神戸のバンドー化学の創始者
阪東直三郎氏が
二十才のときに記した
日記の翻刻本を入手
その頃、氏はここ丹波篠山の
藩士だったということで
なんと、住んでいた場所は
ここから程近い当時の八上新村
デカンショ街道(国道372号線の
八上上(やかみ・かみ)付近の
大銀杏のあたり
日記は明治4年1月(1871年)
から7年1月までの三年間ですが
国内では廃藩置県が
行われるなど
明治になってからの
激動の時代とも言える時期
多感な二十代の影響か
藩士の重責もあってか
明治6年には味覚を
喪失するほどの
精神的ダメージを
受けたようです・・
その日記の中から
今の時期に近い明治5年
12月12日の日記を
紹介しておこうと思います
現代語風に読み下しておきます
間違いなどありましたら
ご指摘願います
明治5年12月12日
早朝に起き、午前中はいろいろ
雑用をする
午後から立町の裏の
黒沢鉄太郎藩士の家に
回覧板を持って行き
しばらく話し込んで
帰ろうとしたところへ
猪肉売りが門の外に来たので
すぐに召し入れ
いっしょに一杯やろう
ということになったので
仕方なく止まった
そこへ須藤氏が来たので
三人で午後2時半頃まで
酒を飲んだ
帰る途中、裏山に
立ち寄ってみると妻が
父親の隠居先で
一杯やっていたので
ついつい一杯飲んだ
それから、小林氏の宅へ行き
瀬川に会いたいと
申し出たところ
すでに帰郷した後だという
ことだった
仕方なく服部氏のところに行き
しばらく談話し
引き返す途中、また父親の家で
一杯やった
食事が終わり
母がお粂(女中か)と
裏山へ行くというので
留守番をしていたところ
関勉藩士が来て
ぜひ外出しようというので
仕方なく家を出て
しまいには広小路前の
米吉という飲み屋まで
来てしまった
そこで一杯やっているところへ
今度は北沢氏が来たので
ようやく午後九時頃に
店を出ることができた
それから他の者は蕎麦を
食べに行ったが
自分は一人だけ辞退し
急いで帰宅、就寝した
読みながら
思わず笑ってしまった・・
この日はけっこう賑やかに
飲んでますな・・
激動の一日・・?
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