2010年12月24日金曜日

砥石の不思議 その2

今回、新たに手に入れた砥石を試してみました


まずこの砥石ですが
2点とも三河産白名倉です
スケールと比較するとお分かりのように
砥石としてはごく小さなものですが
これがたいへん優れているのです
層はおそらくボタンから八重ボタンだと思われますが
右のものの方が粒子が粗いので
こちらが八重ボタンでしょうか
バン層やアツ層のような
中名倉ではないと思うのですが
反応の良さと研磨力は
手許にある他の三河名倉のどれよりも優れています
これを使ってしまったら
他のものは使う気になれません

こういった優れた大物が
昔はふんだんにあったのでしょうね・・



これは上の画像の右側のものです
裏に「岩崎選」という印が押されています
岩崎とは刃物界では著名な
岩崎航介氏とその御子息の岩崎重義氏の
ことだろうと思われるのですが
その御方の検印が押されているものと思われます



You Tube にUPした動画では
研ぎ傷がよく確認できないので
ここに紹介しておきます
まずこれは、最初に使っている人造中砥
シャプトン「刃の黒幕」grit1500の研ぎ傷の様子です




そしてこれは
最初の画像右側の三河白名倉(八重ボタンか?)




左側の三河白名倉(ボタンか?)
中砥でここまで仕上がっていると
後の仕上げがたいへん楽です






これは仕上砥の京都梅ケ畑
中世中山産の曇砥






最終仕上げとして使った
同じく中世中山産の仕上砥

仕上げ砥はさざれ銘砥
紹介されているものです

2010年12月22日水曜日

簗瀬市蔵・初刀匠の合作刀 

この刀は、このブログにコメントをいただく
源 信正さんこと簗瀬(やなせ)哲也氏の
曽祖父の簗瀬市蔵氏と祖父初氏による合作刀で
昭和三年の昭和天皇の即位を祈念して打たれたものだそうです

12月20日のブログにコメントをいただいているように
この刀には刃中に長い金筋(金線)が入っているということですが
御自身、これが金筋なのか自信がないということです
これをご覧になって皆さまどう判断されますか

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以下、簗瀬氏による説明です

簗瀬市蔵の父彦六は備前長船刀匠横山左近介源祐信(友成56代孫)の門人で、祐信が安政三年11月11日福江城下に屋敷知行を下され作刀。万延元年9月15日に五島を辞去するまでの3,4年間滞在した際に長船の作刀を学び(1854~1860)五島神社の宝刀を明治17年に鍛造した。
五島には横山祐信と簗瀬一党にのみが刀工といわれている。
五島神社の御刀はWWⅡ戦後の際、もって行かれました。
裏表に昇り龍下り龍が彫られたのでなく、研磨の時に自然と浮き上がってきたので、宝刀とされたといわれてます。
この刀を作刀したのは、私の曽祖父「源朝臣 簗瀬市蔵 信正」(みなもとのあそん やなせいちぞう のぶまさ)(刀工名 源 信正)です。亡くなる一年前69歳の作で、祖父 初(はじめ)との合鎚で昭和三年に作刀したものと思われます。
彦六は信正の父になります。

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刃中にあるこのような筋を
金筋と言ったり銀筋と言ったりしますが
金筋の定義は、鑑定の指南書などでは
「刃縁や刃中に現れる筋で
沸が凝結して黒く光り輝いている直線状のもの
屈折しているものは稲妻と称する
金筋と同様でも白みを帯びて見えるものは銀筋と呼ぶ」
とされています
とすると、この刀のように
刃文に沿って曲線を描いているものは
稲妻とする方が妥当なのでしょうか・・

人によっては、白熱電球に当てて見て
金色に見えなければ金筋とは言えない
という人もいますので
なかなか判断が難しいところではあります

私が思うところは
この筋は沸(にえ)の凝結が緩いもののように見えますので
薩摩刀によく見られる沸筋とするのが妥当のような気がします
薩摩風稲妻とでも言いましょうか・・
しかし、この御刀は匂(におい)出来のように見えます
匂出来の刀にも沸筋が出るものなのでしょうか・・
不思議といえば不思議です・・

