2010年6月21日月曜日

碧玉と九鬼水軍 その15 

この銅鏡は和歌山県橋本市にある
隅田八幡宮に古くから伝えられてきたもので
現在では国宝に指定されています
この鏡は日本で作られたものですが
作られた経緯が銘文として鋳込まれています
一般的にはこのように読まれていますが

この部分の「八月日十大王」
「八月日下大王」とする説もあります
考古学者の森浩一氏は
銅鏡などの銘文(金石文ともいう)では
減筆といって画数を減らすことがあるので
「日十」を「日下(くさか)とする可能性はあるとし
古事記に登場する大日下王のこと
かもしれないとしています
日本書紀では大草香皇子となっていますが
母親は日向(ひむか・宮崎県)の髪長媛(かみながひめ)
というところが意味深であります
大草香皇子が住んでいた所は
河内(大阪)の日下(草香)でありますから
これまで述べてきたように
ニギハヤヒと関係しています
ニギハヤヒという名は世襲されて
代々付けられていた名で
元祖ニギハヤヒは日向に拠点を
持っていたという説も有力なのです
他の説としては佐賀県神埼郡
あるいは、鹿島曻説では大分県の宇佐地方としています
八幡宮の大元宇佐八幡宮がある所です(参照

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

元祖ニギハヤヒ は 卑弥呼では などと歴史には夢が膨らんでいます。
卑弥呼は九州の熊襲、隼人族と連合し、中央に攻め上り
大和地方で勝鬨をあげた。
初期の政権は連合政権だったため交互に政権のトップに座っていたが(10王時代)それに反対した磐井族が征伐された。
などと、勝手に考察しています。
最近お寺や神社の瓦を見るようになりました。

プロフィールの書き方がよくわからないため、ペンネームを併記します。    源 信正

楽器製作家 田中清人 さんのコメント...

示唆をありがとうございます。
森浩一説や神田秀夫説のように
「八月日十大王」の日十を日下とするのは
やはりちょっと無理がありますね・・
そこのところをこれから書こうと思っていたところでした。
5世紀の倭の五王時代は、ご指摘のように
奈良の三輪山周辺と大いに関係があったと思われます。
とくに纏向遺跡は卑弥呼の後を継いだトヨと関係が深いのでしょうね。
隼人はここ丹波の地ともつながりがあり、
丹波と摂津の境である三田市北部の古墳から
隼人紋が象嵌された大刀鍔が出土しているのです。
天武天皇が近江に都を遷した際には
壬申の乱のときに協力しなかった隼人を丹波に
追いやったりもしています。
これらのことも後日書こうと思っていました・・
日本書紀の「犬と蛇が交わって、その後ともに死んだ」
という記述は意味深であります。