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2010年8月2日月曜日

不思議な符合(隼人と錫)その3

前回のコメントで指摘があったように
私も隼人発祥の地は、鹿児島県の大隅半島と薩摩半島の付け根にあ
る隼人町近辺だと思っていました(参照地図
そのように説明されている歴史書もあるくらいです・・
ところが今回、錫の産地である薩摩半島の錫石の産地を調べていて
錫産地の錦江高原から錫山街道を西に10数キロ行った所にある
阿多地区が(参照地図)どうも阿多隼人発祥の地
である可能性が強くなってきました
現在の隼人町は昭和4年(1929年)に改称されたもので
それ以前は西国分村だったということです
阿多はもともと吾田と書かれていたようですが
地元では日本で初めて稲作を行った所とされていて
それは猿田彦が持ってきたと言われています
猿田彦といえば、銅鐸民族の代表的な神でもあるのですが
鹿児島県では今のところ銅鐸は発見されていないようです

ところが、この銅鐸は
鹿児島県から出土しているとされる
謎の銅鐸なのです・・
これは、文化人類学者の加治木義博氏が
「日本人のルーツ」という本で
紹介しているものです
それ以外ではほとんど見かけません

銅鐸好きの私から見ると
一般的な銅鐸とはかなり異質です
周囲の装飾に明らかな隼人紋が見えるので
参照:この頁の九段目)
東南アジア経由で日本に入ってきた
ものだと思うのですが
もし、この銅鐸が阿多地域で
出土しているとすれば
その地で作られた可能性も出てきます


因みに、これは古代インダス文明の地
モヘンジョ・ダロから出土している装身具です
隼人紋と同じですね・・
時代は紀元前2600~1800年

モヘンジョ・ダロといえば
例の額に青銅製のリングを付けている神官像が出土している所なのです
参照


2010年10月15日金曜日

三つ巴紋と猿田彦

猿田彦が祀られている神社に三つ巴紋はないものと思っていましたが、
三重県鈴鹿市の椿大神社が三つ巴紋であることを知りました。
猿田彦と椿(つばき)については、古賀登氏による長大な論文がありますが、
それについては後日述べるとして、なぜ猿田彦を祭神とする神社に
三つ巴紋が付けられたのでしょうか・・
こういった重層性とも云える現象は猿田彦に関する事象に
よく見られるのですが、それはそれだけ猿田彦が古くから
各地に大きな影響を残したからだと思われるのです。
サルタヒコは特定の人物名ではなく、ニギハヤヒや玉依姫などのように、
ある民族グループの代表的世襲名だったものと思われます。
そして事ある時々に、天孫降臨の道案内をした代表者がいたり、
南西諸島に居たときには塩土老翁(しおつつのおじ)とされたり、と
人々の記憶に残っていったのではないでしょうか。
また、サルタヒコの死因が溺死で、その原因が海に潜っていて
大きなシャコ貝に挟まれたという言い伝えもその一つの出来事だと云えます。
シャコ貝はサンゴ礁の海域に生息するので、日本では沖縄近辺となります。
昨日述べたように、私見ではサルタヒコ族が最初に日本に上陸したのは
鹿児島県南西部の阿多隼人の地としましたが(地図参照)、
サルタヒコ族のルーツを西アジアとした場合、
その後 インド南部経由で東南アジアに至り、南西諸島を経て
鹿児島に入ったことになります。



この神社は、ここ篠山で唯一猿田彦が
祀られている居籠神社(いがも神社)
風前のともし火で
地元の人にも忘れ去られようとしています


2017年10月7日土曜日

山下陽子さんの絵

ウェブ上でたまたま目にした
山下陽子さんの版画
アンモナイトを二つ合わせたようなモチーフに
手持ちの自分で接着したアンモナイトを連想した

これですね・・

それからこれはドイツ在住の芸術家
八嶋美和子さんが描かれた絵

私が同じくらいの大きさのアンモナイトを
二つ接着しようと思い立ったのは
この形が隼人紋に似ているからなのだが
山下陽子さんと八嶋美和子さんが
何故このような形状のものを描かれたのか
興味が湧くところであります・・

