2009年11月12日木曜日

「古代の製鉄」続き その6

「古代の製鉄」の著者は、播磨(はりま)地方に散見される兵主(ひょうず)神社はアメノヒボコと関わりがあるとしていますが、その説に疑問を投げかけている研究者もいます。兵主神社はアメノヒボコの本拠地である但馬(たじま)に多くあるので、アメノヒボコと結び付けたくなるのは当然ですが、前回述べたようにアメノヒボコを受け入れなかった播磨国に兵主神社が存在する以上、無理があります。では、この兵主神とはいったいどんな神かということになるわけですが、その名を冠した神社が但馬に多く存在し、アメノヒボコと関わりがないすれば、それ以前からの鉄の神だったということになります。このことに関して、日本の古代祭祀の研究者である真弓常忠氏は、幕末の国学者である小山田與清説を見直す必要があるのではないかとしているのです。與清は「史記」の封禅書に記されている「兵主(神)は蚩尤(しゆう)を祀る、蚩尤は東平陸監に在り、斉の西境なり」という一節から、
兵主神は中国の武神である蚩尤であるとしているのです。「五帝本紀」では蚩尤は最も乱暴な武士で、鉄沙をもって兵器を作り、黄帝軍をさんざん悩ました、と記述されているほどですから、武神でもあり、鉄の神とされたのは当然かもしれません。
「穴師anase兵主神の源流」の
著者、皆神山すさ氏は
蚩尤はシュメール語のシムグが
源であるとし、朝鮮では朱蒙
であるとしています。

Wikipediaから引用

兵主神社がある所は、銅鐸の発見場所と重なることも見落としてはならないように思えますが、そうすると
サルタヒコとの繋がりもでてくるということになります。
また、河童・カッパのことをヒョウスベとも言いますが、これも兵主(ヒョウズ)から派生した言葉だとし、湖沼鉄と関連付ける説もあります。
真弓常忠氏は、兵主はヘシ、あるいはベシとも通じ、その言葉が東南アジアの鉄を意味する語である以上、兵主神は南方系海洋民によって運ばれ中国にも渡ったのではないかと推察されるのです。ということは、アメノヒボコ以前の古代但馬には、サルタヒコかニギハヤヒ勢力が居を構えていたということになり、但馬からは銅鐸が多く出土しているので、サルタヒコ集団の可能性が大きいということになります。


上に紹介した蚩尤は異様な容貌をしていますが、先代旧事本紀には
人皇・天皇の容貌が書かれていて、
初代天皇の神武天皇は身長が3m以上あり、頭に9cmほどの角があり長い尾も生えている。
また、二代目の綏靖suizei天皇には背中にウロコがあり、怒ると逆立つ。
七代目孝霊天皇は顔が長く龍のようで耳は逆立ち、その耳の後ろに白い鱗(うろこ)がある。また、胸にも9枚の鱗があり、
その九つの隙間から気を放っている。
十代崇神天皇は身長は1m90cm
額に10cmほどの青い角が1本ある。
下アゴの歯は長く鋭く上アゴの歯は短く丸く舌は長く鼻にまで届く。
十一代垂仁天皇は身長1m80cm。髪は右曲がりに頭を9周するように生え、頭頂部で輪のように巻いている。
また、両脇の下には金と緑の羽を持ち、肘にも同じような羽が根ざしていた。
とあります。

人皇16代・応神天皇の容貌。身長3mほど、目は弓を張ったような形、胸に72本の牛の尾のような青毛があり、長さは馬の尾の如し、とあります。

人皇17代・仁徳天皇の容貌。身長2.7m、耳は眉の上あたりから口の下に垂れ、足の指は長く手の指の如し。
これらの記述を見ると蚩尤や神武天皇などはレプタリアン系の
宇宙人のようにも思えます。
以上のことは古事記や日本書紀には書かれていませんが、不思議なことにサルタヒコの容貌は日本書紀に「鼻の長さは七咫(ななあた)、背(そびら)の長さは七尺(ななさか)、目が八咫鏡(やたのかがみ)のように、また赤酸醤(あかかがち)のように照り輝いている」と記されています。
この記述は先代旧事本紀のサルタヒコの記述とほぼ同様なのです。
これはいったいどういうことでしょうか・・

