2010年7月2日金曜日

不思議な符合(鎧と能)

これはイタリアの古代遺跡である
ポンペイの壁画の一つです(紀元前後 )
この人物はアレキサンドロスとされていますが
この鎧は日本の古墳から出土しているものの中に
よく似ているものがあるのです(参照






それから、これは1983年頃に
加治木義博氏が指摘していることなのですが
上の写真は中国・甘粛省卓尼(チョニ)に伝わる
民族芸能の様子です
この衣装が日本の能装束によく似ています
面をかぶっているのもそうですし
袴のようなものも似ています
それから、注目すべきは右手に持っている刀です
これは日本刀にそっくりではないですか・・
チョニの芸能と日本の能
どちらが古いのかは分かりませんが
これには驚いてしまいます

2010年6月27日日曜日

碧玉と九鬼水軍 その18 

前回紹介した三田市藍本から篠山市味間にかけて、藍本の高川古墳群から出土した大刀と同様の装飾を施された大刀が集中して出土しています。篠山川沿いの山田1号墳からは金銅で装飾された大刀が、2号墳からは単鳳式冠頭大刀、武庫川上流の庄境(しょうざかい)1号墳からは銀象嵌大刀が出土しているのですが、これらの古墳では例外なく鎧・甲に馬具もいっしょに埋葬されています。篠山川の最上流にある雲部車塚古墳も同様のものが出土していて、この古墳は石棺はまだ開けられていないということなので、石棺の中にはさらに多くの副葬品があるものと思われます。
篠山市から三田市にかけて、金属加工に使われたと思われる手焙り形土器も出土しているので、弥生時代の伝統が古墳時代まで続いていたとすれば、大刀の装飾は当地で行われていた可能性も否定できません。



因みに、これは篠山市の箱塚4号墳から出土した特殊扁壺と名付けられている須恵器です。時代は6世紀頃これと同様のものは日本列島で十数例しか出土していないということですが三田市からも2点出土しているのです(参照 )。これは用途は不明とされていますが形状から推測して、「手焙り形土器」と同じように使われたのではないでしょうか。手焙り形土器よりも密閉度が高いので容器内の温度をより高温にする目的があったのかもしれません。




2010年6月25日金曜日

変わった鍔

もうずいぶん前に手入れたものですが
変わり種の鍔です
一見、江戸時代の肥後甚吾風です
木刀か何かに付けられたものでしょうか・・
味わいのよい鉄に金線が象嵌されています


2010年6月24日木曜日

碧玉と九鬼水軍 その17 

ここ丹波篠山には、丹波最大級の前方後円墳である雲部車塚古墳があります。工房からほど近い所ですが、篠山川沿いの地域には旧石器時代からの遺跡もあるので、古代から住みやすい所だったのでしょう。
丹波篠山のように、内陸部の山深い地域では、川沿いに道があったのだと思いますが、古墳時代には古墳を築くために道の整備も必要だったと思われるので、古代の道といっても想像以上に広かったのかもしれません。
また、丹波の古墳ではありませんが、石棺を作るための巨大な石材を、
九州の熊本から大阪や京都まで運んでいたということも分かっています。
ですから物流技術も古代だからといって、決して貧弱なものではなかったはずなのです。
雲部車塚古墳があるところは兵庫県の中央部で、北の
日本海に流れ込む円山川と南に流れる加古川の上流でもあります。加古川に流れ込む途中では「丹波竜」が発見された丹波市山南町を通ります。恐竜の化石が発見された地層「篠山層群」も篠山川の河床に露出していたものです。
山南町といえば、8日に紹介したように、蘇民将来(古代インドの影響)に因んだ神事が行われる神社がありますが、篠山も古代インドの影響を強く受けているので(参照)、その文化は篠山川を通じて伝わった可能性は否定できません。それから、篠山市の味間地域は武庫川の上流にほど近く、その川を南に下る途中に三田市藍本(あいもと)というところがあります(地図参照)。ここに古墳群(高川古墳群)があり、そこから大刀(直刀)が出土していて、それに付けられていた鍔(つば)も良い状態で3点見つかっているのです。




これはその内の一つですが銀象嵌の模様に
隼人紋(参照・九段目)が見られるのです
これには驚きました

2010年6月22日火曜日

碧玉と九鬼水軍 その16 

昨日紹介した銅鏡の銘文の
「八月日十大王」を
「八月日下大王」とする説は
ちょっと無理があるように思います
減筆で画数を減らしたとしても
「下」は「十」にはなりませんし
「八月日」という表現は刀の銘にはよく見られるのです
刀に年紀を入れるようになるのは
鎌倉時代中頃だと思われますが

一つの例として
これは鎌倉時代の名工
景光(かげみつ)の短刀ですが
「元亨(げんこう)三年三月日」
と年紀が入れられているものです
元亨三年は西暦1323年


こちらは室町時代の備前(岡山県)の名工
盛光(もりみつ)の太刀(たち)
「応永二十三年十二月日」の年紀
応永22年は西暦1415年


これは江戸時代中頃の名工
一竿子忠綱(いっかんし ただつな)の刀
「元禄十二年八月日」
元禄12年は西暦1699年

このように、銅鏡の銘文「八月日」
と同様の表現がなされています
このようなことは古来から踏襲されてきた
ことは充分に考えられるのです


刀の年紀には他には
このように「十月三日」と日付を
入れる場合もあります


そしてこの「十二月吉日」
これは日本で好まれる表現で
刀に限らずよく見受けます