現在手許にある義廣銘の鉋
二寸鉋(炭素鋼)、真贋は不明、後代か・・
後代と思われます(真贋は不明)
後代と思われます(真贋は不明)
これは初Ubu身の状態で保管されていたものですが
比較的新しいものと思われます
刃物鍛冶の初代・義廣(広)については
そこで義廣について書かれてある「怪物伝」
著者・横山源之助(有磯逸郎)が紹介されています
公開されていますので、それを転載、紹介しておきたいと思います
以下、初代義廣である田中義廣についての記述ですが
旧字を現代漢字に置き換えておきます
( )内は私によるルビ、意訳あるいは読みです
従いまして、文責は私、田中清人にあります
鉋刃物師 田中義広
大工仲間では、義広の鉋といえば、仮令(たとえ)一日の食事を
廃(や)めても、道具箱に一・二丁備えておきたがる
東京帰りの大工が、国許の明輩に誇る一つは
義広の鉋で、顔を合わせて道具の比較をやる時
各種の道具の中より、義広の鉋を出し
同職の羨む顔を眺めて、妙に兄貴風を吹かせている
これを見ても、大工の間に、義広の鉋が持てている様子が判ろう
然れば大工の間に評判を打っているこの義広という刃物師は
いかなる人であるか、私はある日、この鉋の名人義広を
浅草公園の右手、横に五階の見ゆる柴崎町の住所に尋ねた
何か家内に混雑があったものと見え、同家と親戚同様の間柄なる
佐藤米次郎という老人が、記者を一室に迎えて義広の人柄を語る
義広は越後(新潟県)三条在の農夫の子
威勢のよい米次郎老人、記者に茶をすすめながら
私はもう七十に近い耄碌爺、先生方を相手に膝突き合せて
お話するような柄ではありませんが、義広は私あっしと同国同村で
おまけに幾十年の間というものは
兄弟のような、親子のような間で御座いやした
義広の事は、まァ私の外(他)は誰も知ったものは
有りやすめえから、知っただけは、ぶっきら棒に一切合切申しやしょう
はい、田中義広も、素性は越後三条在の小池村という土地の出産で
本名は仁吉と申しやした、父親は孫右衛門といった
中分限の百姓農家の産でありながら
妙に、子供の時より細工物を好めり
子供の時より細工物を好めり
それは文明の今日であれば、百姓の子も、大臣参議になるのは
別に不思議でもありやせんが、徳川の時代では
百姓の子は那処(何処どこ?)までも百姓で果てるのが
習いであるのに、仁吉の慮見(考え)はその様ではなく
なんでも、己ァ(おらぁ)細工人になるんだ、てんで
在所から二里(約8km)ばかり隔たっている与板という
二万石の城下に出て、鍛冶屋に丁稚奉公しやした
はい、これが仁吉が、鍛冶屋に足を踏み入れた
そもそもの最初でげした
ご承知でもありやしょうが越後(新潟県)は
日本では雪で名高い土地、丁稚に這入ったその年でした
山道の出雲崎へ抜ける五里(約20km)ばかりの処に八幡の社がある
仁吉はその社へ、雪の降る寒中に裸詣りして、技量の揚るのを念じた
その翌年、誰に教わったものか、技量を鍛く(みがく?)のが
江戸に限るてんで、未だ真個はんの子供の十歳の時江戸に出でたり
十歳の時江戸に出でたり
はい、仁吉が江戸に出やしたのは、十歳の時でありやした
日本橋の中橋の、あの小川という待合の横手に
この界隈で男を売った鈴田の定さんという鑿(ノミ)の鍛冶屋が
ありやして、そこで革鞋(革製のワラジ=靴のことか?)を脱ぎ
首尾よく、江戸職人の家に身を置くことが出来た
二十歳の時、年期を勤め上げ、一年の礼奉公終わり
二十一の年、下谷の西中町に世帯を持ちやしたので・・・
はい、当時私の親主は、三間町に世帯を持っておりやしたから
私の親父の店請で、世帯を持ちやした訳
二三年西中町に居て、間もなく八丁掘の方に住居を変えやした
安政二年の大地震に名を揚げたり
仁吉の人柄が如何どうと申して、別に容貌に違った所も
ありやせんでしたが、何でも欲気のない事と言ったら
それは、不思議なほど欲気のない人でした
考えていることは、どうしたら良い鉋ができるであろうと、そればかり
焼の入れよう、鞴(ふいご)の吹きよう、炭の継ぎよう
土の使いよう、鋼の用いようを一生懸命に考えて
何時(いつ)も憂鬱ふさぎの虫でいやした
特にチクサという鋼(はがね
千種鋼)にも二通りあって
何れを用いたらよいか、と思案の揚句に思わず口へ現わして
考え考えして居(お)りやした、鋼ばかりで有りやせん
土の使いようでも、普通の鉋師が遣っている荒木田の土は
如何(いかに)もわるい、之にも一ト方ならず苦労し
当時大阪の○十の鉋
(源兵衛のことと思われます)は大評判
鉋は江戸職人に出来ないと定められていやしたが