2009年11月10日火曜日

玉響・たまゆら

他のものが見たいという
要望が寄せられましたので
4日のものも含めて大き目の画像をUPしておきます









「古代の製鉄」続き その5

播磨国風土記・揖保郡(いぼのこおり)の条では、「韓国(からくに・朝鮮半島)からやって来た天日槍が揖保川(いぼがわ)に至ったとき、葦原志拳乎(あしはらしこお:大国主命)に土地を譲ってほしいと願い出た。葦原志拳乎は取りあえず海にとどまるように言うと、天日槍は海面を勢いよくかき混ぜたので、葦原志拳乎は恐れた」と記されています。
また同じく播磨国風土記・宍禾郡(しそうのこおり)の条では、「葦原志拳乎と天日槍が一つの谷の領有権を争った」とあります。同じく播磨国風土記・神前郡(かんざきのこおり)の条でも「出雲神(いずものかみ=大国主命)と天日槍が争った」と記されています。
これらのことから、当時兵庫県の南西部は出雲国の勢力圏だったことが判ります。しかも最新の製鉄技術を持っているとされるアメノヒボコ集団と争って、それを退けているのですから、出雲国はかなり強大な国だったということも想像できます。
これまで、機会があるごとに播磨地方の地方誌に目を通してきましたが、今のところ、播磨地域の神社の祭神としてアメノヒボコが祀られているところは見当たりません。
刃物の産地として栄えてきた三木市のものも先日見せてもらいましたが、サルタヒコが祀られている神社は数社ありましたが、アメノヒボコが祭神となっている神社は見当たりませんでした。




2009年11月5日木曜日

青山文庫と香道資料

篠山鳳鳴高校内にある青山記念文庫の閲覧に行ってきました。知人の知り合いに香道を教えている人がいて、その人から、青山記念文庫には香道に関する貴重な資料が保管されているので、ぜひそれを見たいと頼まれたということで、こちらに問い合わせがあったのです。
ところが、こちらは恥ずかしながらそういう事は全く知らなかったのです。それで、どんなものか知っておく必要を感じ足を運んだのでありました。
鳳鳴高校内に備えられている書庫は、大型金庫のような扉が取り付けられ、空調のよく効いた立派なものでした。所蔵品の目録も備えられていたので、それを手がかりに
香道に関する資料というものをなんとか探し出しましたが、一箱にまとめて納められたその資料は、和綴じ本で47冊ほどありました。すべてに目を通すことはできませんでしたが、その中で私が興味深かったのは、香道でも歌合(うたあわせ)のように香合(こうあわせ)をやっていたということです。以前、こちらのHPで琵琶合のことを紹介したことがありますが、それと同じことを香道でもやっていたのですね。
これは知りませんでした。
また、源氏香というもの(参照)では、五種類の香が用いられるようですが、これは日本刀の鑑賞で入札鑑定をする場合に五振りの刀が用いられるのと共通していて(参照)、
興味深く感じたのでありました。これは中国の陰陽五行説の影響だと思われますが、下に紹介した本でも中国風の挿絵が随所に見られます。
それだけ、当時幕府が推奨していた儒教の影響が大きかったのだと思いますが、それに警鐘を鳴らしたのが本居宣長だったのであります(参照・九段目)。

参考までに、これは私が所蔵している江戸時代中頃に出版された和綴じ本から引用したものです。この挿絵は、女性のたしなみとして必要な女十芸の内の一つ、「香をきく(鼻偏に香)」という説明図です。この本は明和九年(1772年)に京都で出版されたもので、香道が流行していた当時、裕福な町人の女性のたしなみの一つに入れられるほどだったようです。
因みに他の九つには、「女の道を学ぶ」、「糸を紡ぐ」、
「織りと縫物」、「手習い(習字)と文を読むこと」、
「味(あじわい)を調う(ととのう)こと」、「秤目とそろばん」、
「歌(和歌)を詠む」、「琴を弾(しらぶる)」、そして「双六(すごろく)を打つ」とあります。




