が該当するのではないかと思われます。
出羽では蕨手刀が古墳時代終末期から鍛えられていたようで、
それが筑前にも伝わったという説もありますが、これはどうでしょうか・・
筑前にはまた別の系統の刀鍛冶があったような気がします。
これはあくまでも私の想像ですが・・

楽器製作家 田中清人 さんのコメント...

稲城と投石弾兵について、覚書としてブログにちょっと書きました。
http://kiyond.blogspot.jp/2016/06/blog-post_17.html

高口定雄 さんのコメント...

田中様

 覚書ブログ拝見しました。投石についての写真入り説明で、よく理解できました。ありがとうございました!!
 やはり、写真のほうが理解しやすいですね。私はまだホームページがないので、ただいま勉強中です。

 宇美と鉄は深い関係とのこと。コメントありがとうございます。
元気をいただきました。
 私なりに宇美と鉄についてもう少し勉強しようと思います。
そうすることで、私の疑問も解決するかも。

 余談ですが、黒部関連地名調査で、篠山市を訪問したことがあります。
 ・篠山市打坂 黒辺
 ・篠山市高倉 クルビ谷

 しかし、金属鉱物資源との関係がよくわかりませんでした。疑問のままです。

丹波市春日町には、山中鉱山(所在地不明)という銅山があった記録があるので、
あるいは篠山市側にも鉱脈が続いていた可能性があるのですが、
記録が無いためデータとしては採用できません。

 ただ、弥生時代後期の「内場山墳丘墓」が、前記2件地名の中間部 篠山市下板井 にあるので、
もう少し研究する必要を感じています。

 地名は実証が非常に難しいので、大学教授や専門家でも間違っていることがあります。
私のような素人はさらに間違うポテンシャルがあるのですが、仮説をたて、試行錯誤
できるのは素人の特権かと。

高口 定雄(茨城県日立市)

楽器製作家 田中清人 さんのコメント...

篠山にも調査で来られたのですか!
まったく頭が下がります。

3年ほど前に、篠山の波賀野遺跡の現地説明会に足を運んだときに
地元の人から、この近辺の山では昔は銀が掘られていたと聞きました。
http://kiyond.blogspot.jp/search?q=%E6%B3%A2%E8%B3%80%E9%87%8E%E9%81%BA%E8%B7%A1
ここに篠山では珍しい出雲神社があるのは暗示的ではあります。

この波賀野遺跡から数キロ北に位置するところに味間という地名があるのですが
この近辺では銅が採掘されていたようです。
http://kiyond.blogspot.jp/search?q=%E5%91%B3%E9%96%93

味間は篠山の西の端に位置しますが、東端に位置するところにある草ノ上という地名も
篠山の謎を秘めていると私は睨んでいます。
http://kiyond.blogspot.jp/search?q=%E6%97%A5%E4%B8%8B

高口定雄 さんのコメント...

篠山市で、銅、銀が取れたとの貴重な情報 大変ありがとうございます!!
紹介いただいたHPも閲覧し勉強させていただきました。

実は、篠山市が武庫川にもつながっていることに 今回初めて気がつきました。
福知山市と同様に、日本海と瀬戸内海を、弥生時代などの古代から往来できる地理的好条件があったのですね。

丹波市山南町の阿草の南方に山中鉱山という銅鉱山があることがわかりました。味間と近接しています。

篠山市火打岩付近には、珪石を産出する畑鉱山があったとのことなので、篠山市で水晶が取れた可能性も考えられます。
近くの篠山市畑宮に、佐佐婆(ささば)神社があり、延喜式式内社で、江戸時代には「楽々庭明神」とも称していたとのことです。篠山市の「ささ」との関係を含めて、砂鉄を意味していそうで、気になります。

山陰地方の鳥取県西伯郡伯耆町宮原に、「楽々福神社」があり、「楽々(ささ)」とは砂鉄のことをいうそうです。この神社から約7KMの日野郡江府町吉原には、小字「小黒目(こぐろめ)」があります。

