左右の三つ巴の軒瓦が
同じ敷地内にあったのだそうです
場所は兵庫県篠山市
同じ敷地内にあったのだそうです
場所は兵庫県篠山市
この二種類の軒瓦が一軒の家に
使われていたのか知りたいところです・・・
不思議なことに、ここまで書いたところで
神戸の福原京跡ではないかとされる祇園遺跡で
左右二種類の三つ巴の軒瓦が
出土しているという情報を得たので
次の日、姫路に行く用事の途中
それが収蔵されている
足を運ぶことにしました
そして、今日になるわけですが
神戸市埋蔵文化財センターに行ってきました
ここには兵庫県に越してきた頃から
何度も足を運んでいますが
2年ぶりに訪れました
目的の祇園遺跡の出土物は
常設展示はしてありませんでしたが
ここでは収蔵庫の様子も見学することができ
膨大な量の収蔵品の中に、ありましたありました
神戸市埋蔵文化財センターに行ってきました
ここには兵庫県に越してきた頃から
何度も足を運んでいますが
2年ぶりに訪れました
目的の祇園遺跡の出土物は
常設展示はしてありませんでしたが
ここでは収蔵庫の様子も見学することができ
膨大な量の収蔵品の中に、ありましたありました
ガラス越しですのでうまくカメラに
収めることができませんでしたが
なんとか様子は分かります
こちらは右巻きの三つ巴の軒瓦です
そしてこちらは左巻きのもの
これを見ると、大きさとデザインが違うので
明らかに同じ屋根に使われていたとは思えません
建物が違うか、時期が違うもののようです
三つ巴の軒瓦が他にもありましたので
ついでに紹介しておきます
これは神戸市中央区の
花隈城跡から出土したもの
神出(かんで)古窯跡から出土したもの
平安時代から鎌倉時代にかけて
ここで焼かれた瓦は
京都にも運ばれていたということです
その他、日用品の食器やすり鉢などは
瀬戸内海沿岸、そして九州の大分県
福岡県北部、さらに西の長崎県まで
運ばれていたようです
運ばれていたようです
福岡県では、菅原道真が左遷させられたことで
有名な大宰府でも確認されています
大宰府庁には、福原に都を遷(うつ)した
かの平清盛も足を運んでいるようですが
これは、清盛が当時の中国
宋との貿易を企てていたため
宋との関係が強い大宰府に交渉をしに行った
という穿った見方もされているようです
平清盛は、都を遷した福原(神戸市)を
貿易港にするつもりだったのでしょうか