2011年2月10日木曜日

平田家文書 その6

「平田家文書 その1」で少し述べたように、一般の鍛冶職人は刀鍛冶への憧れがあったようで、農具鍛冶職人が京都の刀工である伊賀守金道(いがのかみ きんみち・かねみち)に入門した記録が平田家文書でも見ることができます。
初代伊賀守金道は江戸時代初めの刀工で、徳川家康の命令で百日で千振りの陣太刀を打ち、この陣太刀は大阪冬の陣・夏の陣(参照)で使われたということです。もっとも百日で千振りの刀を打つということは、弟子を使ったとしても金道一人でできることではなく、京都や諸国の手の利いた刀工を門人ということにして手伝わせてもよい、という許可を得て何とか成し遂げたようです。
その功績により家康は朝廷に申請して、金道に「永代日本鍛冶惣匠」という称号を与え、加えて幕府から三人扶持(ふち)を与えたということですが、その結果、伊賀守金道は全国の鍛冶の頂点に立つことになるわけです。
三人扶持は役人の報酬としては低い方ですが、刀鍛冶の地位はもともと低かったようで、三人扶持を頂くということは刀工としては名誉なことだったようです。
たとえば、「その3」で紹介した津山藩工の多田金利の日記では、藩の要人からの注文で相州伝の刀を打ったことが記されていますが、その注文は中間頭(ちゅうげんかしら)を通してのものだったということが記され、出来上がったことを「中間頭に申し達す」と記しています。つまり金利の立場は、足軽よりも下の位である中間よりも低かったということになります。
それに比べると、伊賀守金道は、将軍家康から名誉を受けているので格別ということになります。
金道はその後、刀工の箔とも云える「守・かみ」 「介・すけ」 「掾・じょう」 「目・さかん」といった、官位の受領を朝廷へ申請する手続を行う役を授かることになります。






菱川師宣の「和国諸職人絵つくし(歌合)」より
「かぢ師・鍛冶師」の図(参照
江戸時代初めの貞享二年(1685年)に出版されたもの




同じく「かいすり・貝磨り」の図
見えている説明文は
この太刀の さやは ばくたいの かいが入べき
この太刀の 鞘はバクタイの貝が入べき
バクタイとは貝の種類でしょうか・・・不明
絵の脇にはアワビ貝のようなものが見えますが・・

2011年2月9日水曜日

人造中名倉砥と梅ケ畑内曇砥


You Tube 動画にUPした砥石を
紹介しておきます

これは刀剣研磨用の
人造中名倉の#2000
人造中名倉はいくつかの種類が
ありますが、これまで使ったなかでは
最も気に入っているものです



これまで日本刀研ぎのための
人造中名倉をいろいろ試してきましたが
鉋など木工用の刃物を研ぐには
どれも柔らかすぎて、使いにくかったのですが
これは硬めで反応もよく、充分使えます
使い初めは表面の艶で滑って研ぎ難いですが
使い始める前に表面を磨れば
すぐにこの砥石本来の反応が得られます

商品名は「京東山」
ネット・ショップでも売られています
刀剣用砥石としては驚くほど安価です・・





研ぎ傷が浅く
次は仕上研ぎが行えます






これは三河産(愛知県)の白名倉
この砥石山も今では掘られておらず
入手が困難な砥石になってしまいました


砥面右側の針気がやや当たりますが
悪影響には及びません







これは仕上砥の天井巣板(内曇砥)
京都梅ケ畑の大突(おおつく)から菖蒲(しょうぶ)
かけての間府で採掘されたものだそうです
この間府の天井巣板も珍しいものです

しっとりとした研ぎ感で
心地よく研ぐことができます







そして最終仕上として使った砥石

産地は不明ですが
たいへん硬いにもかかわらず
良く反応し、強い研磨力があります
今ではこういった砥石には
めったにお目にかかることができません

夏屋砥とアルカンサス砥石

You Tube にUPした動画の画像です

これが夏屋砥、明治時代まで岩手県の
夏屋村で採掘されていた中砥
昔は刀剣研磨にも用いられていたということです
今ではほとんど手に入れることはできません

硬めですが良く反応し
強い研磨力があります


これはハイス鋼の寸四鉋身 
粒度は800番といった感じですが
研ぎ傷が浅いので、次の研ぎが楽に行えます

 これは仕上砥の京都新田産巣板
硬めですが良く反応し
強い研磨力があります
ハイス鋼ではなく一般的な鋼でしたら
ほぼ鏡面近くまで仕上げることができます
小振りで、砥石目が横(横桟)に
なっているので
砥石としての商品価値は低いのですが
数ある手持ちの仕上砥の中では
研磨力はトップクラスです



これは京都梅ケ畑中山産の戸前
たいへん硬いにもかかわらす
良く反応し、強い研磨力があります
通常の鉋身でしたら
鋼は鏡面に仕上がり
地鉄(じがね)の肌が
深くはっきとりと現れます


ハイス鋼はこのように
全体にやや曇った感じになりますが
しっとりと冴えて
美しく研ぎ上がります

そしてこれがアルカンサス砥石です
これはアメリカ アーカンソー州で
採掘されたものだということですが
今では僅かしか採れないようです
これは10年ほど前に
理髪店の方から頂いたものです
本来は油研ぎをするものですが
水研ぎもできます

一般の刃物であれば
ピカピカの鏡面に仕上がるのですが
ハイス鋼の鉋身はこんな感じです
クロムメッキのような印象を受けます
前段階の中山産戸前にくらべ
底光りする感じはなく、表面的な艶です
この鉋を使った
黒檀削りの動画(You Tube)

2011年2月8日火曜日

製作中のギター ネックとボディ

画像は数日前の状態ですが
昨日ネックとボディを接着しました

 右が特注ミルク-ル・タイプ(弦長630mm)
左は特注ラコート・タイプ(弦長630mm)


2011年2月6日日曜日

平田家文書 その5

鍛冶仲間から鍛冶仲間の年寄職である
丸一屋右衛門(平田家)出された願書は
印札(現在の登録商標のようなもの)に関する
ことが主なものです
それを紹介しようと思います

これは農具鍛冶職人の主が
亡くなった後の印札に関するものです
これは天明三年(1783年)十月に出されたものです

今回は現代語風に訳してみます

「願い奉る口上書」

私の親にあたる太郎兵衛は
岡崎村で鍛冶職を行っておりましたが
昨年の秋に亡くなったため
印札をお返し致しました

そういった事情がございましたが、この度
鍛冶職人としてうだつが上がらない私が
養子になり、先代の跡を継ぐことに相なりました
そのため、新しく印札を頂きたく
お願い申しあげる次第でございます

付きましては、鍛冶職組合の規定に
違反しないように約束致します
貸し印札や譲り印札を紛失したりという
失態も犯さないことを誓約申し上げます
もし誓約を破るようなことがありましたら
決まりのとうり、印札を取り上げ下さり
職分を差し止め頂いて結構です
その折には何の不服も申しません。 以上。





こちらは、鍵屋の弥助という22歳の弟子が
年季(弟子として奉公する期限)明けないうちに
不埒を行い、親方から職止め処分に
された際の届け出です
時は文化二年(1805年)八月

「鍛冶職止めの事」

右、弥助と申す者、年季が明けない内に
不埒を行ったため、親方の仕平次が
意見をするも弥助は聞き入れず
不埒が重なったため、この度
仕平次より職止めの申し出がありました
致し方なく鍛冶仲間の皆さまへ
お頼り申し入れる次第でございます
以後、右の弥助がどこへ参りましても
弟子にしないようにお願い申し上げます
日雇、庭貸しなども御無用でございます。