2010年4月7日水曜日

新作 ラコート風モダン・タイプ

新作のギターが1台
出来上がりました
特注で製作したもので
ラコート風モダン・タイプです


左端のものがそうです
注文により
アンティーク・ヴァイオリン風
仕上げにしました
その右側に吊ってあるものは
修理中の19世紀オリジナル
ギターです
ラコートも見えますね・・

仕上がって音を出してみてビックリ
自分で言うのもなんですが
ラコートとモダン・タイプの
良いところが
うまく出ているではないですか・・
まさにハイブリッドな楽器です
これはKiyondオリジナル
シリーズに
加えたい楽器ですね
このような注文をして下さった方に感謝です

実は、19世紀のオリジナル
ラコートにも
こうした大型のボディのものが
あるのです


内部の様子


こちらはオリジナル・ラコートの内部

碧玉と九鬼水軍 その2の蛇足 


弥生時代の遺跡から出土する巴形銅器にも右巻きと左巻きがありますね・・



それから、新たに三つ巴軒瓦が集まりました
左は大分県、右は奈良県のもの
こうしてみると、左巻きの方が多いようですね



近所を散歩していたら
「左三つ巴」の軒瓦があるのを見つけました
ここ丹波篠山では「右三つ巴」しかないのか
と思っていましたが
左巻きもあったのですね・・
どちらにしても、この軒瓦は播磨系とされているので
ここ丹波篠山と、南西に位置する播磨は
何か共通したものがあるのでしょう
それはおそらく「銅」が関係しているものと思われます
どちらの地域にも
弥生時代に金属加工に使われたとされる
手焙り形土器が出土しているのもそうですしここ丹波篠山の私の工房近くには
丹波地域最大の前方後円墳である
車塚古墳があります

車塚と名付けられた古墳は
関東から関西にかけて多く存在しますが
遺跡ウォーカーで車塚古墳で検索してみてください)
歴史言語学者の川崎真治説によると
クルマはウル・シュメール語のググ(亀)が
転化してクウヅマになり、それが
さらにクルマとなったものだとされています
つまり亀をトーテムとする民族というわけです
因みに鹿児島県の種子島の方言では
亀のことをクウヅマと言い
京都府与謝郡ではガンダメと言うそうです
古代丹波の地は銅鐸文化圏でもあり
古来から銅の産地として知られ
それをめぐっての争いが絶えなかったようです

2010年4月6日火曜日

碧玉と九鬼水軍 その2

前回、4月3日に九鬼家に関するサイトを紹介しましたが(参照)、そこで家紋が紹介されています。実は旧九鬼邸を見学した際に、謎の和服姿の女性に開口一番伺ったことは家紋についてでした。その時にはまだ九鬼水軍の船模型のところには案内されていなかったので、和服の女性は九鬼邸の屋根を指差して、あの軒瓦に付いているものがそうです、と教えてくれたのです。それを見て私はおや?っと思ったのです。この軒瓦はここ丹波篠山でよく見かけるものなのですが、三つ巴の巻き方が逆なのです・・

これは近所の人から貰ったものですが、ここ丹波篠山の民家によく見られるものです。
右に渦巻いた三つ巴になっています。




そして、これが九鬼家の三田(さんだ)の旧九鬼邸の家紋ですが、左巻きの三つ巴になっています。4月3日に紹介した九鬼水軍の模型の旗を拡大して見てください。左三つ巴が見えます(参照)。ところが、おもしろいことに、上に紹介した軒瓦の写真は、実は播磨(兵庫県小野市)にある浄土寺の軒瓦なのです(室町時代~江戸時代)小野市の浄土寺といえば鎌倉時代の名工、快慶作の仏像(阿弥陀三尊像)が安置されていることで有名です(参照)。興味深いことは、浄土寺には八幡神社の本殿があるということです。 ここに九鬼家とのつながりがあります。
また、以前、古代の製鉄その11で、ここ丹波篠山にある八幡神社の象の彫刻を紹介しましたが(参照)、このことも九鬼家と関連があるのです。
そのことについては後に述べるとして、三田の旧九鬼邸を案内してくれた謎の女性が、三輪(みわ)神社にもぜひ案内したいというのでそこに連れていってくれたのですが、ここでもまたまた驚いてしまったのです・・