最後に同書に載せられている
源氏香の柄の着物を紹介しておきます

この柄の着物は現在でもあるということです


2009年11月4日水曜日

鉋、鉋、鉋

今日は鉋使いの名手
木工作家の徳永順男氏の工房で
研ぎと鉋使いの交流を行いました


鉋刃を研ぐ徳永さん
この両膝を着いた研ぎ姿勢と
手を濡らさず、少量の水で研ぐための研ぎ場セットは
大原氏の考案によるものです
右側にある水桶の水をブラシで砥石に付け
研ぎ汁もこのブラシで洗い流します

大原氏が写真を撮ると
このように玉響(たまゆら・オーブ)が
多量に出現しました・・
5枚ほど撮影されていたのですが
すべてにこのように多量に現れていたのです


2009年10月29日木曜日

「古代の製鉄」続き その4

古代の日本(弥生時代から古墳時代)に
製鉄技術をもたらしたとされる代表的集団に、
サルタヒコ集団とアメノヒボコ集団がありますが、
時代はサルタヒコの方が古いということは
日本書紀の記述からも推察できます。
また、もたらされた製鉄技術も違ったものとされていますが、
サルタヒコは銅鐸文化を中心としていたので、
どちらかと云えば青銅技術が主となっていたようです。
一方、後に渡来したアメノヒボコは最先端の
製鉄技術を持っていたとされています。
このアメノヒボコの技術については、従来の
褐鉄鉱を用いた製錬から砂鉄を用いる製錬をもたらしたとする説や、
焼き入れ技術を持っていたとする説などがあります。
「古代の製鉄」の著者・山本博氏は、
褐鉄鉱を用いた製鉄が原始的で、砂鉄を用いた製鉄が新しいとする説の
根拠となっている、科学的な分析に疑問を投げかけてもいます。
アメノヒボコの後(応神朝)に渡来してきたとされる、
鍛冶の名工である卓素(たくそ)は、銑鉄(ずくてつ)を鋼にする
左下法(さげほう)という技術をもたらしたとされていますが、
もしかして、この技術をもたらしたのが
アメノヒボコだったのかもしれません(参照)。



西王母と東王父


2009年10月25日日曜日

砥石の不思議

先日、久しぶりに京都大平産の仕上げ砥石(戸前 黄板)を
使ってみて、その反応の
すばらしさと研磨力の強さに
驚いたのですが、この砥石
はハイス全鋼の刃には
これまで反応が悪かったのです
これまでは、ハイスや特殊鋼など、強靭な刃も
中研ぎにはシャプトンの「刃の黒幕」#1000と#1500を
使っていましたが、ハイス全鋼は「刃の黒幕」の後では
この大平産の砥前はほとんど反応しないのです
ところが、今年の夏に手に入れた中砥の但馬砥
研いだあとに、そのハイス全鋼の刃を研いでみると
下の画像のように、すばらしい反応をしてくれたのです