余談ですが、有名な楽々福神社としては、鳥取県日野郡日南町宮内にも楽々神社があり、この神社から北へ約7KMのところにも、やはり、小字「小黒目(こぐろめ)」があります。

この小黒目から西へ約6KMの大字阿毘縁(あびれ)付近は砂鉄産地です。
また同じく小黒目から北東へ約6KMの日南町印賀も砂鉄産地で、「印賀鋼」として有名なブランド鋼です。
この印賀鋼は、昭和天皇が皇太子になられる時の儀式で用いた剣に採用されたとのことです。

篠山市下板井の「内場山弥生墳丘墓」は弥生時代の遺跡ですが、四国や山陰地方の影響を強く受けた土器が出土しているとのことです。

鳥取県も山陰地方ですので、前記の日南町と篠山市との関係があるかもしれませんね。

四国地方との関係といえば、地名で、次のことを思い出します。

篠山市鷲尾に小字「穴虫(あなむし)」があります。これは、以前お話したように、「穴吹」から変化した地名です。
四国にも「穴吹」地名があります。

徳島県美馬市穴吹町の「穴吹」ですが、東側に隣接するのは、吉野川市山川町で、古代忌部(いんべ)郷で銅鉱山が多いところです。なお、出雲玉作で有名な島根県玉湯町玉造の東側は、西忌部町、東忌部町です。
東忌部町には、「黒目山」という山があります。

結局、兵庫県篠山市、鳥取県日野郡日南町、島根県松江市、徳島県美馬市・吉野川市で、似たような地名があることがわかります。

篠山市下板井の「内場山弥生墳丘墓」から、四国や山陰の影響を強く受けた土器が出土することと、地名、鉱物が矛盾なく、相関しているように見えます。

田中様からご教授いただいたことで、視野が広がりました。大変ありがとうございます!!

高口定雄(茨城県日立市)

楽器製作家 田中清人 さんのコメント...

ここ兵庫県篠山市と鳥取県日野郡日南町、島根県松江市、
徳島県美馬市・吉野川市に似たような地名があるというご指摘には驚きました。
ご教示頂き、たいへんありがたいです。
これまでまったく知らなかったことで、勉強になりました。
篠山の古墳時代の遺跡から出土する鉄剣などの原料は山南町や西脇の方から
もたらされていたのだろう、と単純に考えていましたが
このすぐ近くの佐々婆神社のササが鉄と関係があるとは、まったく驚きました。
この度の高口様の多くのコメントではたくさんの示唆を得ることができました。
改めまして厚くお礼申し上げます。

高口定雄 さんのコメント...

佐々婆神社が、篠山市以外にないかと調べていたところ、1件発見しました。
なんと、京都府亀岡市猪倉に、篠葉神社(ささば)がありました。猪倉も砥石産地ですね。

篠葉神社から
1.東側へ約4kmの鹿谷に、大谷鉱山(銅山)
2.北東へ、約4kmの北ノ庄に小字「穴虫」
3.南西へ約約8kmに、亀岡市畑野町千ヶ畑「クルビ谷」
  クルビ=黒部=黒辺

篠山市と似た地名があることが共通しています。

高口定雄(茨城県日立市)

楽器製作家 田中清人 さんのコメント...

ご教示ありがとうございます。
不思議なことがあるものですねぇ・・たいへん興味深いです。

穴という字が当てられた地名で読めなかったものに穴人があります。
これは篠山と亀岡に位置する園部にあるのですが
これがなぜシシウドと呼ばれるのか不思議です・・

壬申の乱の後、天武天皇に協力しなかった隼人を
丹波などに追いやったということもあったようですが、
そのことと多田銀山、そして清和源氏発祥の地とされる多田神社
との関係など・・興味は尽きません・・
http://kiyond.blogspot.jp/search?q=%E9%9A%BC%E4%BA%BA

高口定雄 さんのコメント...

1.園部町宍戸(ししど)の宍は、穴とは漢字が異なると思いますが、地元では「宍」の代わりに「穴」を使っているのでしょうか?