2010年4月3日土曜日

碧玉と九鬼水軍 その1

3月9日に紹介した、弥生時代中期とされる
兵庫県三田(さんだ)市 三輪・餅田遺跡から
新たに、碧玉(へきぎょく)加工に使われたと思われる
砥石などが発見されたということです


こちらは、前回、三輪・餅田遺跡で発見された
碧玉加工品の展示を見に行った際に
一緒に展示されていた出土品ですが
どれも遺跡のある三田市以外の所から
持ち込まれた石材だということです

チャートは三田市北隣の
ここ、丹波産のものだということです
この石は工房の近くを流れる篠山川でも
よく見られるものです


三輪・餅田遺跡の出土品が
展示してあった隣 には旧九鬼邸があり
ここも初めてだったので
見学させてもらったのですが
この後思わぬ展開がまっていたのです・・
入口の敷居をまたいで
きょろきょろと見まわしていたら
和服姿の見知らぬ女性が
この建物について説明を始めてくれて
中を案内して下さったのです
これには大変助かりました

歴史にもたいへん詳しいので
この施設の方ですか?と伺ったら
違うということでしたが
それ以上は追及せず
話に耳を傾けていました



これは床の間に飾られていたものですが
九鬼家は古来から優秀な水軍として
知られていたということです
これにはたいへん驚きました

和服の女性は九鬼家の由来も
教えてくれたのですが
それを聞いてびっくり仰天
目が点になってしまいました・・参照
しかし、このときには、九鬼(くき)家と
九鬼(くかみ)文書がつながっているということには
思いが至っていなかったのです

2010年3月29日月曜日

兵庫県三田市の手焙形土器

古代の製鉄その9で紹介した
手焙形土器が兵庫県三田(さんだ)市にある
三輪・宮ノ越遺跡から1998年に出土していたのです
これにも、またまた驚いてしまいました
それから、兵庫県から出土している手焙形土器の
ことが紹介されているサイトを紹介しておきます
これを見ると、ここ丹波篠山でも
3点出土していたのですね・・
灯台元暗し・・いやいや勉強不足でした

地図参照



参照地図に他に記している
三輪・餅田遺跡は、3月9日に紹介した
碧玉の加工品が見つかったところです

三輪神社については後日述べようと思っていますが
この神社を含め、三田市と九鬼家のつながりにも
驚くべきことが多々あるのです・・

2010年3月28日日曜日

古代シリアの子持壺

こちらのHP
日本の歴史について・その5
紹介した五個口の壺が
古代シリアでも
見つかっていたのです
これには驚きました

これがそうです
ハマ出土とされていて
時代は紀元前2世紀頃
巾約18cm、高さ約20cm

こちらは
紀元前5500年頃のもの
参照サイト
HPで述べているように
これと同様の壺が
古代南インドと
弥生時代の日本の遺跡でも
出土しているのです

これは南インドの
墓から出土したもので
楽器を模した
副葬品とされています
高さ約40cm

これはインドで今でも
使われている楽器
こちらの方が
古代シリアから
出土したものと
似ていますか・・

こちらは福岡県の
スダレ遺跡から
出土した弥生時代の壺
(高さ約40cm)
形状から子持ち壺と
呼ばれているものですが
用途は不明とされています
こちらは口は六個ですね
以上のことから
古代の製鉄その17
で述べたように
古代メソポタミアから
南に伝わっていったものに
五個口の壺も含まれていた
ということになります


