岸田劉生23歳のときの自画像
大正3年(1914年)
小説家 松本清張は
画家岸田劉生についてのエッセイ
「岸田劉生晩景」を書いている
38歳で亡くなった劉生の
晩年の自滅的な生活について
その原因は、劉生の画家としての
過剰なまでの自信と
それが故の周りとの軋轢にある
としている
大正4年(1915年)
劉生24歳のときの油絵
昭和4年(1929年)
劉生が亡くなる年の油絵
大正5年(1916年)
劉生25歳のときの油絵
大正15年(1926年)
劉生35歳のときの日本画
大正12年の関東大震災で
自宅が全壊したこともあり
また、美術団体から追い出された
ショックもあり、劉生は京都に移った
重ねてパトロンも亡くなり
洋画が売れなくなった時期でもある
その時期に手慰みか
日本画を多く描いている
京都では骨董店とも親しくなり
古い優れた絵画を蒐集している
経済的に苦しい時期に
多くの古い絵を買い集め
しかも、ほとんど毎日酒に浸り
知人が来ると、ままよ、と
一緒に飲み歩いてしまい
翌朝大いに反省するも
知り合いが来るとはたまた
飲みに出かけるといった具合で
自暴自棄になっていたとしか思えない
その毎日の大酒で
命を縮めてしまったのは
自業自得といえばそれまでだが
世間から見放されたとも
感じていた劉生にとっては
何ともやりきれないものだったのだろう
岸田劉生の代表作とも言える
娘の麗子を描いた作品
「麗子像」
大正10年(1921年)、麗子7歳
劉生30歳のときの油絵
「麗子16歳の像」
昭和4年1929年
劉生38歳のときの油絵
この年に死去
岸田麗子は画家となり
48年の生涯を送っている
この作品は麗子44歳
昭和33年(1958年)のときの油絵
父と本人を描いたものと思われる
東京生まれの劉生は
26歳頃から神奈川県鵠沼で
制作活動を行い
大正10年(1921年)
30歳になったのを期に
日記を付け始め
亡くなる38歳まで続けている
その内大正11年から
13年までの日記が出版されている
その日記にはスケッチも
多く描かれていて
この絵は大正11年1月2日のもの
添え書きは
「大林の子が池に落ちたのを
棟方があげるの図」
これは大正13年1月31日のもので
添え書きは
「佐竹で屏風かく図」
明治から昭和にかけて生きた俳人
杉田久女hisajo
近代俳句における最初期の女性俳人
とされていて、その生涯について
小説家の松本清張は「菊枕」という
短編小説を書いている。
実在の人物を題材に書かれた小説だが
小説での登場人物の名前は
仮名にされていて、清張自身も
主張しているように、小説は
あくまでも創作で自身の想像を含めて書いたものだ、としている。
だが、その小説を読んだ杉田久女の
身内はそうは捉えず、これでは
狂女扱いではないか、と憤慨している。
久女の俳句の師である高浜虚子も
「国子の手紙」と題した小説を書いていて
これは久女からの200通以上に及ぶ
執拗な手紙について書かれたもので
虚子はこの小説を書くにあたっては
娘の昌子さんの了解を得ている
としているが、昌子さんは
小説の内容は事実とは違っていると
反論している。
松本清張はこの内容をも参考に
小説を書いたことは自身も
言及しているが、ここのところは
微妙なところで、何とも判断は難しい。















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