2011年6月19日日曜日

金井鉋 おそるべし 

初代・金井芳蔵の
寸六鉋(一枚刃)を手に入れました
(入手先:外栄金物株式会社) 


 使い込まれた古い鉋を
仕立て直したものですが
裏の錆が深く、多めに裏押しをしましたが
まだまだ朽ち込んでいるようです
ですが、両側部分なので
なんとか使えるでしょう

鋼は安来鋼の青紙ということですが
二代目の金井鉋は
今見られる青紙と同様ですが
この初代は青紙とは到底思えません
噂に聞く青紙の鍛造古鋼でしょうか・・

グラインダーで出した火花は
手持ちの東郷鋼や燕鋼とそっくりです
青紙よりも抵抗があり、火花は少なく
燕鋼ハイス鋼のような火花なのですが

 研ぎ上げてみると、鋼は澄んで
鏡面に仕上がります
この仕上がり具合も青紙とは思えません
これは東郷鋼と同様のものです

しかし、鋼は何とも表現のできない
粘りがあり、柔らかそうでも
仕上研ぎはなかなか難儀をしました
東郷鋼の鉋は何丁か使っていますが
このような研ぎ心地のものはありません
裏押しも容易で
焼きが戻っているのではないか
と最初は思ったくらいです・・

よく乾燥したスプルースを
削ってみましたが
削った感触も独特な粘りを感じます

楽器用のよく寝かされたスプルースを
鉋で削った方は経験していると思いますが
こういったスプルースは軟材でも
鉋の刃先の摩耗が早く
切れ止むのも早いのです
ですが、この鉋は驚くほど永切れします

一般的な鉋では切れが止むほど
試し削りをした後
刃先がやられやすいセドロ材を
楽器4台分、さんざん削りましたが

 刃先がやや白くなった程度で
まだまだ切れは止んでいません

 それならば、と
ガンコな真黒の黒檀を削ってみました

しばらく削ってみましたが
ここまで刃先が摩耗しても
まだまだ切れるのです
金井鉋おそるべし・・
次元が違います・・

参考までに、これは他の東郷鋼の鉋ですが
これなど、研ぎ上げてそれほど使って
いなかったにもかかわらず、黒檀を削ると
あっという間に刃先が細かく変形し
切れが止んでしまいました・・


2011年6月18日土曜日

不思議な符合 鹿と魚 鹿踊り

ムリヤ・ゴンド族の
鹿踊りの写真を
掲載するにあたり
ブログのご本人に引用の
お願いをした際
ご厚意で他の写真も
お送り頂いたのですが
その内の1枚を見て
おや?と思ったのです

この鹿踊りは
鹿狩りの様子を題材に
踊られるということで
場面は
「人々が鹿を崇める場面」
「神官らしき人物が狩猟を取り仕切る場面」
「狩人が弓矢で鹿を狙う場面」
などがあるということです


これは神官と思われる
人物が持っている
石斧だということですが
これに刻まれている
魚の形状にドキリとしたのです
これと同じ形状のものが
正倉院に収められているのです

これがそうです・・
正倉院には水晶・琥珀・
犀角・瑠璃で作られたもの
があるということですが
これは瑠璃・ガラスで
作られた魚形の腰飾りです

そしてこれは犀角
サイの角で作られた腰飾り

これは琥珀の腰飾り

以上、正倉院展の
図録から引用しました
この図録には水晶のものは
紹介されていませんが
正倉院が建てられた目的は、
東大寺を建立した聖武天皇の
崩御後、后の光明皇后が
遺品を東大寺に寄進し、
それを保管するためであった
とされています

ここで不思議な
符合があるのですが
光明皇后は鹿の胎内から
生まれたという
伝説があるのです
奈良の春日大社と鹿は
対になっているようなものですが
これは春日の神が鹿に乗っ
て鹿島から奈良へやって来た
という伝説が
元となっているようです
ということは、そこには
中臣氏が浮かんでくることになり
中臣氏の祖は天児屋根命と
されていますから
卜部うらべということになります
つまり光明皇后は鹿の肩甲骨を
焼いて占う鹿卜を専門にしていた
氏族の出ということになるのです。
鹿の皮は古代では鑪たたら
ふいごに使われていて
製鉄には必要不可欠な
ものでした
古代インドには
ウーツ鉄を作り出した
優秀な産鉄民族が
いたようですから
インドの鹿狩りの踊りは
そのことと関係が
あるのかもしれません