ハイス全鋼を但馬砥で研いだ後に研いだ研ぎ汁
この砥石は硬めですが
一般的な鉋身を研いだときと同様の
すばらしい反応です

研ぎ上がった画像ですが
中砥の傷はほとんど消えて
金属組織の細かい結晶が
表れています

これは但馬砥で研いだ痕です
傷は浅く、普通はこういった
浅い傷の後には
硬めの仕上砥はかかりが悪く
人造砥石の深い傷の方が
硬めの仕上げ砥には
反応がいいのです

なぜ但馬砥の後だと
反応がいいのでしょうか
不思議です・・ (参照


2009年10月24日土曜日

会下山遺跡

今朝の新聞に、兵庫県芦屋市の会下山(えげのやま)遺跡で弥生時代の金属器を生産したと思われる痕跡が見つかったという記事がありました。実はこの遺跡の北1kmほどの所には、ナマズ石があるのです(地図参照)。
ナマズ石については、以前HPの随想で述べたことがありますが(参照)、この石に書かれてある文字(記号)が古代のものだとしたら、そして、川崎真治氏の説明のように、その文字が風神エンリルに祈願をしたものだとしたら、会下山遺跡と強い繋がりがあるということになります。そして、
金属器生産跡は製鉄をした可能性も出てくるのではないでしょうか。時代もどちらもほぼ同じ時代という気がします。
これはおもしろいことになりました。
鉄鉱石や、それが粉砕された状態の砂鉄から鉄や鋼を取り出すためには、高い温度が必要で、その為にタタラなど送風装置を使うということはよく知られていますが、古代の製鉄では自然風を利用した製鉄を行っていたということです。ですから、会下山遺跡で製鉄が行われていたとしたら、その際に適度の風を得るために近くの山岳信仰の場である岩山で祈願を行ったということは充分に考えられるのではないでしょうか。芦屋市の北にある六甲山系は古代からの岩座信仰の場が多く存在しているのです。


2009年10月23日金曜日

「古代の製鉄」続き その3

弥生時代から古墳時代にかけて、日本(とくに西日本)には
いくつかの王国があったとされています。兵庫県北部の
丹波王国、山陰を中心とした出雲王国(島根県)、吉備王国(広島県と岡山県の一部)、そして九州大分県国東半島の付け根に位置する宇佐王国。これらの王国に共通していることは、どの国も鉄の産地であるということです。当時の製鉄基地と云ってもいいのかもしれません。そして、丹波王国の但馬(たじま)には象徴としてアメノヒボコ、出雲王国にはサルタヒコあるいはオオナモチ。出雲王国は越後(新潟県)から九州北部の宗像(福岡県)、南は四国の讃岐(香川県)まで勢力を伸ばしていた時期もありました。吉備王国はもとは出雲国の一部でしたが、後に独立し王はフトニとされています。九州は宇佐を中心にニギハヤヒですが、ニギハヤヒは徐福であるという説もあります。徐福は古代丹波ではホアカリとされていて、また旧事本記ではホアカリニギヤハヒとなっていますので、ニギヤハヒ徐福説はあり得ないこともないようです。ニギヤハヒは21日に述べたように崇神天皇であるという説や、物部氏の祖とも云われていますので、それだけ各地に影響力のあった集団だったと思われます(参照)。
サルタヒコ、ニギハヤヒ、アメノヒボコは、どの集団も日本に渡来してきた民族集団とされています。その時に製鉄技術や養蚕技術、焼き物技術、ガラス焼成技術、土木技術、(ぎょく)の加工技術なども持ってきているのです。




切れ味

これは、これまで使ってきたハイス全鋼の小刀です
主に硬い黒檀(エボニー・本黒檀)を加工するときに
使っているものです



ブリッジの成型途中の画像ですが
削り痕を見てください



こちらは、大原氏が鍛えた小刀です



上の画像と同じものを削ってみました
削り痕の艶の違いがお判りでしょうか

ハイス全鋼の切れ味は
ジャリジャリといった感じですが
大原氏のものはサクサクと削れます
その音の違いが削り肌の違いに出ています

刃の研ぎ角度はどちらも同じで
使った砥石は鋼に合わせたので
違っていますが、研ぎ上がりは同様にしていますので
明らかに鋼の違いが反映されているものと思われます
大原氏のものはハイスほど永切れはしませんが
仕事に支障を来たすほどの違いはないので
この切れ味を知ってしまうとハイスの小刀は
使う気になれません・・




