2011年4月24日日曜日

幕末の出石と江戸



これは出石の旧家から出た
幕末の読本です
題は「野居鷹(のずえのタカ)



 発刊されたのは
文化五年(1808年)
画工は、かの有名な
葛飾北斎であります
江戸深川で発刊されたことが
記されていますから
この本も江戸から
出石に運ばれてきた
ことになります
見開いた右上に
判が押されていますが
但州出石サシガネに▲の下に
米太とあります

この読本は
四巻が綴じられていて
貸し本とされていたようです
上の「米太」という判は
ここに書かれてある
田米屋という貸本屋
のものなのかもしれません
各巻の最後に上のように
「帙本何方(いずかた)
御かし(貸し)
申候共(申しそうらへども)
相済み候はば(そうらはば)
早々御返し下され
(たく)候也(なり)
と注意書きがなされています

2011年4月22日金曜日

千代鶴是秀と運寿是一

HPの「日本刀について」で述べている
石堂運寿斎是一の短刀が今回の篠山刀剣会で
鑑定刀として出されました



写真では分かりにくいですが
地鉄じがねは大変美しく
新々刀期のものとは思えず
大阪新刀や肥前刀と見紛うほどでした
刃文はもんの匂いは深く(刃文が太い)よく揃い
刀工の腕の良さが表れています
新刀期の大阪新刀や肥前刀の刃文にくらべると
やや刃文の明瞭さに曇りを感じますが
匂いの深い丁子刃文に沸にえ
付けることができるのは
江戸石堂派ではこの運寿是一だけだそうで
幕府の抱え工になったのも頷けます

 運寿是一は奉納刀など注文打ちの刀も多く
これもその一つのようです
「奉 出石侯命」と切られていますが
兵庫県北部の出石Izushi藩の藩主による
注文打ちのようです

中心なかごの棟側には
嘉永七年ハ月日と年紀が切られています
(嘉永七年は西暦1854年)

「日本刀について」でも述べていますが
刃物鍛冶で有名な千代鶴是秀(明治七年生まれ)
父親(二代目綱俊 運寿是俊)の弟
つまり是秀の叔父(八代目 石堂寿永)は
石堂運寿斎是一の弟子です
是秀はこの叔父に入門しています
是秀が入門した頃は石堂是一も健在だったので
是秀はおそらく両人から指導を
受けていたものと思われます
ですから、是秀の打った刀が古刀として見られた
という逸話も本当かもしれません

参照:千代鶴是秀作組鑿


2011年4月17日日曜日

桜、サクラ、さくら!

3日前になりますが
4月14日は淡路島を縦断してきました
と言っても、四国の徳島県に用があったので
車で高速道を走り抜けただけですが・・
 丹波篠山から約1時間
淡路島北端に位置する
淡路パーキングエリアで休憩・・
見えている橋は、世界最長の吊り橋とされる
明石海峡大橋


 淡路島の山々は山桜で賑わっていました

パーキングエリアにも
山桜が植えられていました
桜の専門家によると
桜の種類は300種以上あるということです
これはおそらくオオシマザクラかな・・

オオシマザクラにしては
香りがしなかったので
違う種類かもしれません

こちらは徳島県北部の公園で見かけたもの
これはすばらしい香りが一帯に漂っていたので
間違いなくオオシマザクラでしょう 


帰りには、行きと同じ淡路パーキングエリア内にある
オアシスという休憩所に寄ってきました



 無事篠山に戻りました
篠山はまだ気温が低いので
山はまだ緑が少ないですね
咲いているのは、ほとんどが辛夷(こぶし)です

篠山では 山桜はこれからで
ソメイヨシノが満開でした
この小川は、夏になるとゲンジボタルが乱舞する
ホタルの名所でもあります

2011年4月14日木曜日

月と花、そして蜘蛛 

近所に辛夷(こぶし)の木があります
まだ花が満開です

夕方5時半
辛夷の木の上方を見上げると
月が出ています

この月を
辛夷Kobushiの木の下方から覗いたら
宗達風の構図になるのではと思い
カメラを向けてみましたが・・
やはりダメですね・・

辛夷を撮り終えて
工房に戻る途中
満開の桜の木がありました
これはどうやろ・・
とカメラに収めたところ
(カメラといっても安物のデジカメですが)
偶然、桜の枝に蜘蛛が巣を架けていて
その蜘蛛も写っていたのです

これはおもしろいのではないでしょうか・・
宗達も驚くか・・

ここで一句・・

桜花 蜘蛛の糸掛け 月跨ぐ
                           棚柿音(たなかきおと) 


2011年4月13日水曜日

江戸中期の絵師 長沢芦雪

別冊「太陽」で特集された長沢芦雪(ろせつ)
芦雪はここ丹波篠山(笹山)に縁があるのですが
(父親が青山下野守の家臣とされている)
恥ずかしながら私は芦雪のことは全く知りませんでした

宝暦四年(1754年)に生まれた芦雪は
亡くなったとされる記録が二件あり
34歳か46歳ということになっています
死の原因も自殺説もあるようですね・・

芦雪はかの有名な円山応挙の弟子で
ですから、応挙風の緻密でかっちりとした
絵も描いていますが
宗達のような琳派風のものも見られます

この月下桜図屏風(部分)には
琳派風の雰囲気がありますね・・
参照
平安時代から続く大和絵や
その流れを汲む琳派の絵も
ちゃんと勉強していたことが伺えます

芦雪は29歳で絵師として独立した後の
天明六年(1786年)から五ヶ月間
南紀(和歌山県南部)に滞在しています
この絵は南紀に出向いて間もなく描かれたものです
この絵をみて何だろう?と思ったのですが
実はこれは捕鯨の様子を描いたものなのです
手前の黒い山のようなものがクジラなのですね
この大胆な構図には驚きました
これは芦雪の真骨頂といったところですか・・