とされている銅鐸を
紹介します
左が福井県から
出土したもので
右は徳島県から出土したもの
共に国立歴史民族博物館に
所蔵されているものです
このように大型でエラ部に装飾が付いているものは
銅鐸が作られた時代の
終末期に見られます
ということは、上の
鹿児島県出土とされる
ものはエラ部の装飾が
多いので終末期のもの
なのでしょうか・・
残念ながら大きさが
分からないので
何とも言えないのですが
高さが50cm以上なければ
終末期ではないとも言えます
それに加え
形状が日本の銅鐸
らしくないのが
何とも不思議で
三星堆遺跡から出土している銅鐸状のもののように
日本銅鐸のルーツととらえた方が無難のようです
東南アジアの銅鼓を
銅鐸のルーツとする
説もありますが、ちょっと
無理があるように思います
9 件のコメント:
加治木義博氏 日本人のルーツ の中に大きさを比較できそうな写真があります。
大きさの比較で
1 謎の銅鐸型祭器(伝鹿児島県出土)
2 カンタロス型祭器(べトナム)
3 絵画銅鐸(神戸桜が丘4号鐸レプリカ)
4 甬鐘(中国春秋時代)
が並べてあります。
(1)の大きさは50cmくらいか?
微妙な大きさです。
源 信正
ありがとうございます。
しかし、この銅鐸は今どこにあるのでしょうか・・
三星堆遺跡のものは紀元前5~3世紀のもので
高さは24cmとなっています。
私も探して見たのですが・・・ないですね。
1998年は考古学の発見が多かったのですが、吉野ヶ里で九州初の銅鐸発掘とあります。
加治木義博氏の日本人のルーツが発刊されたのが1983年
この15年の差をどう考えるか・・・
ノストラダムスのなんたらを書いてた人だからな~
この銅鐸は深く追うと変な方向に進むかも。
それより面白い記述を見つけました。
・・・鉄鐸・・・隼人が鉄剣の供給地・・・
’隼人研究室’というブログがあり、藤原京に大嘗宮発見という部分があります。少し興味をそそるかも。
源 信正
加治木義博氏の本は、ノストラダムスには関心がないので
持っていませんが他のものは皆持っています。
どの著書も論理的で、頭脳明晰という印象を受けます。
氏の碩学ぶりには感心するばかりなのですが、
その分飛躍しすぎの説もまま見受けます。
「卑弥呼を倒したのはスサノオだった」とか・・
ですが、邪馬台国の位置の比定は宮崎康平氏の説よりは
より真実に近いような気がします。
ただ、加治木氏も倭国を日本列島だけとしているので
ちょっとズレが生じていますが・・
話がズレてしまいましたが、加治木氏のノストラダムス関連
の著書ではどのようなことが書かれてあるのでしょうか。
その内容のどういったところが、伝鹿児島出土の銅鐸と
関係があるのでしょうか?
「隼人研究室」じっくり拝見したいと思います。
加治木氏真説ノストラダムスについては、ベストセラーランキングにものり、世紀末が過ぎた後ネット上で、いろんな方が評価してます。
たしかに、他の著者と違い原仏文での解釈を論理的に行っています。
私がノストラダムスを嫌いなだけです。官僚の答弁のようにどうとでもとれる、うやむやな表現(フランス語は私はできません)で聞く人に勝手に創造させて勝手に納得させる心理学手法をとっているからです。
伝承の場合は時代が進むにつれてうやむやになりますが、ノストラダムスはあえて詩を使ったからです。自信があるのならあえて、きちんと明文化して自己表現しなさいとノストラダムスが生きてたら言いたい。
伝鹿児島出土の銅鐸については、せめて、保管場所の明記があれば・・・・しかし、個人所有物ならそうは行きませんね。内緒で撮影させてくれたのかもしれないし。
美術館や土地の研究家がだれもそのことに触れてないことが気になるんです。
黙殺されたのか、神社等の秘密のお宝なのか。
加治木義博氏ご本人にお聞きしたいですね。
源 信正
日本にも聖徳太子の予言書などというものがありますね。
いつの時代のどの国の人々も予言というものには
興味があったようですが、古代では最も重要な事柄で
あったのかもしれません・・
戦乱で国を捨て海を渡った人々などにとっては
それこそ命がけですからね・・
平安時代に宮廷に仕えていた安倍清明や賀茂光栄と
同じような役割をノストラダムスも果たしていたのでしょうが
信長、秀吉、家康といった日本の時の権力者も
お抱えの超能力者を側近としていたのは当然かもしれません。
仕えていた者は一つ間違えば討ち首ですから
予言はできるだけあいまいな方がよかったということは
考えられます。
ノストラダムスはどうだったんでしょうか・・
古代に海を渡って日本の鹿児島南東部に上陸した
一団はまず何を行ったのか興味が湧くところです。
同じ所に鑑真一行が辿りついたということも
今回初めて知りました。
上のコメントの下から4行目「鹿児島南東部」は
「鹿児島南西部」の間違いでした。訂正します。
グーグルアースと、海流図を起動して見ました。
何で坊津なのでしょうね。考察して見ます。
海流は鹿児島南部で二つに別れ
A)黒潮は四国方向
B)対馬海流は五島列島に向かいます。
朝鮮から来る場合は対馬、壱岐経由で福岡はわかります。
南部台湾方面から来る場合、沖縄、屋久島、種子島、それから先は大隅半島に行きそうですが、実際には、黒潮は台湾北部では3ノット(約6km/h)あり一気に鹿児島方面に向かいます。
沖縄に行こうとしても、流れから外れるのが難しいと思われます。トカラ列島北部付近で流れが緩やかになり、黒潮本流(屋久島南部方面)と坊津方面に分かれます。
流れを間違えると東シナ海のど真ん中(上海の東線と済州島の南線の交点)で大きく逆時計回りを続けます(付近に島はありません)。
上海から来る場合は一度南に進路をとり(海流は南方向)、黒潮に乗ります。
坊津から屋久島付近は大きな潮の流れはなく、自由に航行できます。
ランドマークとしては薩摩富士とも言われる開聞岳に行きそうですが・・・なぜか坊津です。
海流図を見ると古代の航路図が描けます。
遣唐使遣隋使の航路は坊津、五島の奈留を経由して行っていました。奈留神社は704年以前の創建といわれる古い神社です。神武天皇の曾祖母木花之佐久夜毘売命が祀られています。
鹿児島(笠沙)の絶世の美女 木花之佐久夜毘売命の終焉の地奈留島に伝わる悲しい物語の中に古代の航路が推測されます。
源 信正
海流の考察ありがとうございます。
弥生時代に、インド南東部にいたトラヴィタ人が日本に入ってきた
ルートを大野晋氏は、状況証拠から途中どこも経由せずに
直接日本に来ていたとしか思えないと述べていたように
記憶しています。
八切止夫氏は縄文時代から弥生時代にかけての海流は
インド南部から日本までイカダで1週間もあれば
日本に流れ着いたのではないかと言っています。
その根拠も述べられていたように思うのですが
いま思い出せません。
それから鹿島曻氏は、タルシン船団は大型帆船でオールも
備えていたので、ほとんど世界中を思うように回っていた
のではないかとしています。
タルシン船は旧約聖書のソロモン王の貿易船ですから
紀元前950年くらいです。
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