このように、曲線を仕上げるときには
私は手に持って削ります
バイスなどに挟んでいては微妙な線と面を見ながら
削れないのです

一つ間違えば怪我をするやり方ですが
刃物が良く切れれば、まず大丈夫です
これで怪我をしたことはありません
これも木工技術の一つなのです

2009年10月21日水曜日

「古代の製鉄」続き その2

19日に述べたように、「古代の製鉄」の著者の山本博氏は竜田神社の社伝に疑問を投じ、社伝にある「風神はもと竜田山(大阪府側)の御座峰に 降臨し、のち崇神天皇の時代に現在地(奈良県側)に勧請した」というのは間違いであるとしていますが、私は社伝のとうり、崇神朝の可能性もあると思います。崇神天皇の時代に三種の神器の分身が作られているのは、その証拠となるのではないでしょうか。因みにその分身の剣は平家が滅亡した壇ノ浦の合戦の際に水没したとされています。
崇神天皇はニギハヤヒと強い繋がりがあり、崇神天皇本人ではないかという説までありますが、鹿島曻説のように、ニギハヤヒは襲名であるということも充分考えられそうです。ニギハヤヒは製鉄技術を持った集団で、日本にその技術をもたらしたことは疑いがないようですが、ニギハヤヒが卑弥呼と同様古事記・日本書紀からは抹殺されているというのも、その事と関連しているのかもしれません。ですから、「古代の製鉄」の著者が述べていることと関連して、日本書紀は天武天皇の都合のよいように捏造された歴史書とも言えるわけです。その際に、時の権力者にとって都合の悪い卑弥呼やニギヤハヒは抹殺する必要があった。 また、古事記や日本書紀に登場はしていても、邪魔者扱いにされている人物としては、サルタヒコアメノヒボコがいます。サルタヒコとアメノヒボコも製鉄技術を日本にもたらした集団であったということも、ほぼ間違いないようです。

2009年10月19日月曜日

古代の製鉄

先日、昭和50年(1975年)に出版された「古代の製鉄」という本を借りたのですが、この本の中で著者の山本博氏は、奈良県と大阪府の県境にある三室山を挟んで東と西にある龍田神社(奈良県)と大阪の竜田山(通称)を考察しているのです。
奈良県の龍田神社(大社)は、古来から農耕の神である風神「天御柱命」と「国御柱命」(参照)が祀られています。「古代の製鉄」の著者は、龍田神社の社伝の「風神は、もと西方の竜田山(大阪府側)の御座峰に 降臨し、のち崇神天皇の時代に現在地(奈良県側)に勧請した」という内容に疑問を投げかけています。
著者の山本博氏は、文献上の初見である日本書紀天武記の「天武四年四月、二人の勅使を派遣して風神を竜田の立野に祀らしむ」が本来で、竜田神社の社伝の崇神朝ではないとし、この第十代崇神朝と第三十九代天武朝との数百年の隔たりの間に重要な事実が隠されているとしているのです。このことは、私が「日本の歴史について」の中で書き続けているテーマでもあります。

2009年10月15日木曜日

藤井啓介氏の刀

兵庫県篠山市在住の刀剣作家
藤井啓介氏の脇差(平造り)を
見る機会を得ました
出来の良い刀は、見るだけで心が洗われます
こうして手に取ってじっくりと眺めていると
古来から、刀が鑑賞されてきたのが
よく理解できるのです

氏は27代兼元である
金子孫六刀匠に師事されていますが
この脇差は、その初代孫六兼元(室町時代後期)
を写したものだということです

刃文の匂い口(刃文の幅)は複雑で
見所が多く、金筋も所々に見られ
いつまで見ていても飽きません
これは名刀の条件を備えていると云えます

表・裏には梵字の種子が彫られています
本歌
(初代・兼元の作品)
は研ぎ減っていて
裏の字が判然としませんが
これは、おそらくこうであろうということで
彫られたものだと思われます

参考までに、これは手許にある
字典の一部ですが、これを参考にすると
表の字は
文殊菩薩、裏は多聞天
該当するようです

2009年10月2日金曜日

工房の守り神


工房の南の壁には

朱雀(すざく)が・・
これは、かなり古そうですが
木彫りに朱色の漆のようなものが塗られています
すばらしい木彫技術です




北の壁には玄武(げんぶ)を・・
と云っても、これは玄武ではありませんが
玄武は亀と蛇が合体したようなものですから
この魚を蛇に見立てて
(どちらにもウロコがあるし・・)