2010年12月20日月曜日

砥石山ロード

19日は京都の東山方面へ行ってきました
ここ丹波篠山から京都に向かうには
国道372号線を南東に進みますが
途中、仕上砥石が採れる亀岡市を通過します(参照
亀岡市近辺は他にも、優れた中砥で知られる
青砥が採れる山もあります
丸尾山方面を過ぎ、京都縦貫道の千代川インターに入るため
372号線から左折し東に進みますが
その道をしばらく進むと神前(こうざき)という所を通ります
この付近も砥石山があり
以前は神前産の仕上げ砥石(参照)や
岡花産の青砥が採掘されていたということです(参照

京都縦貫道が終わると京都市西京区の国道9号線で
それを千代原口の交差点まで進み
そこを左折し嵐山に向かいます
このコースは京都の東部に行く場合の
私のお気に入りのコースです

 ここは嵐山の名所 「渡月橋
桜の時期や紅葉の時期は
大渋滞になるのでここは通りませんが
今の時期は大丈夫です
それでも日曜日なので多くの観光客で賑わっていました

渡月橋が架かっている川は桂川で
この上流は亀岡市になり保津川と呼ばれていて
そこから川下りの船が出ています(参照
亀岡市とその上流の南丹市の
川の西側には仕上砥石の産地八木乃島があり
(千代川インターの近くになります)
東側には大平、新田、愛宕山などの
仕上砥石の山が連なっています(地図参照


嵐山の観光地を抜け、東に向かうと高尾方面
途中から南に進み、しばらく行くと
左側に大きな池が見えてきます(広沢池)
この時はほとんど水がなく干上がっていました
向こうに見える山の奥が
仕上砥石の名産地梅ケ畑地区です
中山、奥殿(おくど)、菖蒲(しょうぶ)等々・・




池の北西側ですが
山向こうが、これも仕上砥石の産地
鳴滝方面になります

そこをさらに南東に進むと仁和寺、竜安寺、金閣寺と
名刹が続きます

金閣寺を過ぎ、大通りに出ると
そこは西大路通の北端にあたり
私はさらに北に進み北大路通りに入り
そこからさらに北の通り、北山通に入ります

12月の北山通はなぜか私は好きなのです
通りの途中、コーヒーで一服した後、街をウロウロし
東山の銀閣寺を目指して車を進めるのです・・
地図参照下さい

2010年12月17日金曜日

お守り刀展拝観

大阪歴史博物館で開催されている
お守り刀展覧会に足を運びました

 地下鉄の出口を出ると
間近に博物館の建物が聳えています
後方には大阪城天守閣が聳えているのが見えるのですが
後ろに立っている高層ビルに呑まれて
ちょっと威厳が消されてしまっています・・





 会場入り口の様子
せっかくなので、常設展示も見ることにしたら
エレベーターで10階まで行くように云われたので
そのようにしました
刀剣展は6階で行われているということです






 10階から常設展示を見ながら
エスカレーターで降りていくと
途中の踊り場が全面ガラス張りになっていて
このように大阪城を望むことができます





 会場内は撮影禁止になっていたので
展示の様子はお伝えできませんが
私の心に残った一振りを
ぜひ見ていただきたいと思います
(販売図録から部分転載)

これは鎌倉時代中期頃の姿をした太刀ですが
作者は岐阜県の吉田政也氏
今年、平成二十二年の新作です
全面が山鳥毛丁子刃文となっています
おそらく岡野家に伝わる国宝の一文字「山鳥毛」を
意識して打たれたものであろうと思いますが
見事でありました
研ぎも氏自身が行ったということですが
妖しいまでの存在感に
時間の経つのを忘れて見入ってしまいました
ぜひ一度手に取って拝見したいものです

その他の展示刀の受賞作は
全日本刀匠会HPで紹介されています





 それからこの短刀は
展覧会とは関係がないものですが
展示会場で販売されていた刀剣誌の
精炎vol.3に掲載されていた
天田昭次氏の作品です
見事な相州伝に息を呑んでしまいました・・





博物館を出ると
天守閣の上には月が出ていて
空の左側には、伊丹空港か関西空港かは
分かりませんが
飛び立った旅客機が間近に・・
このとき、なんとも云えない感慨に打たれてしまったのです・・