これら二つは中国から出土しているもの
漢時代

そしてこちらは
12世紀ペルシャのもの

2010年3月16日火曜日

古代の製鉄 その17

チグリス・ユーフラテス川流域の古代メソポタミア地域とその周辺には、最古の鉄が発見されているヒッタイトをはじめ、青銅の発祥地とされるシュメール、また金属工芸に長けていたスキタイといった、人類史上重要な地が連なっています。
それらの文化・文明が世界各地に広まっていくのですが、それは、そのような技術をもった民族が移動していった証拠でもあるわけです。その際、その民族に伝わる民話も一緒に伝承されていったということになります。その流れは、メソポタミアから東に進む場合と南に進む場合があり、東に進めば陸のシルクロードとして西アジアから中国大陸を通り、日本の北海道、あるいは九州に及びます。南に進めば海のシルクロードとしてインド大陸から海路で東南アジアを経由し、一方は中国大陸、朝鮮半島を通過して九州北部に、一方は南西諸島から沖縄を通って九州南部に入るルートがあったようです。どちらにしても文化の吹き溜りとされる日本列島に流れ着くわけです。
一例をあげれば、旧約聖書に登場するソロモン王(古代イスラエル王・在位紀元前965年~926年)がタルシン船団を組んで東南アジアから中国大陸にまで勢力を伸ばしていたということは史実だったようで、その影響は日本にまで及んでいたのは確実のようです。途中、マレー半島にも植民地をつくりますが、その地に伝承されていた「ワニだまし」の民話が、出雲神話の「因幡の白兎」に変化して伝わっているということは、昭和の初めから歴史学者により指摘されていることです。その他、東南アジアから伝わったとされる説話には、浦島伝説、海幸・山幸伝説など多く存在します。
そして、当然のことながら羽衣伝説や七夕伝説もそうなのです。
そうした伝播には当然製鉄技術も含まれているわけで、鉄の原料となる鉄鉱石や砂鉄あるいは湖沼鉄を採集する方法も各地に適したものが考え出されていったことも想像できるわけです。
湖沼鉄についてはこれまで日本ではほとんど研究なされていませんでしたが、ここ数年、鉄に関する本などで紹介されるようになってきています(参照)。
また、実際に為された実験も公開されています(参照)。





2010年3月15日月曜日

古代の製鉄 その16

川崎真治氏は、ワカタケルのワカは古代日本語で白鳥、あるいは鶴の意味があるとしています。つまりワカタケルは、白鳥をトーテムとした民族の神に選ばれた王ということになります。川崎説によると、その鶴をトーテムとした民族の源流はメソポタミアにあるというのです。氏の著書の一つに「日本語の発祥地はメソポタミア」というのがありますが、その内容は、歴史言語学のルールに則って古代メソポタミアの言葉と日本語は繋がっているというものです。
以前、随想で大野晋(すすむ)氏の説を紹介したことがあります(参照)。そこで紹介した、弥生時代にインド南東部から日本列島に移住してきた民族がもたらした、タミル語の源流はメソポタミアにあるとも云えるわけです。
「古代の製鉄その12その13」で述べた羽衣伝説も日本各地にありますが、これも発祥地はメソポタミアとされています。もう一つ例を挙げれば、七夕伝説もそうなのです。これら民間伝承に関する研究としては、水野祐氏や君島久子氏の優れたものがありますが、それらに目を通してみても、世界各地に伝わる羽衣伝説は、メソポタミアを中心に波紋のように広がっているということを確認できるのです。






2010年3月14日日曜日

優れもの発見 ハイブリッド鋼のノミ


優れものを発見しました

ハイブリッド鋼というもので作られたノミです
左は刃幅9mm、右は刃幅6mm
今使っているものが、ちびていて
そろそろ買い替えようと思っていたところだったので
試しに買ってみました
価格はノミとしては安価な四千円台
柄はグミの木が使われています


ところが研いで使ってみてビックリ
強靭ですばらしい切れ味なのです
軟材から堅材まで幅広く使え
コクタンのような硬い木を
ガリガリと削っても刃先はビクともしません
これは仕事で即戦力として使えます