宍: ウかんむり   全画数7画
穴: アナかんむり  全画数5画

地名は転記の際に、ミスするケースが多々有り、定着してしまうケースがあります。
日立市でも「貫戸谷(ヌクトヤ)」を、公式記録では「貫戸石(ヌクトイシ)」とした例を発見しました。
江戸時代の絵図から転記する際に、筆記体の「谷」を「石」に見間違いしたものと思います。
「谷」と「石」を筆記体で判別しづらかったのでしょう。

2.地名「曽地(そうじ)」について

 私としては特に知識があるわけではありませんが、「曽」から来て居住するから「曽地」というのも、
 少し疑問を感じます。筑前から来たので、「筑前地」というケースはないなあという程度ですが。

 疑問は別にして、まずは、同様な地名があり、共通性があるかを調べてみることが大切ですね。
 調べて見て、私なりに興味を感じる点を記載してみました。極めて珍しい地名の様です。

 (1)兵庫県養父市八鹿町宿南小字「ソチ口」(読み ソチクチ)

    約6km兵庫県豊岡市日高町久田谷より銅鐸出土、弥生時代
    約6km日高町水上は、砥石産地 「水上砥」
    約8km日高町八代はヒスイ産地
    約11km日高町羽尻に但馬三方鉱山 金、銀、銅、亜鉛、鉛
    約4km日高町久斗に小字「クルビ」  ←クルビは黒部に同一
    約6km日高町伊府(読み イブ)   ←伊福の変形地名

 (2)新潟県柏崎市「曽地」(読み ソチ)

    約2KM柏崎市吉井に弥生時代中期後半の玉作工房「下谷地遺跡」
        菅玉製法は佐渡市の新穂遺跡とおなじ技法を採用。
        佐渡市との交流が想定される
    約3km柏崎市西谷に弥生時代後期の玉作工房「西谷遺跡」
    約6km柏崎市西山町黒部 ←地名「黒部」
    約6km柏崎市西山町二田に物部神社 ←二田物部


 (3)愛知県豊田市足助町「曽地坂」(読み ソウヂサカ)
    現在は小字消失

    約9km豊田市手呂町より銅鐸出土 弥生時代
    約8km豊田市力石町に小字「黒見(くろみ)」 ← 黒部に同じ
    約6km豊田市東広瀬町に小字「船木(ふなぎ)」 ← 船木、舟木は黒部と良く一緒にでる地名
     *舟木と黒部の地名共出関係は、谷川健一、田中巽の有名なだけじゃ説があります。
      私もまったく同感です。

3.長野県中野市柳沢出土の銅鐸 弥生時代中期後半 に関連して

  発見報道当時、現地に行き、見学と地名調査を行いました。

  出土地から
  約6Kmは、山岸小字黒ボウ ←「黒ボウ」は黒部の変形。 黒坊とも記されたりする
  約8km長野県下高井郡木島平村往郷に根塚遺跡 西暦100年頃
                  韓国・加悦系の渦巻把手鉄剣出土
  約8km長野県中野市栗林に栗林遺跡 弥生時代中期の標識土器出土
  約9km長野県中野市日野は、かつて銅鉱産出地
  約10km長野県中野市間山に間山遺跡 弥生時代後期
                  愛知県豊川市を標識とする東海欠山式土器出土
                  石川県金沢市月影町を標識とする北陸月影式土器出土
                  愛知県岩倉市丹陽町伝法寺を標識とする元屋敷系土器出土
  間山遺跡から約5kmは長野県上高井郡高山村黒部 ←黒部地名
                  黒部一帯は弥生時代後期の土器出土
  間山遺跡から約12kmは 長野県須坂市八町 須坂鉱山で銅を産出した
  間山遺跡から約14kmは、長野市小島 小島境遺跡 古墳時代前期の玉作工房
                  緑色凝灰岩・鉄石英などの未製品と砥石ほか出土


4.以下は私の仮説です。地名「黒部」を使用するグループは、水運に長け、金属鉱物資源全般の知識、技術を持っているように見受けられます。
  中国の呉国あるいは楚国からの渡来した人達がいたと考えています。そして、中国、朝鮮半島を往来し、交易をすることで古代ヤマト国内で有力なメンバーにのし上がっていったのでしょう。