2010年12月8日水曜日

特注仕様のラプレヴォット・タイプ完成

が出来上がりました
弦長:640mm









新作 小型モダン・タイプ完成

 新作の小型モダン・タイプが
出来上がりました
弦長:640mm
音出しをYou TubeでUPしました

ボディサイズ
長さ:460mm 上部幅:250mm 
ウエスト幅:205mm 下部幅:330mm

長さ:480mm 上部幅:255mm
ウエスト幅:210mm 下部幅336mm

参考までに
1864年製の弦長650mmのトーレスの
ボディサイズは
長さ:483mm 上部幅:272mm
ウエスト幅:235mm 下部幅:360mm 

























2010年12月2日木曜日

三河白名倉と中世中山仕上げ砥

新たに手に入れた砥石を
早速使ってみました

まずこれですが
京都梅ケ畑地区にある中山間府のなかで
中世(江戸時代以前)から
採掘されている坑道で新たに掘られたものです
前回のものより硬めの
最終仕上げ用のものを手に入れました
入手先:さざれ銘砥




ひじょうに硬いにもかかわらず
よく反応し、心地よく研ぐことができます











そしてこちらは
三河白名倉砥の天上層のものです



これはほとんど仕上げ砥と
云ってもいいくらいです
寛政十一年(1799年)に発行された
「日本山海名産図会」 で
三河名倉砥が仕上砥石として
紹介されているのが納得できます

2010年12月1日水曜日

手焙り形土器は何に使ったのか

先日、主に東海地方で出土している
銅鏃を紹介しましたが(参照
攻める方の武器があれば
守る方の武具もあるはずです
まず考えられるのは鎧ですが
弥生時代の鎧は、古墳時代のような鉄製ではなく
木で作られたものだったようです
それから、弥生時代には盾も使われていたようで
これも木製だったようです

常設展示されているものですが
中央部に丸いものが付いていた痕跡があります


こちらは愛知県から出土している
弥生時代の巴形銅器です
これは盾に付けられていたのでは
ないかという説もあります
そうすると、上に紹介した木製の盾と同様のものに
付けられていた可能性もでてきます

それから、裏側に付けられている金具は
後付けだと思われますが
これを取り付けるには、現在行われている
ロウ付けと同様の作業が行われたものと思われます
そうすると、このときに手焙り形土器が使われた
可能性があるのではないでしょうか


こちらは佐賀県から出土しているものですが
この鉤状の突起も後付けと思われます
これらを作るための刃物や工具を
加工する際に手焙り形土器が
使われていたのかもしれません(参照

2010年11月28日日曜日

滋賀県出土の手焙り形土器 その2

下に紹介した地図の黒い点で示されているところは
古代の製鉄関連の遺跡です
時代は古墳時代から平安時代まで確認されているようです
鉄の原料は地元で採れる鉄鉱石を
使ったものとされています

遺跡は、滋賀県の中央部を占める

琵琶湖参照)の西側 に集中していますが
その地域は天日槍が通ったとされるルートと
合致しているのは興味深いところです
因みに、天日槍が渡来してきたとされる時期は

5世紀~6世紀前後という説が有力です

志賀町史から部分転載

(高橋一夫氏「手焙形土器の研究」から部分転載)
さてこちらの図は、弥生時代から
古墳時代にかけて使われていたとされる
手焙り形土器が出土している所ですが
琵琶湖の東側に集中しています
時代は上に紹介した製鉄関連の遺跡よりも
古いということになりますが
この違いは文化圏の違い
あるいは民族の勢力圏の違い
としか考えられないのです


(赤塚次郎氏による「東海系文化の拡散」より部分転載)
そう思いながら、たまたま目を通していた
「三国志がみた倭人たち」という本に
その文化圏の違いを

図示したものが載せられていたのです

これは青銅製の鏃(やじり)
多くの穴が開けられた
多孔銅鏃というものと
S字(かめ)A類と云われる土器の出土地が
示されている図です(●が土器の出土地)
こうして見ると、先に紹介した
手焙り形土器の出土地と
重なっていることが分かります


2010年11月24日水曜日

2010年11月22日月曜日

晩秋の丹波

昨日のことになりますが
近くの山へ紅葉狩りに行ってきました
観光地ではないので
日曜日でも他に誰もいません
2時間ほど山歩きをしました

雑木の中で赤くなっている紅葉が
日光に映えています
これくらいの感じがいいですね・・



小山の頂上からの眺め


この山は石英質の岩山ですが
頂上の岩に誰かが丸い転石を置いていました
底が平らに加工されていたので
何かの目的で置かれているのでしょうか・・
長さは12cmほどの石です

不思議なことに、この石は
この山でよく見かける石質なのです
人工的に加工された形跡は
底の部分しか見られませんので
やはりどこかから持ち込まれたものと
思うのですが、転石になるような
大きな川は近くにはありません
はて?・・・