2010年6月24日木曜日

碧玉と九鬼水軍 その17 

ここ丹波篠山には、丹波最大級の前方後円墳である雲部車塚古墳があります。工房からほど近い所ですが、篠山川沿いの地域には旧石器時代からの遺跡もあるので、古代から住みやすい所だったのでしょう。
丹波篠山のように、内陸部の山深い地域では、川沿いに道があったのだと思いますが、古墳時代には古墳を築くために道の整備も必要だったと思われるので、古代の道といっても想像以上に広かったのかもしれません。
また、丹波の古墳ではありませんが、石棺を作るための巨大な石材を、
九州の熊本から大阪や京都まで運んでいたということも分かっています。
ですから物流技術も古代だからといって、決して貧弱なものではなかったはずなのです。
雲部車塚古墳があるところは兵庫県の中央部で、北の
日本海に流れ込む円山川と南に流れる加古川の上流でもあります。加古川に流れ込む途中では「丹波竜」が発見された丹波市山南町を通ります。恐竜の化石が発見された地層「篠山層群」も篠山川の河床に露出していたものです。
山南町といえば、8日に紹介したように、蘇民将来(古代インドの影響)に因んだ神事が行われる神社がありますが、篠山も古代インドの影響を強く受けているので(参照)、その文化は篠山川を通じて伝わった可能性は否定できません。それから、篠山市の味間地域は武庫川の上流にほど近く、その川を南に下る途中に三田市藍本(あいもと)というところがあります(地図参照)。ここに古墳群(高川古墳群)があり、そこから大刀(直刀)が出土していて、それに付けられていた鍔(つば)も良い状態で3点見つかっているのです。




これはその内の一つですが銀象嵌の模様に
隼人紋(参照・九段目)が見られるのです
これには驚きました

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

鍔の真ん中の穴の形状が丸に近いのは何故だろう?
当時の刀は両刃の剣だから長円の楕円形なるとおもうのですが。
中心(ナカゴ)にあたる部分は西洋と違い薄く作ってある。
精度が出せないので木で間を埋めるためにあえて穴を大きく作る。
もしかすると槍用の鍔なのかも知れませんね。
木を差し込めるように中空の構造にする。
あるいは神事用に鉄製、青銅ではなく、木刀を使ってた。
大宰府の博物館にも各種常設展示されていますが、いく度に
考えさせられます。
当時の刀の正確な復元されたものを見てみたいものです。

刀剣の銘について
曽祖父が作った亡くなる前の最後の一振りが手元に残されています。
昭和天皇のご即位を祈念して作られたもので
昭和三秋御大典祈稔 と銘があります。
ご先祖様が五島藩時代に長船の地より友成の子孫を招き、作刀を習得したといわれてます。
天皇が即位されるとき臣下からのお祝いの品は、刀鍛冶からの献上品以外お受け取りにならなかったと言われています。
影打ちの一振りだと思い大事にしています。
長崎は戦後の刀狩がとても厳しく、神社等に奉納したものまで
持っていかれており、この御刀も天井裏に隠すようにして保管されていました。

              源 信正

楽器製作家 田中清人 さんのコメント...

古墳時代の鍔のほとんどは卵型で
穴の形状も同じ形を縮小したものですね。
三田市藍本の高川古墳群から出土した3点も同様のものです。
説明では「高川二号墳からは、倒卵形の八窓の鍔をもつ
全長91,4cmの銀象嵌大刀が出土している」
とありますので、槍や木刀の鍔ではなさそうですね。
http://inoues.net/club2/yao_museum.html
このサイトや
http://takara.city.matsumoto.nagano.jp/city/111.html
http://www.pref.yamanashi.jp/kouko-hak/standing/jousetu_mamechisiki.html
上のサイトで、鍔の装着の様子が分かる画像がUPされています。
これを見ると、鍔は単独で茎(ナカゴ)に付けられているのではなく
幾重かになっているようですね。
古いものではありませんが、私も丸い大きな穴の開いた鍔を
持っていますが
これは木刀か何かに付けたもののようです。
画像をこれからブログにUPしようと思います。
甚吾風のデザインで気に入っているものです。