津山藩(岡山県)の藩工である
刀工多田金利の文化六年(1809年)
の日記によると、依頼があれば
刀以外の金物も打ち、修理も
行っていたことが分かります
日記には、「燭台(ロウソク立て)拾六(16点)」
「心切り(ロウソクの芯を切るハサミ)七つ」
「手燭六つ」 「かすがい七つ」 「環(金輪)七振り」
「懸金(掛け金具)百十」 「秤 弐百十(210点)」
「細工小刀 九」 「きり小刀 五」 「斧 壱(1丁)」
「火ばし 三拾五」 「上火ばし 九」 「打釘 五十」
などなど、その品は多種に亘っています
さて、その2で紹介したような
職の妨害に対する訴えの
嘆願書は7点ほどありますが
もう一点紹介しておきます
これは天明三年(1783年)に
当時、農具鍛冶の東寺組合の年寄職をしていた
丸一屋伊右衛門を含め(丸一屋は平田家の屋号)
三名の連名による嘆願書で
触頭の清水平兵衛を通じて奉行所に
出されたものです
「恐れながら願い奉る口上書き」
城州(山城国・京都)乙訓郡馬場村鍛冶藤兵衛
右の者(藤兵衛)は藤蔵の義理の子
摂州(摂津国・大阪)嶋上郡広瀬村の鍛冶
伝九郎と申す者、宝暦十一年巳年(1761年)
三月二十三日、山崎岩川上に住居仕り
印札なしにて農具鍛冶職いたし
仲間の職分を相妨げ候につき
御差し止めの儀を願い上げ奉り候ところ
同晦日(みそか・30日)に召し出され、願いのとうり
職分を御差し止め仰せ渡され則し候
請書差し上げ奉り候
然るところ、その後摂州広瀬村へ
罷り越し(場所を移し)、また御当地へ入り込み
仲間の得意先をせり取りに相廻り候につき
その節仲間より応対に及び候えども相聞き申さず
再び応じ、掛け合い候の上、先年私どもの仲間
鳥羽屋小兵衛に親方籐兵衛を以って
段々相詫び候ゆえ、別途一札これを取り
下にて相済み申し候
然るところ、またまた御当地へ入り込み
西岡村々へ農具細工受け取りに相廻り候
職分相妨げ候につき、伝九郎幷(ならびに)
証人親方である馬場村の籐兵衛へも掛け合い
先の取り置き候一札の趣を以って
応対候えども、一向取り致し申さず候
籐兵衛による証判が仕り罷り(まかり・謙譲語)あり
その上、伝九郎と弟子のことにて
籐兵衛の取り計らい方も之有るべき旨(むね)
この度段々罷り申し入れ下され候へども
別紙の一札、相定め罷りありながら
御構堂仲間一同、難儀仕り候ゆえに
御慈悲の上、籐兵衛を召し出され
吟味の上、一札通り相守り為し候様
仰せ付けなされ候て有難く存じ奉るべく候
右のとうり願い上げ奉り候ゆえ
御役所様へ宜しく仰せ上げられ
たびたび恐れながら願い奉り候。