2010年6月25日金曜日

変わった鍔

もうずいぶん前に手入れたものですが
変わり種の鍔です
一見、江戸時代の肥後甚吾風です
木刀か何かに付けられたものでしょうか・・
味わいのよい鉄に金線が象嵌されています


2010年6月24日木曜日

碧玉と九鬼水軍 その17 

ここ丹波篠山には、丹波最大級の前方後円墳である雲部車塚古墳があります。工房からほど近い所ですが、篠山川沿いの地域には旧石器時代からの遺跡もあるので、古代から住みやすい所だったのでしょう。
丹波篠山のように、内陸部の山深い地域では、川沿いに道があったのだと思いますが、古墳時代には古墳を築くために道の整備も必要だったと思われるので、古代の道といっても想像以上に広かったのかもしれません。
また、丹波の古墳ではありませんが、石棺を作るための巨大な石材を、
九州の熊本から大阪や京都まで運んでいたということも分かっています。
ですから物流技術も古代だからといって、決して貧弱なものではなかったはずなのです。
雲部車塚古墳があるところは兵庫県の中央部で、北の
日本海に流れ込む円山川と南に流れる加古川の上流でもあります。加古川に流れ込む途中では「丹波竜」が発見された丹波市山南町を通ります。恐竜の化石が発見された地層「篠山層群」も篠山川の河床に露出していたものです。
山南町といえば、8日に紹介したように、蘇民将来(古代インドの影響)に因んだ神事が行われる神社がありますが、篠山も古代インドの影響を強く受けているので(参照)、その文化は篠山川を通じて伝わった可能性は否定できません。それから、篠山市の味間地域は武庫川の上流にほど近く、その川を南に下る途中に三田市藍本(あいもと)というところがあります(地図参照)。ここに古墳群(高川古墳群)があり、そこから大刀(直刀)が出土していて、それに付けられていた鍔(つば)も良い状態で3点見つかっているのです。




これはその内の一つですが銀象嵌の模様に
隼人紋(参照・九段目)が見られるのです
これには驚きました

2010年6月22日火曜日

碧玉と九鬼水軍 その16 

昨日紹介した銅鏡の銘文の
「八月日十大王」を
「八月日下大王」とする説は
ちょっと無理があるように思います
減筆で画数を減らしたとしても
「下」は「十」にはなりませんし
「八月日」という表現は刀の銘にはよく見られるのです
刀に年紀を入れるようになるのは
鎌倉時代中頃だと思われますが

一つの例として
これは鎌倉時代の名工
景光(かげみつ)の短刀ですが
「元亨(げんこう)三年三月日」
と年紀が入れられているものです
元亨三年は西暦1323年


こちらは室町時代の備前(岡山県)の名工
盛光(もりみつ)の太刀(たち)
「応永二十三年十二月日」の年紀
応永22年は西暦1415年


これは江戸時代中頃の名工
一竿子忠綱(いっかんし ただつな)の刀
「元禄十二年八月日」
元禄12年は西暦1699年

このように、銅鏡の銘文「八月日」
と同様の表現がなされています
このようなことは古来から踏襲されてきた
ことは充分に考えられるのです


刀の年紀には他には
このように「十月三日」と日付を
入れる場合もあります


そしてこの「十二月吉日」
これは日本で好まれる表現で
刀に限らずよく見受けます

2010年6月21日月曜日

碧玉と九鬼水軍 その15 

この銅鏡は和歌山県橋本市にある
隅田八幡宮に古くから伝えられてきたもので
現在では国宝に指定されています
この鏡は日本で作られたものですが
作られた経緯が銘文として鋳込まれています
一般的にはこのように読まれていますが

この部分の「八月日十大王」
「八月日下大王」とする説もあります
考古学者の森浩一氏は
銅鏡などの銘文(金石文ともいう)では
減筆といって画数を減らすことがあるので
「日十」を「日下(くさか)とする可能性はあるとし
古事記に登場する大日下王のこと
かもしれないとしています
日本書紀では大草香皇子となっていますが
母親は日向(ひむか・宮崎県)の髪長媛(かみながひめ)
というところが意味深であります
大草香皇子が住んでいた所は
河内(大阪)の日下(草香)でありますから
これまで述べてきたように
ニギハヤヒと関係しています
ニギハヤヒという名は世襲されて
代々付けられていた名で
元祖ニギハヤヒは日向に拠点を
持っていたという説も有力なのです
他の説としては佐賀県神埼郡
あるいは、鹿島曻説では大分県の宇佐地方としています
八幡宮の大元宇佐八幡宮がある所です(参照

2010年6月15日火曜日

碧玉と九鬼水軍 その14 

6月2日に、ニギハヤヒと関連のある地名である「日下(くさか)を取り上げましたが(参照)、今回は「味間(あじま)について述べようと思います。味間もニギハヤヒに関連があるのです。2日には日下に関連がある地名として、
ここ丹波篠山(ささやま)に草ノ上(くさのうえ)という地名があることを紹介しましたが、味間という地名も存在するのです(地図参照)。
ニギハヤヒのことが詳しく記されている先代旧事本紀では、ニギハヤヒが
河内国(かわちのくに・大阪府)に天磐船(あまのいわふね)に乗って天降った後、大倭(やまと・奈良県)鳥見白庭山(とみのしらにわのやま)に遷った際に、その地の長髓彦(ながすねひこ)の妹と結婚したことになっています。鳥見(とみ)という地名は、奈良県の三輪山付近の旧地名とされています。このことからも、ニギハヤヒが大阪の河内国と奈良の三輪山に関連していることが分かります(参照)。
そして、ニギハヤヒとナガスネヒコの妹の間に生まれた男児が味間見命(うましまみのみこと)とされているのですが、味間見命は宇摩志麻治命(うましまちのみこと)とも書き記されています。これが古事記では宇摩志麻遅となっています。
古事記はウマシマチという発音を漢字で書き記しているので、味間の訓を「ウマシマ・宇摩志麻」と解説していることになります。
このことを古代史研究家の谷川健一氏は、味間(ウマシマ)はもともと水間(ミヌマ=水沼)で、それが「ミマ」→「アジマ」→「ウマシマ」と変化したとしています。丹波篠山にある味間という所も古代は湿地だったということは地質学的にも証明されています。味間の近く、JR篠山口駅のあるところは大沢という地名です。これも湿地だった頃の名残の地名です(地図参照)。それから牛ヶ瀬。ですから、これらは谷川説を裏付けることになります。