2010年10月16日土曜日

猿田彦と翁

昨日、猿田彦の死因について少し述べましたが、
お気付きの方もあったかもしれませんが、この話は
インドネシア近辺の説話なのです。それが古事記では、
猿田彦が伊勢(三重県)の阿邪訶(あざか)にいる時、
(いざり)をしていて比良夫(ひらぶ)貝に手を挟まれて
溺れ死んだとなっています。
この阿邪訶という地名は、現在の三重県阿坂(地図参照)と
するのが一般的のようですが、阿邪訶は地名ではなく、
沖縄で言うアザカイであるという説もあります。
アザカイとはシャコ貝のことで、ですから、インドネシア系の
「猿がシャコ貝に手を挟まれて死んだ」という説話が
沖縄経由で伊勢地方に伝わったとする方が理に適って
いるのではないでしょうか。比良夫貝についてはよく分かって
いないようですが、タイラギのことではないかという説もあります。

以上のような、南方系の説話が日本の神話になっている
ということは他にもあります。たとえば、マレー半島の
ワニだましの説話が日本書紀の因幡(いなば)の白ウサギになっていたり、
他には卵生神話や蛇体神話もあります。
それから、日本各地に残る羽衣伝説の地の一つに、
滋賀県北部の余呉湖がありますが、この地は近年(昭和40年代)まで
焼畑農業が行われていたということです。ということは、
この地の羽衣伝説は南方から伝わってきた可能性があります。
このことは、滋賀県から銅鐸が多く出土していることと
何か繋がりがあるのではないでしょうか。



今日の篠山
工房からの眺め

2010年10月15日金曜日

三つ巴紋と猿田彦

猿田彦が祀られている神社に三つ巴紋はないものと思っていましたが、
三重県鈴鹿市の椿大神社が三つ巴紋であることを知りました。
猿田彦と椿(つばき)については、古賀登氏による長大な論文がありますが、
それについては後日述べるとして、なぜ猿田彦を祭神とする神社に
三つ巴紋が付けられたのでしょうか・・
こういった重層性とも云える現象は猿田彦に関する事象に
よく見られるのですが、それはそれだけ猿田彦が古くから
各地に大きな影響を残したからだと思われるのです。
サルタヒコは特定の人物名ではなく、ニギハヤヒや玉依姫などのように、
ある民族グループの代表的世襲名だったものと思われます。
そして事ある時々に、天孫降臨の道案内をした代表者がいたり、
南西諸島に居たときには塩土老翁(しおつつのおじ)とされたり、と
人々の記憶に残っていったのではないでしょうか。
また、サルタヒコの死因が溺死で、その原因が海に潜っていて
大きなシャコ貝に挟まれたという言い伝えもその一つの出来事だと云えます。
シャコ貝はサンゴ礁の海域に生息するので、日本では沖縄近辺となります。
昨日述べたように、私見ではサルタヒコ族が最初に日本に上陸したのは
鹿児島県南西部の阿多隼人の地としましたが(地図参照)、
サルタヒコ族のルーツを西アジアとした場合、
その後 インド南部経由で東南アジアに至り、南西諸島を経て
鹿児島に入ったことになります。



この神社は、ここ篠山で唯一猿田彦が
祀られている居籠神社(いがも神社)
風前のともし火で
地元の人にも忘れ去られようとしています


2010年10月14日木曜日

隼人紋と猿田彦

下の写真は、ベトナム ドンソン文化(紀元前300~紀元100)の遺跡から出土したとされる青銅製の鐘です。高さは11cmほどで、以前紹介した滋賀県出土の小型銅鐸のレプリカ(参照)とほぼ同じ大きさです。ドンソン文化の青銅技術を持った民族が
日本に入ってきて、弥生時代の銅鐸を作ったのではないかという説がありますが、この鐘は銅鐸のルーツと言えるものなのかもしれません。
興味深いのは、この鐘に鋳込まれている文様ですが、これは隼人紋と同じなのです。隼人紋はHPで紹介(参照:九段目)しているように、縄文時代から見られるので、その頃から隼人系民族が日本にやって来ていたということになりますが、紹介した青銅製の鐘が事実ドンソン文化のものだとすれば、サルタヒコも隼人族と関係があるということになます。
古代筑紫国(福岡県)は猿田国と呼ばれていたという説もありますが、それ以前には九州全体が猿田国だったという説もあります。
先日紹介した鹿児島県霧島市の高千穂峰山頂に刺されている「天の逆鉾」にサルタヒコと思しき顔が付いているのは、その説を裏付けるものなのかもしれません。
そして高千穂峰の西に位置する阿多隼人の地こそ、最初に
サルタヒコが九州に基地を構えた所なのではないでしょうか(参照





2010年10月13日水曜日

19世紀ギター ラプレヴォット ネックとヘッドの加工

19世紀ギター ラプレヴォット・タイプの
ネックとヘッドを加工しました

動画をUP 
その1 ヘッド厚み仕上
その2 ヘッド角度仕上
その3   ネック加工1
その4   ネック加工2
 


これは仮組みをしているだけで
まだ接着はしていません
ネックを削り、メープルの付き板(ベニヤ)
巻いた後接着します

2010年10月12日火曜日

天の逆鉾と猿田彦

鹿児島県霧島に聳える高千穂の峰の頂上に「天の逆鉾」が突き刺さっています。これを違った角度から見たものが下の写真ですが、顔の正面の裏側にも同じ顔があることが分かります。
両方の尖った鼻を持ったこの人物を加治木義博氏は猿田彦ではないかとしているのです。 この逆鉾は出ている部分が約1,5mあり、その他の部分がどれくらいの長さがあるのか不明のようですが、いつの時代のものかも分かっていないようです。
加治木氏はこれを、神功皇后が新羅を討った際に新羅王の門に突き立てた矛であるとしているのですが、これにはちょっと無理があります。日本書紀では、神功皇后が杖としていた矛を突き立てたとされているので、大きさから云ってもちょっと納得できません。それに、もし新羅王の門に突き立てたものだとして、朝鮮半島からこの鹿児島県の山の頂上までどうやって移動させたのでしょうか・・
その必要性は何だったのでしょうか・・。
私はこの逆鉾を見て、中国三星堆遺跡から出土している青銅器を連想したのです(参照)。