山下陽子さんの絵には不思議な雰囲気があるので
画集でもないかな・・とネット検索したら
「アナムネシスの光芒へ」という
不思議なタイトルの画集が見つかったので
手に入れてみた・・

アナムネシスは魂の記憶の想起という意味らしいが
そういった概念を連想させる絵を描いている
15名の画家が紹介されている
ところが多くの絵がオドロオドロしく
もっと健康的でカラっとした絵が
あってもいいのでは・・と思ってしまった
そんな中で、これはいいなぁと感じたもは
瀬戸照Akiraさんと山下陽子さん

瀬戸照さんの絵
タイトルは「石」
自然のものをそのまま描いたものと思われるが
カラっとしていて好感が持てる

そして山下陽子さんの絵
幻想的でもオドロオドロしさがなく
さわやかで美しい
ルドン風の異次元を感じさせる雰囲気もある

こちらは山下陽子さんが挿画を描かれた
A・タルコフスキーの小説
映像作家が書いた小説ということもあるのか
読んでいると情景が鮮明に浮かんでくる
読み進める途中に現れる山下陽子さんの挿画がまた良い
登場人物の主人公は実在した人物で
1822年に亡くなっている
先般修復したディタル・ハープが作られた頃の人物でもあるので
感慨深いものがある・・


これは本を撮影していて
誤ってシャッターを押してしまい
写っていた室内
何だか幻想的・・?

2017年2月2日木曜日

三田市立図書館で古墳の出土物の展示


兵庫県三田市Sanda-cityにある市立図書館
市内の古墳から出土している
金属器の展示がなされています(2月5日まで)
三田市には600基ほどの古墳があるということで
今回の展示は6世紀頃の3ヶ所の古墳から出土した金属器が
保存処理を終えたのを機になされ
「よみがえるいにしえの副葬品」と題して公開されている
ここに紹介したのはその一部

これは冠などの装飾金具 

付けられている丸いものは
ガラスでしょうか・・


これは折れた直刀の元部分と鍔Tsuba



これは銀象嵌Zouganが施された刀装具


文様は隼人紋でしょうか・・参照 

これは鉄に鍍金Tokin(金メッキ)がなされたもの


鉄製の鏃Yajiri
惚れ惚れとする造形・・


左上は鉄釘らしい 

短めの直刀
茎Nakagoの穴も確認できる

馬具と鹿の角で刀装された刀子Tousu


大刀の飾り金具



2010年6月24日木曜日

碧玉と九鬼水軍 その17 

ここ丹波篠山には、丹波最大級の前方後円墳である雲部車塚古墳があります。工房からほど近い所ですが、篠山川沿いの地域には旧石器時代からの遺跡もあるので、古代から住みやすい所だったのでしょう。
丹波篠山のように、内陸部の山深い地域では、川沿いに道があったのだと思いますが、古墳時代には古墳を築くために道の整備も必要だったと思われるので、古代の道といっても想像以上に広かったのかもしれません。
また、丹波の古墳ではありませんが、石棺を作るための巨大な石材を、
九州の熊本から大阪や京都まで運んでいたということも分かっています。
ですから物流技術も古代だからといって、決して貧弱なものではなかったはずなのです。
雲部車塚古墳があるところは兵庫県の中央部で、北の
日本海に流れ込む円山川と南に流れる加古川の上流でもあります。加古川に流れ込む途中では「丹波竜」が発見された丹波市山南町を通ります。恐竜の化石が発見された地層「篠山層群」も篠山川の河床に露出していたものです。
山南町といえば、8日に紹介したように、蘇民将来(古代インドの影響)に因んだ神事が行われる神社がありますが、篠山も古代インドの影響を強く受けているので(参照)、その文化は篠山川を通じて伝わった可能性は否定できません。それから、篠山市の味間地域は武庫川の上流にほど近く、その川を南に下る途中に三田市藍本(あいもと)というところがあります(地図参照)。ここに古墳群(高川古墳群)があり、そこから大刀(直刀)が出土していて、それに付けられていた鍔(つば)も良い状態で3点見つかっているのです。