この右側の亀の彫刻と合せて
玄武ということにしておきましょう

この亀と波の木彫技術もすばらしい




そしてこちらは、東の壁の青龍(せいりゅう)




そしてこちらは
西の壁の白虎(びゃっこ)
これは刀の鍔(つば)ですが
虎の上に見えている雲と稲妻は
龍を表現しているもので
虎と合わせて、龍虎(りゅうこ)となっています
洒落ていると云えますが
手抜きと云えば手抜きですね
以上東西南北の守り神でした

2009年9月24日木曜日

ヒガンバナ 彼岸花 曼珠沙華 マンジュシャゲ

ここ丹波篠山は
ヒガンバナが満開です


これは去年撮影したものですが
ヒガンバナの脇をイシガメが散歩していたのです
こういった光景にはまずお目にかかれません


手前に植えられているのは
丹波篠山の代表的産物である黒豆(黒大豆)です
10月の中頃になると
枝豆として最適の時期になり
多くの観光客の手に提げられることになります

2009年9月11日金曜日

稲穂

ここ丹波篠山では
稲刈りの最盛期を迎えています
桑材を使った木工細工の名人
前田南斎(1880年~1958年)
が作った作品を
見せてもらいました
稲穂の象嵌(ぞうがん)
芝山宗明(1889年~没年不詳)
木工と象嵌のそれぞれの分野の
名人の合作であります
象嵌の稲穂は黄蝶貝
稲の葉にポツポツと
乗っているのは露で
これは白蝶貝と思われます
葉は緑色に染められた
鼈甲が使われている


50年以上経っているものと
思われますが
木に全く狂いが出ていないのには
驚かされます

こうした昔の名人たちの
仕事を見ると
喝を入れられたように
背筋がしゃんとするのです


2009年8月20日木曜日

三葉虫三態

三葉虫の化石・・
化石では生きていた時の三葉虫の
表面の色や模様までは判りません
そこで、紙粘土で作った三葉虫に
全く三葉虫などには興味のない女性三名に
色付けをしてもらったことがあります

これがその結果ですね・・
女性に頼んだのは、やはり男よりは
ファッションに気を使いますからね
そういった視点で模様や色を付けてほしかったのです

エビやカニにも様々な色と模様があるので
三葉虫にだって様々あってもおかしくはありません
恐竜の皮膚の色や模様も
どのようなものであったかは判っていませんが
トカゲにもいろいろな模様と色があるので
きっとカラフルだったのだと思いますよ


現代に生きているダンゴムシそっくりですね

ダンゴムシはきっと三葉虫の子孫なのです
でもダンゴムシの色は地味ですな・・
観察していると、ダンゴムシは雑食性で
何でも食べますね、好き嫌いなし
自然界の掃除屋さんです
因みに
三葉虫はこのように
丸くなることもできたようです
後ろに反ることもできます(参照

2009年8月19日水曜日

我が家のカッターナイフ

我が家のカッターナイフは
これでござんす

材質は、左は大阪府と奈良県の境にある
二上山(にじょうさん)で 産するサヌカイト
右のものは、ナイル川で拾われたフリント
古代では、どちらの石も
石器の素材として普通に使われていました

原石をうまく割ると
このように鋭利な刃物になります
  コピー用紙もこのように スッパリと切ることができます
  これは黒曜石ですが(ガラスと同質)
さらに切れ味が鋭く
産毛でも剃ることができます
ですから、古代の人々も
これらの石器で髪を切ったり
髭を剃っていたことは容易に想像できます
原始人というと髭も頭髪も伸び放題という
イメージがあるようですが
そんなことはないと私は思います
古代人もオシャレだったのですよ、きっと
縄文時代にはも使われていたし
装身具もいろいろとありました 美容室に
ネイル・サロンなんかもあったりして・・