2011年6月20日月曜日
簡易 焼戻し
私が行っている刃物の焼戻しの
方法を紹介しておきます
電気アイロンと温度計
それに右下にチラと見えるバイス
この温度計は300度まで
測ることができます
これは20年以上前にホームセンターで
購入したものですが
今ではもっと精度のよい
便利なものがあるものと思います
鋼の焼戻しは180度前後で行いますので
アイロンの温度を確認し
このようにセットします
家庭用のアイロンは強で200度ほどです
家庭用のアイロンは強で200度ほどです
あるいは、このように
鉋身全体をアイロンに乗せても構いません私はアイロンが冷たい状態から
鉋身を乗せておき、設定温度に達したと
思われる状態から30分~2時間ほど
放置しています
アイロンの電源を切り
温度を下げている間も
このままにしておきます
これまでこのやり方で様々な刃物の
焼戻しを行いましたが
2011年6月19日日曜日
金井鉋 おそるべし
使い込まれた古い鉋を
仕立て直したものですが
裏の錆が深く、多めに裏押しをしましたが
まだまだ朽ち込んでいるようです
ですが、両側部分なので
なんとか使えるでしょう
鋼は安来鋼の青紙ということですが
二代目の金井鉋は
今見られる青紙と同様ですが
この初代は青紙とは到底思えません
噂に聞く青紙の鍛造古鋼でしょうか・・
グラインダーで出した火花は
手持ちの東郷鋼や燕鋼とそっくりです
この初代は青紙とは到底思えません
噂に聞く青紙の鍛造古鋼でしょうか・・
グラインダーで出した火花は
手持ちの東郷鋼や燕鋼とそっくりです
青紙よりも抵抗があり、火花は少なく
研ぎ上げてみると、鋼は澄んで
鏡面に仕上がります
この仕上がり具合も青紙とは思えません
この仕上がり具合も青紙とは思えません
これは東郷鋼と同様のものです
しかし、鋼は何とも表現のできない
粘りがあり、柔らかそうでも
仕上研ぎはなかなか難儀をしました
東郷鋼の鉋は何丁か使っていますが
このような研ぎ心地のものはありません
裏押しも容易で
焼きが戻っているのではないか
と最初は思ったくらいです・・
よく乾燥したスプルースを
削ってみましたが
削った感触も独特な粘りを感じます
楽器用のよく寝かされたスプルースを
鉋で削った方は経験していると思いますが
こういったスプルースは軟材でも
鉋の刃先の摩耗が早く
切れ止むのも早いのです
ですが、この鉋は驚くほど永切れします
一般的な鉋では切れが止むほど
試し削りをした後
刃先がやられやすいセドロ材を
楽器4台分、さんざん削りましたが
楽器4台分、さんざん削りましたが
刃先がやや白くなった程度で
まだまだ切れは止んでいません
それならば、と
ガンコな真黒の黒檀を削ってみました
しばらく削ってみましたが
ここまで刃先が摩耗しても
まだまだ切れるのです
金井鉋おそるべし・・
次元が違います・・
次元が違います・・
参考までに、これは他の東郷鋼の鉋ですが
これなど、研ぎ上げてそれほど使って
いなかったにもかかわらず、黒檀を削ると
いなかったにもかかわらず、黒檀を削ると
あっという間に刃先が細かく変形し
切れが止んでしまいました・・
切れが止んでしまいました・・
2011年6月18日土曜日
不思議な符合 鹿と魚 鹿踊り
16日に紹介した
ムリヤ・ゴンド族の
鹿踊りの写真を
掲載するにあたり
ブログのご本人に引用の
お願いをした際
ご厚意で他の写真も
お送り頂いたのですが
その内の1枚を見て
おや?と思ったのです
この鹿踊りは
鹿狩りの様子を題材に
踊られるということで
場面は
「人々が鹿を崇める場面」
「神官らしき人物が狩猟を取り仕切る場面」
「狩人が弓矢で鹿を狙う場面」
などがあるということです
これは神官と思われる
人物が持っている
石斧だということですが
これに刻まれている
魚の形状にドキリとしたのです
これと同じ形状のものが
正倉院に収められているのです
これがそうです・・
正倉院には水晶・琥珀・
犀角・瑠璃で作られたもの
があるということですが
これは瑠璃・ガラスで
作られた魚形の腰飾りです
そしてこれは犀角
サイの角で作られた腰飾り
これは琥珀の腰飾り
以上、正倉院展の
図録から引用しました