身は全鋼になっているようですが
砥石の中砥、シャプトンの「刃の黒幕」#1000と
#1500では普通に研ぐことができます
ただ、仕上砥石(天然もの)はかかりが悪く
(名倉をかければもちろん使えますが)
数多い手持ちの仕上砥石のなかで
反応してくれたのは、上の京都・新田産の巣板と




この奥殿(おくど)産の巣板だけでした 



強靭な鋼でしかも全鋼ですが
研ぐのは比較的楽です


2010年3月9日火曜日

三田市から碧玉出土

兵庫県三田(さんだ)市の三輪餅田遺跡
管玉(くだたま)加工途中と見られる
碧玉(へきぎょく)発見されました

時代は弥生時代中期(約2千年前)ということで
専門家によると、原石を石鋸(のこ)などで
傷を付け角柱状に割ったものだということです

そしてこれは、以前紹介した
神戸市の雲井遺跡から出土した
碧玉加工品です 参照
三田市では翡翠(ひすい)で作られた
勾玉も出土していますが
新潟県の糸魚川(いといがわ)で産する
この翡翠がどのようなルートで兵庫県南部まで
運ばれたのか興味が湧くところです

これは三田市の北隣にある
ここ、篠山(ささやま)市で見付けた碧玉です
新発見の碧玉の記事では
碧玉は出雲(いずも・島根県)でしか
産しないとありますが
兵庫県の日本海側にも産地はあります
ここ兵庫県中部の篠山市でも
見付かるのですから
三田市にもある
可能性もあるのでは・・


2010年2月22日月曜日

古代の製鉄 その15

下に紹介した画像は、埼玉県にある崎玉(さきたま)稲荷山古墳から出土した鉄剣の一部です。
刀身の裏・表には金象嵌の文字が施されています。この文字列は日本の古墳時代を知る上で
貴重な資料となっていますが、文字とその解釈については様々な説があります。
一般的な解釈こちらのサイトが参考になると思いますので紹介しておきます。
まず、年代の手掛かりとなる「辛亥(しんがい・かのと い)年」ですが、これには西暦471年説と、
その一回り(60年)後の531年説があります。定説となっているのは471年ですが、この説は
鉄剣の銘文にある「獲加多支鹵大王(わかたける だいおう)」が雄略天皇と同一人物であるという説が元となっているものです。この説には異論ももちろん出されていますが、以前、
銅鏡文字解読の際に大きな示唆を受けた歴史言語学者の川崎真治氏の説に目を通してみると、獲加多支鹵=雄略天皇に納得せざるを得ない感があります。
ワカタケルという名は、古事記・日本書紀にも登場します。まず孝霊天皇記に「若建(わかたける)吉備津日子命」、孝霊天皇紀の方には「稚武(わかたける)彦命」。景行天皇記に
「若建吉備津日子」、同じく景行記に「若建王」、景行紀には「稚武王」 と「稚武彦王」。
次に雄略天皇記に「大長谷若建命」、雄略紀には大泊瀬幼武(わかたける)天皇とあります。
タケルという名は前回述べた日本武尊(やまとたけるのみこと)にも含まれていますし、日本武尊(古事記では倭健命)が出雲で討ったとされる出雲武もタケルです。ということはタケルという名には何か特別な意味がありそうです。川崎真治説では古代セム族の習俗で、神に選ばれた王のことだとされていて、この王は頭飾りを冠していたということです。
ということは古代中東の習俗が日本にまで及んでいたということになりますが、川崎説によると、
ワカタケルのワカもそうだということになるのです。