 卑弥呼は巫女だったとおもいますが、中国のなかで巫女が最も盛んだったのは、古代中国の「楚」です。
楚は紀元前223年に滅びます。滅びた時に、日本に渡来した人たちが居たのではないかと。
紀元前223年頃は、日本は弥生時代中期です。

楚は「清楚」「四面楚歌」などの用語使用がありますが、「楚」にはバラの花の意味もあります。
楚の中心地は、現在の湖南省、湖北省付近だったようですが、この地域には、ミャオ族が多く住み、雲南省、べベトナム、ラオス、タイにも分布しています。ドンソン文化を共有しているようです。また、長らく文字を持たなかったといわれています。

大阪府茨木市は銅鐸鋳型を出土していますが、「いばら」+「き: 場所を意味する」と考えています。
茨城県も、金属鉱物資源を求めて来た人達が、同じ「いばら+き」の地名を使うグループだったのでしょう。

バラの花の三角のトゲが、中国ドンソン文化の銅鼓にも採用され、日本弥生時代の銅鐸、古墳時代初期の三角縁心神獣鏡にも継続して採用されている背景は、中国の古代「楚」の人たちが渡来したからだと。
   
あくまでも私説です。こういう考え方をする者もいるということで、ご容赦ください。

高口定雄(茨城県日立市)
 

高口定雄 さんのコメント...

追記します。

ミャオ族の人達は、自分達の先祖は、兵主神「し尤」だと主張しています。

高口定雄(茨城県日立市)

楽器製作家 田中清人 さんのコメント...

ご指摘ありがとうございました。
私の勘違いで宍人でした。
http://yahoo.jp/oeTfyg
車で通っていたときに目にした表示板だったので
穴人と思い込んでいました。

それから、曽地については土地のことではなく
鹿児島県にいた曽君という豪族と関係があるのではないか、と思ったまでです。
たとえば小野という地名は小野氏と関係がありますし、その他多くの例があります。

黒部、イバラキの説は興味深く拝見しました。

高口定雄 さんのコメント...

田中様

毎回の書き込みでお手数をわずらわせ申し訳ありません。

茨城県産大泉砥、栃木県産深沢砥と、地名の関係について、情報提供させていただきたく。
2件の砥石産地は八溝山系でごく近傍ですので、同一地質と考えられます。

この地にも、黒部関係地名「クロカタ」が付近にあります。
カタカナ地名でして、漢字で書くと「黒方」だと推定します。

1.地名「クロカタ」 栃木県芳賀郡茂木町小貫小字クロカタ
  < くろべ → くろぼ、くろぼう→ 黒方 → くろかた >の変化をしたと推定

  「船木」地名と近接した事例が長崎県にあります。
   ・長崎県五島市岐宿町岐宿小字黒方(読み くろかた)
   ・長崎県五島市岐宿町岐宿小字船木ノ元
   ・長崎県五島市岐宿町岐宿小字舟木ノ山
   なお、岐宿町から西へ約3kmの岐宿町白石は、遣唐使船が、中国に向けて出発する前に停泊した
   「川原浦」の比定地とされています。

2.砥石産地と「クロカタ」の距離

 (1)深沢砥: 栃木県芳賀郡茂木町深沢上深沢    約3km
 (2)大泉砥: 茨城県桜川市大泉          約9km

3.茨城県桜川市岩瀬小字北着にある長辺寺山古墳との距離: 5世紀後半 前方後円墳


 (1)深沢砥: 栃木県芳賀郡茂木町深沢上深沢    約7km
 (2)大泉砥: 茨城県桜川市大泉          約5km

4.なお、長辺寺山古墳の前を流れる桜川は、最終的に茨城県土浦市の霞ヶ浦へ流れ込みますが、
  桜川河口部の茨城県土浦市烏山には、古墳時代前期の玉作工房である烏山遺跡があります。

5.深沢砥の栃木県芳賀郡茂木町深沢から南へ約3kmは、茨城県桜川市平沢ですが、小字「トットリ」
  があります。
  常識的には漢字で書くと「鳥取」となりますが、氏族伝承で鳥取と記載したのであって、
  元々の地名発祥時の意味は、「砥取」に従事する場所だったろうと推定します。
  氏族伝承や系図ではカッコ良く見せたいので、脚色することがままあるようです。

以上のことからも、古代人は意図を持って、金属鉱物資源を求めて移動していたのではないでしょうか。

砥石の文化を絶やさないように活動しておられる砥取家さん始めご関係者の皆様方には頭が下がります!!