この図録には水晶のものは
紹介されていませんが
正倉院が建てられた目的は、
東大寺を建立した聖武天皇の
崩御後、后の光明皇后が
遺品を東大寺に寄進し、
それを保管するためであった
とされています
ここで不思議な
符合があるのですが
光明皇后は鹿の胎内から
生まれたという
伝説があるのです
奈良の春日大社と鹿は
対になっているようなものですが
これは春日の神が鹿に乗っ
て鹿島から奈良へやって来た
という伝説が
元となっているようです
ということは、そこには
中臣氏が浮かんでくることになり
中臣氏の祖は天児屋根命と
されていますから
卜部うらべということになります
つまり光明皇后は鹿の肩甲骨を
焼いて占う鹿卜を専門にしていた
氏族の出ということになるのです。
鹿の皮は古代では鑪たたらの
鞴ふいごに使われていて
製鉄には必要不可欠な
ものでした
古代インドには
ウーツ鉄を作り出した
優秀な産鉄民族が
優秀な産鉄民族が
いたようですから
インドの鹿狩りの踊りは
そのことと関係が
そのことと関係が
あるのかもしれません
私の故郷は博多湾の近くですが
その東端にある
志賀島(しかのしま)は鹿の島でもあり
その島にある志賀海神社には
奉納された鹿の角を保管しておく
鹿角堂があります
私が生まれ育った町の近辺は
古代は金属精錬あるいは
鋳造の地でありました
(参照)
16日に鹿踊りの写真を
紹介したのには訳があって
この写真を見たとき
私は日本書紀の
応神天皇の巻の一云の条に
記されている
「角の付いた鹿革を着た人々が
海に入っていた 云々・・」
という件を思い出したのです(参照)。
角がある人について
記された箇所は他に
垂仁天皇巻の一云条にもあり
そのツヌガノアラシトという
人物は天日槍のことと
されていますが
もし応神天皇の巻に
記されている人々と
天日槍が同じ民族だとしたら・・
と想像が膨らむのですが
なんと、古事記では
なんと、古事記では
応神天皇の母とされる神功皇后は
天日槍から六代目の子孫にあたる
としているのです
天日槍の時代は5世紀頃と
思われますので
古墳時代中期で畿内に
大型の前方後円墳が
造られた時代です
天日槍集団は冶金、鍛冶、
土木、木工、
須恵器(高温で焼く焼物)など
当時の最先端の技術を持っていたようですが、
朝鮮半島の新羅からやってきたとされる民族が、
インドの習俗を持っているということになれば
話はややこしくなってきます
2011年6月16日木曜日
毘沙門天と牛頭天王
6月4日に紹介した今昔物語の「但馬国の毘沙門天」では、
毘沙門天が牛頭(ごづ)鬼を退治する話になっています。
牛頭とは元々は牛頭天王のことで、
古事記・日本書紀に登場するスサノオのことでもあります。
日本神話ではスサノオは出雲(いずも)で活躍しますが、
ルーツは西アジアにあり、それがインドを経由して
日本に入ってきているものと思われます。
スサノオに蘇民将来説話が付きものとなっているのが
その証拠と云えます(参照)。
その証拠と云えます(参照)。
方や、牛頭鬼を退治する毘沙門天も元はインドの神ですが(参照)、
仏教を日本に伝えたとされる用明天皇とその息子である
聖徳太子の時代は飛鳥時代(6世紀)ですから、
時代は牛頭天王よりも新しいということになります。
スサノオ(牛頭天王)は天照大御神の弟とされていて、
時代は私が支持している説では
紀元前7世紀頃となります(参照・8段目~9段目)。
紀元前7世紀頃となります(参照・8段目~9段目)。
これらのことから、今昔物語のこの話が書かれた平安時代の頃は、
スサノオを信仰していた先住民族が
鬼として恐れられていたということが推察されます。
これはちょうど、コロンブス以来、
ヨーロッパ人がアメリカ大陸に移住した際、
ヨーロッパ人がアメリカ大陸に移住した際、
その地の先住民族との軋轢で
先住民を怖ろしいものと見なしたことと同様のことと云えます。
インド ムリヤ・ゴンド族の鹿踊り
江草拓 (Taku EGUSA)様のHP
「私のどこでも散策記録」から引用させて頂きました
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