2010年2月21日日曜日

古代の製鉄 その14

前回述べたように、古代播磨国志相郡岩鍋(現在の宍粟市千種町岩野邊(しそうし ちくさちょう いわなべ))に製鉄技術を伝えた金屋子神は、白鷺に乗って出雲国(いずものくに・島根県)に飛び去っていったとされています。ここでおもしろい符合があるのですが、九州から東征していく途中、出雲健(たける)討伐のため出雲へ立ち寄ったことのある日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は、その後、死に際して白鳥になり天に昇ったと日本書紀には記されています。
古事記では八尋白智鳥
(やひろしろちどり)となっていますが、これは白鳥よりもさらに大きなコウノトリではないかという説もあります。ところが、日本武尊が祭られている神社に白鷺神社というのがあるのです。この神社は栃木県にありますが、神社の由緒によると、神託により建てられたもののようですから、出雲とは直接的には関係はなさそうです。しかし、何故白鳥ではなく白鷺という神社名になったのでしょうか。
一方、出雲国(島根県)には弥栄神社(やえさか)という神社があり、ここでは鷺舞という神事が行われています(参照)。





2010年2月6日土曜日

藤田嗣治

先日、神戸大丸ミュージアムで行われている
藤田嗣治(つぐはる)に足を運びました
藤田嗣治の絵は、若い頃から淡い憧憬の思いで
見つめてきました
自伝を読んで何故藤田の絵が
日本での評価が高くないのかということも知りました

フランスで人気を博した藤田の日本的な繊細な線
日本人のこの繊細さはときに姑息さに変貌します
その姑息さに藤田は我慢がならなかった
若い頃に日本の画壇に嫌気が差し
戦後の戦争責任のなすり合いに嫌気が差した

藤田の絵に(とくにデッサン)私は
壮大さと力強さを感じます
これは天平時代から鎌倉時代の建造物に
感じるものと同じなのです
日本人が本来持っていたものです
あの壮大な木造建造物を建てた宮大工と
同じ修練を藤田は絵で行っていたと思うのです
藤田はかなりの早描きだったということですが
その修練は、画家として当然のことを
毎日やっているだけだとサラリと自伝に書かれています




2010年2月1日月曜日

目〆伊予砥

伊予砥という天然砥石の中砥(仕上げ砥石の前に使う砥石)は
HPの砥石関連ページでも紹介しましたが
下の写真の砥石は伊予砥のなかでも「目〆(めしめ)」と
云われているものです
伊予砥は一時採掘が中断していましたが
最近また掘り始められています
それがネット販売もされているので
先日、さざれ銘砥から購入しました


天然中砥の代表的砥石である青砥は
よく反応しますが、その反応は均一的です
伊予砥のなかにもそれと同様の
反応をするものもありますが
目〆伊予砥は最初の取っ掛かりが鈍く
刃物によっては全く反応してくれません
ところが、この砥石の表面をダイヤモンド砥石や
同じ伊予砥の破片などで磨り
砥汁を出してから研ぎ始めると
よく反応してくれ、その後の研ぎ心地が
刃物によって微妙に変化していくのです
それは、正に砥石の表面が締まっていく感じで
目〆という表現がピッタリなのです
上の写真右はノミを研いだ研ぎ汁です



このように、中砥とは思えない仕上がりで
研ぐときの力加減と水の加減で
様々に反応しれくれるのです
また、傷が浅いので仕上げも大変楽です



こちらは玉鋼の鉋を研いだものです
これは砥石の面磨りをしていませんが
よく反応しました




この前の段階の砥石は
シャプトン・刃の黒幕#1000で研いだものです
その深い傷を短時間でここまで消すことができるのです


2010年1月26日火曜日

古代の製鉄 その13

前回、羽衣伝説と白鳥について述べましたが、この白鳥は「はくちょう」ではなく「しらとり」で、鳥の種類を云うのではなく、白い鳥全般を指しているものです。ですから、それはサギやツルでもあり、文字どうりハクチョウでもある得ることになります。真白ではありませんがコウノトリも含まれるかもしれません。
それを裏付けるように、例えば、製鉄技術に関した文献に「鉄山必要記事」というものがあるのですが、この中で金屋子神(かなやごのかみ)の由来が述べられています。そこでは、播磨国志相郡岩鍋(現在の宍粟市千種町岩野邊)にある桂(かつら)の木に、高天原(たかまがはら)より神が降り、人々が驚いて「如何なる神ぞ」と問うと、神託で、「我は是れ、作金者金屋子の神なり」と答え、その地に製鉄技術を伝えます。その後、「我は西の方を守る神なれば、むべ住むところあらん」と云って、白鷺に乗り西の国、 出雲国野義郡黒田の奥非田という所に移ったということが述べられています。ところが、地元千種の言い伝えでは、白鷺ではなく鶴に乗って去っていったとなっているのです。