高口定雄(茨城県日立市)

 

楽器製作家 田中清人 さんのコメント...

たいへん興味深い投稿を頂き、ありがとうございます。
古代人は意図を持って金属鉱物資源を求めて移動していた
ということの確たる証拠と言えるのではないでしょうか。
トットリが砥取から転訛してるというのも納得できます。

兵庫県の加古川沿いには西脇市から黒田庄、丹波市山南町にかけて
鉄に関する地名や遺跡、神社が多いのですが、住吉神社が多く見られるのも
私は興味深く思っています。
このことも古代人が意図を持って金属鉱物資源を求めて移動した形跡かな、と思われるのです。
http://kiyond.blogspot.jp/search/label/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E3%81%AE%E8%A3%BD%E9%89%84?updated-max=2009-12-29T19:43:00%2B09:00&max-results=20&start=10&by-date=false

楽器製作家 田中清人 さんのコメント...

この度の高口様のコメントはたいへん興味深く、多くの方々に知ってもらいたいと思いますので
こちらで編集させて頂き、ブログで紹介いたしました。
事後承諾になりますが、どうぞご了承願います。
編集の文について間違い、問題などありましたら、訂正、削除いたします。
確認いただけますと幸いに存じます。
http://kiyond.blogspot.jp/2016/06/blog-post_25.html

高口定雄 さんのコメント...

興味ある内容を紹介いただき大変ありがとうございます。紹介されている図書も読ませていただくつもりです。

篠山市の佐々婆神社の御祭神である「志布美宿禰」について調べていましたら、京都府京丹後市にも、「志布美宿禰」と同じと思われる「志夫美宿禰」を祭神とする神社があり、付近の地名も篠山市と共通するので、ご紹介しておきたいと思います。
篠山市と京丹後市は古代において、金属鉱物資源と人の移動で、極めて関係性が高いことの証と思います。

志布比神社: 京都府京丹後市丹後町大山
       祭神 志夫美宿禰命(しぶみすくねのみこと)ほか

関連地名、遺跡

  (1)約5km 京丹後市弥栄町 黒部
  (2)約4km 京丹後市網野町掛津 穴虫
  (3)約6km 京丹後市弥栄町 船木
  (4)約6km 京丹後市弥栄町 鳥取
  (5)約5km 京丹後市弥栄町 井辺(いのべ) ← 「いんべ」と読むこともできる
  (6)約4km 京丹後市弥栄町国久 小字スイショヤマ ← 水晶山と思われる
  (7)約6km 京丹後市弥栄町野中小字トイシダニ   ← 砥石谷と思われる
  (8)約6km 京丹後市弥栄町溝谷に奈具岡遺跡
          弥生時代中期の玉作工房
          水晶加工工程がわかる。鉄製品、砥石出土
  (9)約12km 京丹後市峰山町荒山 小字キノベ → 篠山市東木之部、西木之部 

なお、キノベは、 吉備に同じと考えられます。キビ → キベ → 連帯助詞「の」を追加し「キノベ」
と変化。

以上の地名はまた、奈良県にもあります。

高口定雄(茨城県日立市)

楽器製作家 田中清人 さんのコメント...

重ね重ね、お礼申し上げます。
篠山と京丹後市に共通した地名があることにたいへん驚いております。
神社の祭神まで同じというのも興味深いです。
今回のものも加えさせて頂きました。

http://kiyond.blogspot.jp/2016/06/blog-post_25.html

高口定雄 さんのコメント...

古代人のパワフルさを侮ってはいけないと感じています。

書き加えのお手数をかけました。ご配慮 大変ありがとうございます!!

高口定雄(茨城県日立市)