これはその内の一つですが銀象嵌の模様に
隼人紋(参照・九段目)が見られるのです
これには驚きました

2013年6月25日火曜日

兵庫県三田市藍本にある高川古墳群


ようやく工房前のアジサイが咲きました

 もう随分前になりますがHPの方で
ここ丹波篠山の南に隣接する
兵庫県三田さんだ市藍本にある高川古墳群から
出土した大刀たちの鍔を紹介したことがあります
銀象嵌ぞうがんで隼人はやと紋が描かれているのですね・・
その発掘調査報告書をようやく手に入れることができたので
原色の画像をHPでも紹介しました
この鍔つばは2号墳から出土しています

 以下は2号墳のその他の出土品


これは耳環と思われますが
金メッキと銀メッキが施されているのでしょうか・・
報告書では鍍金(金メッキ)については説明されていましたが
銀色のものについては
「肉眼で見たところほとんど銀色」と記載されているだけで
銀メッキについては言及されていませんでした

青色と黄色の小玉はガラスで、白い切子玉は水晶
右下の管玉3点は碧玉(参照

奈良時代から平安時代にかけての須恵器

こちらは1号墳から出土した土器
古墳時代から江戸時代のものが出土しているとうことで
この古墳は交通の要所にあったため
古墳時代以降も墓として使われたのだろうと推察されています


2010年9月25日土曜日

篠山市味間 二村神社


篠山市味間の二村(ふたむら)神社は
文保寺と並んで建てられています
この立派な門は文保寺の桜門
奥に二村神社の鳥居が見えます


右が二村神社、左は文保寺へ続く道



篠山には二村神社が三社あります
本来は見内という所にある二村神社だけだった
ということですが室町時代に座争いがあり
ここ味間の地に御神体が運ばれたそうです
地図参照



こちらは奥の神殿
神社一帯は静謐、清浄な空気に満ちています 


こちらは奥の新田


神殿の屋根には三つ巴紋が見えます
この神社は松尾山と白髭(しらが)岳の麓にあり
この地域は銅を産出していたということですから
白髭と銅とくればもうサルタヒコしかありません・・
ここ篠山には、天武天皇の世に壬申の乱の際に
天武天皇に協力しなかった隼人を
篠山に追いやった歴史がありますが
天武天皇が遷都した近江の地には白髭神社があり
祭神は当然サルタヒコであります
近江と篠山のこの不思議な符合も
追及してみたいことの一つであります

2010年8月8日日曜日

不思議な符合(隼人と錫)その6

鹿児島県の大隅半島で出土した銅矛がどのようなものか見たくて調べてみましたが、ネット上では東京国立博物館で展示されているということまでしか分かりませんでした。なんとか形だけでも知りたいと思い、以前手に入れていた資料を手当たり次第めくるしかない、と何気なく書棚に目をやったら、「古代九州の遺宝:鏡、玉、剣」という図録が目に留まりました。かなり古そうです。いつ手に入れたのかも覚えていない・・。これに載っていなかったら諦めるしかないなと思いながらめくっていたら、ありました、ありました。

モノクロですが、鹿児島県出土の銅矛が
1点載せられていました
説明には曽於郡有明町野井倉下原出土とあります
時代は弥生時代後期 長さ81,8cm
曽於郡は現在の志布志市(地図参照
この形状の銅矛は中広形と言われ
九州各地で見られるものです
鹿児島県では今のところ
この1点しか出土していないようです
鹿児島県では何故か古代の青銅製品の
出土は少ないのです

源信正さんからのご教示で
東京国立博物館HPの画像を紹介しておきます



ページをめくっていて驚いたのは
この銅戈(どうか)です 長さ10,2cm
これは参考品として展示されていたもの
のようですが、中国遼寧省から出土している
戦国時代(紀元前403年~221年)のものです
なんと、茎(なかご)部分に
三つ巴紋があるではないですか・・