私の故郷は博多湾の近くですが
その東端にある
志賀島(しかのしま)は鹿の島でもあり
その島にある志賀海神社には
奉納された鹿の角を保管しておく
鹿角堂があります
私が生まれ育った町の近辺は
古代は金属精錬あるいは
鋳造の地でありました
参照

16日に鹿踊りの写真を
紹介したのには訳があって
この写真を見たとき
私は日本書紀の
応神天皇の巻の一云の条に
記されている
「角の付いた鹿革を着た人々が
海に入っていた 云々・・」
という件を思い出したのです(参照)。
角がある人について
記された箇所は他に
垂仁天皇巻の一云条にもあり
そのツヌガノアラシトという
人物は天日槍のことと
されていますが
もし応神天皇の巻に
記されている人々と
天日槍が同じ民族だとしたら・・
と想像が膨らむのですが
なんと、古事記では
応神天皇の母とされる神功皇后は
天日槍から六代目の子孫にあたる
としているのです

天日槍の時代は5世紀頃と
思われますので
古墳時代中期で畿内に
大型の前方後円墳が
造られた時代です
天日槍集団は冶金、鍛冶、
土木、木工、
須恵器(高温で焼く焼物)など
当時の最先端の技術を持っていたようですが、
朝鮮半島の新羅からやってきたとされる民族が、
インドの習俗を持っているということになれば
話はややこしくなってきます

2011年6月16日木曜日

毘沙門天と牛頭天王

6月4日に紹介した今昔物語の「但馬国の毘沙門天」では、
毘沙門天が牛頭(ごづ)鬼を退治する話になっています。
牛頭とは元々は牛頭天王のことで、
古事記・日本書紀に登場するスサノオのことでもあります。
日本神話ではスサノオは出雲(いずも)で活躍しますが、
ルーツは西アジアにあり、それがインドを経由して
日本に入ってきているものと思われます。
スサノオに蘇民将来説話が付きものとなっているのが
その証拠と云えます(参照)。
方や、牛頭鬼を退治する毘沙門天も元はインドの神ですが(参照)、
仏教を日本に伝えたとされる用明天皇とその息子である
聖徳太子の時代は飛鳥時代(6世紀)ですから、
時代は牛頭天王よりも新しいということになります。
スサノオ(牛頭天王)は天照大御神の弟とされていて、
時代は私が支持している説では
紀元前7世紀頃となります(参照・8段目~9段目)。
これらのことから、今昔物語のこの話が書かれた平安時代の頃は、
スサノオを信仰していた先住民族が
鬼として恐れられていたということが推察されます。
これはちょうど、コロンブス以来、
ヨーロッパ人がアメリカ大陸に移住した際、
その地の先住民族との軋轢で
先住民を怖ろしいものと見なしたことと同様のことと云えます。


江草拓 (Taku EGUSA)様のHP
私のどこでも散策記録」から引用させて頂きました

2011年6月15日水曜日

2011年6月12日日曜日

京都に毘沙門天

昨日、仕事の合間をみて京都に足を運び、
木工・染色二人展」を見に行ったことを紹介しましたが、会場である「ギャラリーYDS」の近辺の地図を見ていて「おや?」と思ったのです。地図参照
先日から毘沙門天に関する今昔物語を紹介していましたが、「毘沙門」という名が付けられた町名があるではないですか・・参照 参照 
近くにはその他、金吹町、鏡屋町、鍛冶町、釜座町といった、金属加工やその販売に関する町名が見られます。また役行者えんのぎょうじゃ町の役行者(役小角えんのおづぬ)と、百足むかで屋町のムカデは鉱山に関係が深いのです。
おもしろくなってきましたね。これらの町名は毘沙門天と関係があるものと思われるのです。
それから、ギャラリーの北東には御苑があり、そこには福岡県を本拠(参照)とする宗像神社がありました。
また、同じ海人あま系の民族神である弁財天を祀った
厳島いつくしま神社もあります。弁財天は毘沙門天と並んで七福神のメンバーでもあるのですね・・



昨日紹介したように、ギャラリーの玄関に梅の家紋の暖簾が提げられていましたが、福岡の私の実家も同じ家紋なのです。梅紋といえば大宰府ですが、宗像神社が京都のこの地に勧請かんじょうされたことと何か関係があるのでしょうか・・興味が湧きます。



 京都御苑の中の宗像神社


同じく厳島神社



厳島神社に奉納された弁財天の絵
弁財天の眷族けんぞく(守り神)は龍神ですが
この絵には龍の化身として白蛇が描かれています