遂に大阪の本場を圧して、江戸鉋の名声が
日本国中に響くようになりやしたのは
贔屓眼(ひいきめ)では有りやせんが
(原文は贔負となっていますが贔屓のことと思われます)
全く義広の力だろうと思わる
義広の名が揚ったのは、彼(か)の安政二年の大地震の時で
一時(いっとき)に大工仕事が出て、ぱっと義広の名が揚りやした
と、米次郎老人、話説に調子乗り、記者の前に膝をすすめ来る
欲気なき代りに孝心深し
大地震以来は、義広の銘打った鉋は、大工の間に大評判となり
普通の者なれば、儲けるは此時、と大に貯めるべき筈なれど
欲気のない義広は、其様なそんな事に頓着なく
這入ってくる金を財布に集めて、それを自ら携えて
国許の父親に送った、まァ彼(か)の時貯め込んで置けば
土蔵の二ッや三ッは、出来ていたろうに、頓と其様な考慮がなく
当時国許の甥が、放蕩で身を持ちくづし(崩し)
身代の傾けかかったのを見て、父親は心配していることだろう
と百幾十里(400km以上)の道をとぼとぼ歩いて
その貯まった金を携え、毎年国許へ帰って、父親を喜ばせていた
今から思うと、仁吉は孝心深い人でありやしたですから
明治になる迄は、何時も貧乏でしたが、貧乏は
私共と違ってちっとも苦にしなかったのも
今から思うと、仁吉が豪(え)らかったのでありやしょう
職人の中の職人
義広が何時も言って居やしたのは
人間は数ある中の数に入らぬといかねえ
職人の中の職人と為らねえじゃ、死くたばった方が良い
なんて言ってやした、でがしたから家の紋は酢漿(
酢漿草・カタバミ)
でしたが、上羽の蝶(
アゲハチョウ)は、人の長に為る縁起だてんで
酢漿を上羽の蝶の紋に換えやした
名を義広と仕やしたのも、世に自作の鉋を広めたい
という意だと申しやすが、先生、理屈に合って居やしょうかしら
刃答え(応え)、小切れ、旨切れ
鉋にも色々と種類が有りやすが
先ず「六分(一寸六分鉋・身幅約6.5cm)」
「八分(一寸八分鉋・身幅約7cm)」と
恁(こ)う二
タ通あれば(
参照)鉋は揃ったものと見られる
之は大工道具の鉋について申したので
尚 経木鉋という奴が此頃馬鹿に流行って参りやした
之は帽子や菓子箱の中に入れる経木を拵える鉋で
此方で出来る経木鉋(義広の鉋)で削ると
丸で芳野紙(
吉野紙)同様に薄く、すうと、綺麗に出来上がる
何でも鉋は刃答え(応え)、小切れ、旨切れと
恁(こ)う三拍子揃わねば名作とは言われませぬ
刃答えが仕(し)ても子切れが仕ないと駄目
小切れが仕ても、すうと塩梅(あんばい)能(よ)く
旨切れが仕なければ、初手からしぶとい鉋と定まるが
世間の鉋を見ると、刃答え、小切れ、旨切れと
恁う三拍子揃った鉋はまことに寔(まこと)に少ない
不言言、不説説
といって、此の鉋ばかりは、口先で、那処どこ(何処)を
如何どうしたらよい、と教ゆる訳には参らぬ
手で製(こしら)えるからといって、
鉋は手業(てわざ)で出来る者でない
考一つ、脳一つ、心神こころで製えるので有りやすから
全くの処、親が子に教ゆる訳にもゆかぬ
厄介な代物(しろもの)、と米次郎老人
諄々として、鉋を製えることの困難を語る
之で見ると、名人というものは、口や言葉で教えられて
出来るものでないことが判かる
他人を弟子に取らず
前に申したように、義広の製品は、製作は一切秘密に
しておりやすから、他人を弟子に取らず、家の者と、親戚の者
真の五六人で、兀々(こつこつ)拵えておるような
次第でがすから、如何(いか)ほど注文があっても
五六人で拵える製品より多くは出来やせん
損な事だ、とお笑いに為る方もあるが、滅茶羅に世間へ
出しては、義広の名前に拘(かか)わるから
決して他人を弟子に取りやせん
はい、仁吉の歿(亡)くなったのは明治29年(1896年)の八月
長男の義太郎は59才で、つい先頃歿くなり
今は孫の石太郎が、義広を名乗って、弟の仁志太郎と
祖父の名を落とさぬようにと、仕事を励んでおる・・・
明治37年7月~9月
以上ですが、ここで古い鉋に興味をお持ちの方は
この文の中に義廣の兄とされている國弘のことが
一言も触れられていないのに気付かれたかもしれません
鉋の名工義廣、鑿(ノミ)の名工國弘は兄弟と
昔から言われていたようですが
もしかして、本当の兄弟ではなく
東京で鍛冶修行中の兄弟弟子だったのでは・・?
出身が同じ新潟県とうことで
修行中に親密になったということも考えられます
國弘は鉋も打っていて、國弘の鉋身には
これが家紋だとしたら、義廣の酢漿草(かたばみ)とは
家紋が違っているということになります
真実はいかに・・・