2010年7月12日月曜日

碧玉と九鬼水軍 その20 


前回述べた猿田彦命と
天宇受売神を
インドの古代インダス遺跡
から出土した
神官像と踊り子像に
比定する説があります

パキスタンにある
モヘンジョダロ遺跡から
出土している神官像




そして踊り子
とされる像



このことは以前HPでも
述べたことなのですが
参照 最後の段)
上の二枚の写真と
同様の人骨が
日本の弥生時代の遺跡から
出土しているのです
参照 参照
佐藤矩康氏は神官像の
額の丸いものを
天目一箇神
(あまのまひとつのかみ)
の由来ではないか
としていますが
この説は説得力があります
上の神官像の額を見て
現在でも日本で
同様のものが見られるのを
ふと思い出したのです
それは修験道の行者の頭に
見られる(参照
頭巾(ときん)です
これが、本来何のために
額に付けたのか
分かっていないようですが
これはインダスの神官像が
付けいるものの
名残ではないでしょうか
同様のものが弥生時代の
人骨に見られのです
もしそうだとすると
九鬼家と
繋がっていくのです・・

2010年7月5日月曜日

碧玉と九鬼水軍 その19 

これまでに紹介してきた、丹波篠山のニギハヤヒと関連のある地名、「草ノ上」と「味間」の間には丹波最大級の前方後円墳である雲部車塚古墳が、その西には元々は岩座(いわくら)信仰が行われていたと思われる、大変古く由緒ある佐々婆(ささば)神社が、そしてその西には丹波最大の円墳である新宮古墳があります。これらを地図上の記してみると、篠山川に沿って均等な距離にあるのが分かります(地図参照)。また雲部車塚古墳の北東にある櫛石窓神社もほぼ同距離隔たっています。これは何か意味があるのでしょうか・・興味が湧きます。
「多紀郡郷土史話」では多紀の郡(こおり)は古代は水郷であったとし、先に紹介した地図上の古墳は当時の湖の浜に臨んで造られているようである、としています。ですから、湖の大きさを車塚古墳から味間までとすると、大きさは東西12kmほどあったということが推測されます。
上にリンクした味間のところで、味間という所は古代は湿地だったと述べ、その名残りとしての大沢、牛ヶ瀬という地名を挙げておきましたが、それと同様の和田という地名が佐々婆神社の近くにあるのです。「多紀郡郷土史話」の著者は湖岸を和田と呼ぶことは我が国各地にその例が多いと説明しています。他には「多紀郡郷土史話」が書かれた(昭和9年頃)当時、地名として残っている北島、善左衛門島、松ノ木島、沢田島などは湖中に点々とした浮き島状の地であったものと思われる、としています。
また別誌の「多紀郷土史考」では湖水の東岸に当る所に磯宮八幡宮がある、としていますが、これらをまとめてみると、篠山盆地の古代の湖は平安時代頃まで存在していたということが想像されます。そしてその湖は北東の端が車塚古墳があるところで、南東の端には磯宮八幡宮があり、西の端には味間の島姫神社があったということが言えそうです。(地図参照下さい)。
篠山の地は明らかに銅鐸民族圏です。この地では銅鐸はまだ発見されていませんが、状況証拠は多く存在します。その一つが神社の祭神です。先に紹介した新宮古墳のすぐ近くに居籠神社(いがも)というのがあるのですが、この神社の祭神は猿田彦命です。近くを流れる藤岡川は昔は猿田川と呼ばれていたということで、この川からは昔、猿田彦と対になっている天宇受売神(あめのうずめのかみ)の塑像が見つかっているということです。
天宇受売神は先に紹介した佐々婆神社の祭神でもあります。この女神は天照大神が岩戸隠れをした際に、アマテラスの注意を惹くために、閉じられた岩戸の前で胸をはだけて踊りを披露したとされる神でもあります。ですから、猿田彦命と天宇受売神は大変に古い時代の神ということになります。そして、銅鐸を日本にもたらしたのは猿田彦命とされているのです。

江戸時代に描かれた岩戸開きの図
左側で胸をはだけて槍のようなものを
持っているのが天宇受売神

雲部車塚古墳近くにある神社
神社の名はどこにも記されていませんが
赤い鳥居と神殿の様式から
八幡神社と思われます

社殿の装飾に象が施されています
これはこのあたりの神社で
よく見られる特徴であります(参照

これは古代丹波北部、後の但馬(たじま)に属する
朝来(あさご)市和田山町にある
長尾古墳から出土した大刀拵え
古墳時代後期 全長105m

2010年7月2日金曜日

不思議な符合(鎧と能)

これはイタリアの古代遺跡である
ポンペイの壁画の一つです(紀元前後 )
この人物はアレキサンドロスとされていますが
この鎧は日本の古墳から出土しているものの中に
よく似ているものがあるのです(参照






それから、これは1983年頃に
加治木義博氏が指摘していることなのですが
上の写真は中国・甘粛省卓尼(チョニ)に伝わる
民族芸能の様子です
この衣装が日本の能装束によく似ています
面をかぶっているのもそうですし
袴のようなものも似ています
それから、注目すべきは右手に持っている刀です
これは日本刀にそっくりではないですか・・
チョニの芸能と日本の能
どちらが古いのかは分かりませんが
これには驚いてしまいます

2010年6月27日日曜日

碧玉と九鬼水軍 その18 

前回紹介した三田市藍本から篠山市味間にかけて、藍本の高川古墳群から出土した大刀と同様の装飾を施された大刀が集中して出土しています。篠山川沿いの山田1号墳からは金銅で装飾された大刀が、2号墳からは単鳳式冠頭大刀、武庫川上流の庄境(しょうざかい)1号墳からは銀象嵌大刀が出土しているのですが、これらの古墳では例外なく鎧・甲に馬具もいっしょに埋葬されています。篠山川の最上流にある雲部車塚古墳も同様のものが出土していて、この古墳は石棺はまだ開けられていないということなので、石棺の中にはさらに多くの副葬品があるものと思われます。
篠山市から三田市にかけて、金属加工に使われたと思われる手焙り形土器も出土しているので、弥生時代の伝統が古墳時代まで続いていたとすれば、大刀の装飾は当地で行われていた可能性も否定できません。



因みに、これは篠山市の箱塚4号墳から出土した特殊扁壺と名付けられている須恵器です。時代は6世紀頃これと同様のものは日本列島で十数例しか出土していないということですが三田市からも2点出土しているのです(参照 )。これは用途は不明とされていますが形状から推測して、「手焙り形土器」と同じように使われたのではないでしょうか。手焙り形土器よりも密閉度が高いので容器内の温度をより高温にする目的があったのかもしれません。




2010年6月25日金曜日

変わった鍔

もうずいぶん前に手入れたものですが
変わり種の鍔です
一見、江戸時代の肥後甚吾風です
木刀か何かに付けられたものでしょうか・・
味わいのよい鉄に金線が象嵌されています