2010年1月20日水曜日

サルノコシカケ ゲットその2

久しぶりに山歩きをしたら
倒れた松の木にサルノコシカケを発見
この時には、数本の松の大木が
倒れているのを見かけました
ここのところ、枯れた松の木が多く
見られるような気がします

これはクロマツの木に付いていたもの
木の直径は50cmほどあったので
サルノコシカケも 大きなものが付いていた
最大のもので直径25cm以上あります






こちらは桜の枝に付いていたもので
直径は10cmくらいの小さなもの
紅色が美しい

2010年1月14日木曜日

丸尾山砥石恐るべし その2


先般手に入れた丸尾山産八枚層の仕上げ砥石を様々試しているのですがその対応の広さと研磨力には驚くしかありません

これはハイス全鋼の鉋を研いだものです強靭なハイス全鋼でも反応がよくサクサクと力強く卸してくれるのです








2分ほど研いだ仕上がりの様子ですが
鋼の沸粒(にえつぶ)がクッキリと現れています
ということは、前段階の中砥但馬砥の傷が
ほとんど消えているということです
これには全く驚いてしまいます

2010年1月10日日曜日

日本にモアイ像?

知人が広島を旅行中に
目撃したという
岩でありますが・・

これはどう見ても
モアイ像ですな・・
瀬戸内海の島の一つ
だということですが
車で移動中に遠くの
ミカン畑で
目撃したということ

瀬戸内海の島には
巨石遺跡があるという
噂は聞いたことが
ありますが
まさかこんなものが
あるとは・・
これはいったい何なんだ・・

2010年1月4日月曜日

古代の製鉄 その12

兵庫県西脇市にある天目一神社近くを流れている加古川の10kmほど下流には、先日紹介した手焙り形土器が出土している加東市があります。また天目一神社の近辺には、鍛冶という名の付いた地名や、鉄を象徴する地名である黒田庄という所があります。それから、古代の製鉄遺跡がある場所の近くによく見られる牧野という地名もあるのです。その北隣の山南町には牧山という山と神社があり、近くには牧山川が流れています。因みに、他にマキノという地名は、滋賀県の琵琶湖西岸にもあり、その地には古代製鉄遺跡もあります(地図参照)。興味深いことは、参照地図に印している余呉湖がある伊香郡(いかぐん)には羽衣(はごろも)伝説があるのですが、江戸時代中頃の伴信友は著書・神名帳考証の「伊香具(いかこの)神社」の項で、当地に伝わる不思議な話を取り上げています。
そこでは、古老の云い伝えとして、余呉湖の南側の入江に白鳥に乗った女性が天から八人舞い降り、この様子を見ていた男が、白鳥の形が奇異だったので神人ではないかと思い、近くに行ってみると天女(てんにょ)であった。その男はひそかに白い犬をけしかけて一人の天女の衣を盗ませた・・云々。ということを記しているのです。
白鳥というのは日本の古代史にはよく登場し、兵庫県の播磨地方、優秀な鉄の産地として知られている千種(ちくさ)には、この地の製鉄技術は出雲(いずも)から白鳥に乗ってやってきた金屋子神によってもたらされたという言い伝えがあります。
古事記・日本書紀に記されている日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は草薙剣(クサナギノツルギ)を持っていましたが、この日本武尊が死後白鳥となって天に飛び去ったという記述は見逃せません。
こうしてみると、白鳥というのは産鉄民族の象徴であったかのようです・・


インドのインダス文明の遺跡から
発見された神官とされる像