2011年1月13日木曜日
2011年1月11日火曜日
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2010年12月31日金曜日
サルタヒコとカモ氏
前回述べた葛城山(奈良県)には、神武東征以前に賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)が勢力を持っていた、と
山城国風土記逸聞(参照)に記されています。後に
賀茂建角身命は八咫烏に化身して神武を導いたという有名な話になるわけですが、後の賀茂氏の元祖でもあるわけです。カモの他の当て字としては、加茂、加毛、甘茂、鴨などありますが、ここ丹波篠山にある居籠神社(いがも)(参照)のイガモはカモとは関係があるのでしょうか、知りたいところです。
葛城山がある大和(奈良県)にはもう一つ三輪氏という古豪が存在します。三輪氏については「碧玉と九鬼水軍」で少し触れましたが(参照)、祖はニギハヤヒです。
つまり葛城の賀茂氏と三輪山の三輪氏は同族ということになります。
賀茂氏は出雲風土記や記・紀では賀茂神戸(かも かんべ)として記載されていますが、出雲の大国主の国譲りでは仲介役として登場しています。
前回紹介した、大和国栖(くず)の主である一言主から
派生したとされる事代主(ことしろぬし・言代主)は、出雲の賀茂神社の主祭神として祀られていますが、事代主は託宣を司っているとされていますので神戸(かんべ)の役割を果たしていたようです。
2010年12月27日月曜日
葛城山と尾張
この葛城国の主は大物主系の物部氏(もののべのうじ)という説があります。もしそうだとすると、尾張連(おわりのむらじ)と熊野連の祖は葛城国ということになり、大物主は
ニギハヤヒと同義ですから、前回述べた吉野の国栖
(くず)族と同族ということになります。それを裏付けるように、尾張連と熊野連は大海人皇子を支援しているようです。
新撰姓氏録では尾張連は火明命(ほあかりのみこと)を祖としていますが(参照)、火明命はニギハヤヒと同義です。
また、熊野連の熊野という地名は以前紹介した九鬼家(参照)の出自地でもあり、やはり大物主系です。
5世紀頃の東海地方は大和王権の軍事的拠点とされていたようで、日本書紀のヤマトタケル東征譚では、
ヤマトタケルに従った者として、美濃(岐阜県)の弟彦公(おとひこのきみ)、伊勢(三重県)の石占横立(いしうらのよこたち)、尾張(愛知県)の田子稲置(たごのいなぎ)、乳近稲置(ちじかのいなぎ)の名が記されています。
稲置は稲城とも書かれますが当て字はともかく、イナギとは紐を使った投石(参照)を得意とした兵集団という説もあります。日本書紀では異佐誤(いさご)と記していますが、日本語では石弾のことを礫(つぶて)とも言います。
川崎真治説によると、イサゴや石・イシは紀元前3000年頃のメソポタミアのウル語あるいはシュメール語の
アサグやアスクが語源であるとしています。
2010年12月26日日曜日
天武天皇とニギハヤヒ
大海人皇子(おおあまのおうじ・後の天武天皇)は、壬申の乱に先立ち吉野(奈良県)に隠棲したとされていますが、舎人(とねり)を通じて美濃(岐阜県)や尾張(愛知県)の地方豪族との連絡を密に取り、武器や兵力の増強を図っていたともされています。そして、天智天皇が崩御するやいなや近江(おうみ・滋賀県)に攻め込み、天皇の皇子である大友皇子を自殺に追い込んで壬申の乱に勝利し、天皇に即位したことになっています(673年)。
この一連の出来事のなかで、大海人皇子が吉野に隠棲したことについては、歴史家により様々に考察されていますが、私が興味深いのは、古代吉野の地は神武天皇東征譚の舞台にもなっていて、大阪湾の草香(くさか・日下)の地に上陸したものの戦いに敗れ、痛手を負った神武が逃げ延びたとされる地でもあるということです。
その地で神武はかくまわれて、大海人皇子と同様に兵の増強を図ったとされています。ということは、当時(弥生時代~古墳時代と思われる)の吉野には神武と同族の民族が住んでいた可能性が考えられることになります。
吉野の地には国栖(くず)というところがあり、大海人皇子はこの地にも足を延ばしているようですが、国栖は隼人や土蜘蛛、熊襲などと同様の正史側から見た蛮族とされています。ということは、
大海人皇子も同族ということが考えられるわけです。
また、大海人皇子が美濃や尾張とも関係があったということは、その地も同族だった可能性もあるということも考えられます。
滋賀県から出土している古代の木製弓
大阪市立博物館刊行
「出土木製品にみる人の知恵」図録から部分転載
されるもので、右の弓は弥生時代のもので
松原内湖遺跡出土のもの
どちらも魏志倭人伝に記されている
「兵には矛・楯・木弓を用う
木弓は下を短く上を長くし
竹箭は鉄鏃あるいは骨鏃なり」
という内容と合致し、
魏志倭人伝が記された当時(2世紀~3世紀頃)
日本列島では主に現在の和弓と
同形のものが使われていたようですが
それが縄文時代からあったということに
驚いてしまいます
因みに、これは弥生時代の銅鐸に
鋳込まれた図ですが
弓は下を短く、上を長くして使っています
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