2010年3月14日日曜日

優れもの発見 ハイブリッド鋼のノミ


優れものを発見しました

ハイブリッド鋼というもので作られたノミです
左は刃幅9mm、右は刃幅6mm
今使っているものが、ちびていて
そろそろ買い替えようと思っていたところだったので
試しに買ってみました
価格はノミとしては安価な四千円台
柄はグミの木が使われています


ところが研いで使ってみてビックリ
強靭ですばらしい切れ味なのです
軟材から堅材まで幅広く使え
コクタンのような硬い木を
ガリガリと削っても刃先はビクともしません
これは仕事で即戦力として使えます


身は全鋼になっているようですが
砥石の中砥、シャプトンの「刃の黒幕」#1000と
#1500では普通に研ぐことができます
ただ、仕上砥石(天然もの)はかかりが悪く
(名倉をかければもちろん使えますが)
数多い手持ちの仕上砥石のなかで
反応してくれたのは、上の京都・新田産の巣板と




この奥殿(おくど)産の巣板だけでした 



強靭な鋼でしかも全鋼ですが
研ぐのは比較的楽です


2010年3月9日火曜日

三田市から碧玉出土

兵庫県三田(さんだ)市の三輪餅田遺跡
管玉(くだたま)加工途中と見られる
碧玉(へきぎょく)発見されました

時代は弥生時代中期(約2千年前)ということで
専門家によると、原石を石鋸(のこ)などで
傷を付け角柱状に割ったものだということです

そしてこれは、以前紹介した
神戸市の雲井遺跡から出土した
碧玉加工品です 参照
三田市では翡翠(ひすい)で作られた
勾玉も出土していますが
新潟県の糸魚川(いといがわ)で産する
この翡翠がどのようなルートで兵庫県南部まで
運ばれたのか興味が湧くところです

これは三田市の北隣にある
ここ、篠山(ささやま)市で見付けた碧玉です
新発見の碧玉の記事では
碧玉は出雲(いずも・島根県)でしか
産しないとありますが
兵庫県の日本海側にも産地はあります
ここ兵庫県中部の篠山市でも
見付かるのですから
三田市にもある
可能性もあるのでは・・


2010年2月22日月曜日

古代の製鉄 その15

下に紹介した画像は、埼玉県にある崎玉(さきたま)稲荷山古墳から出土した鉄剣の一部です。
刀身の裏・表には金象嵌の文字が施されています。この文字列は日本の古墳時代を知る上で
貴重な資料となっていますが、文字とその解釈については様々な説があります。
一般的な解釈こちらのサイトが参考になると思いますので紹介しておきます。
まず、年代の手掛かりとなる「辛亥(しんがい・かのと い)年」ですが、これには西暦471年説と、
その一回り(60年)後の531年説があります。定説となっているのは471年ですが、この説は
鉄剣の銘文にある「獲加多支鹵大王(わかたける だいおう)」が雄略天皇と同一人物であるという説が元となっているものです。この説には異論ももちろん出されていますが、以前、
銅鏡文字解読の際に大きな示唆を受けた歴史言語学者の川崎真治氏の説に目を通してみると、獲加多支鹵=雄略天皇に納得せざるを得ない感があります。
ワカタケルという名は、古事記・日本書紀にも登場します。まず孝霊天皇記に「若建(わかたける)吉備津日子命」、孝霊天皇紀の方には「稚武(わかたける)彦命」。景行天皇記に
「若建吉備津日子」、同じく景行記に「若建王」、景行紀には「稚武王」 と「稚武彦王」。
次に雄略天皇記に「大長谷若建命」、雄略紀には大泊瀬幼武(わかたける)天皇とあります。
タケルという名は前回述べた日本武尊(やまとたけるのみこと)にも含まれていますし、日本武尊(古事記では倭健命)が出雲で討ったとされる出雲武もタケルです。ということはタケルという名には何か特別な意味がありそうです。川崎真治説では古代セム族の習俗で、神に選ばれた王のことだとされていて、この王は頭飾りを冠していたということです。
ということは古代中東の習俗が日本にまで及んでいたということになりますが、川崎説によると、
ワカタケルのワカもそうだということになるのです。



2010年2月21日日曜日

古代の製鉄 その14

前回述べたように、古代播磨国志相郡岩鍋(現在の宍粟市千種町岩野邊(しそうし ちくさちょう いわなべ))に製鉄技術を伝えた金屋子神は、白鷺に乗って出雲国(いずものくに・島根県)に飛び去っていったとされています。ここでおもしろい符合があるのですが、九州から東征していく途中、出雲健(たける)討伐のため出雲へ立ち寄ったことのある日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は、その後、死に際して白鳥になり天に昇ったと日本書紀には記されています。
古事記では八尋白智鳥
(やひろしろちどり)となっていますが、これは白鳥よりもさらに大きなコウノトリではないかという説もあります。ところが、日本武尊が祭られている神社に白鷺神社というのがあるのです。この神社は栃木県にありますが、神社の由緒によると、神託により建てられたもののようですから、出雲とは直接的には関係はなさそうです。しかし、何故白鳥ではなく白鷺という神社名になったのでしょうか。
一方、出雲国(島根県)には弥栄神社(やえさか)という神社があり、ここでは鷺舞という神事が行われています(参照)。





2010年2月6日土曜日

藤田嗣治

先日、神戸大丸ミュージアムで行われている
藤田嗣治(つぐはる)に足を運びました
藤田嗣治の絵は、若い頃から淡い憧憬の思いで
見つめてきました
自伝を読んで何故藤田の絵が
日本での評価が高くないのかということも知りました

フランスで人気を博した藤田の日本的な繊細な線
日本人のこの繊細さはときに姑息さに変貌します
その姑息さに藤田は我慢がならなかった
若い頃に日本の画壇に嫌気が差し
戦後の戦争責任のなすり合いに嫌気が差した

藤田の絵に(とくにデッサン)私は
壮大さと力強さを感じます
これは天平時代から鎌倉時代の建造物に
感じるものと同じなのです
日本人が本来持っていたものです
あの壮大な木造建造物を建てた宮大工と
同じ修練を藤田は絵で行っていたと思うのです
藤田はかなりの早描きだったということですが
その修練は、画家として当然のことを
毎日やっているだけだとサラリと自伝に書かれています