2012年1月26日木曜日

会津砥・青と裏大突内曇砥で二種類の鉋を研ぐ


YouTube にUPした動画の
画像を紹介しておきます

最初に使っている荒めの
伊予砥(愛媛県産)

こちらは粉末ハイス鋼の寸六(動画

同じ砥石で研いだ
玉鋼の古い鉋(動画

これは小鳥
おどり砥:岐阜県産)



そして青い会津砥
(福島県産)
この砥石は今では
ほとんどお目にかかることができなくなりました
ここ数年、少しずつ
掘られていた
ということですが
昨年の大震災で
掘ることが
出来なくなってしまった
そうです



参考までに、この鉋身は
粉末ハイス鋼の寸八ですが
刃先角度を修正中で
研ぎ面は3mmほどしかなく
ほとんど鋼だけを研いでいる状態です
このような研ぎの場合
中研ぎの人造砥は
反応が悪く
目起こしをしても
なかなか研げないのですが
この会津砥でしたら
目起こしをすれば
よく反応するのです
これは以前紹介した但馬砥もそうでした
このように、人造砥は
研磨力はあるのですが
場合によっては
天然中砥の方が
優れていることがあるのです

仕上研ぎの最初の段階
中継ぎとして
京都・裏大突産の
全面にカラスが入った
内曇砥を使いました
文字どおり
カラスのような模様が
入っているので
このように呼ばれていますが
このような砥石は
仕上砥石層の各層の
境目に出るということです
カラスが入っていると
研磨力はあるのですが
砥当たりにザラザラ
したものがあり
私は個人的には
好きではありません
因みに、通称
幽霊カラスのように
カラスの輪郭が
ぼやけているものには
このようなことはありません
動画で使っているものは
部分的に巣の嚢のようなものが地鉄(じがね)に当たるので
それを避けながら研ぎました
そこのところが動画でも
お分り頂けると思います



次に産地不明の仕上砥ですが
この砥石は
硬いにもかかわらず
よく反応し
たいへん研ぎ易い砥石です
鏡面に仕上がる
最終仕上げ砥石です

この砥石は、地鉄との相性が
悪いと地を引くのですが
この二種の鉋身もやや地鉄を引いています



こうして研ぎ上げた
粉末ハイス鉋・寸六で
ローズウッドの薄板を
削ってみました(動画
刃角度は27度ほどで
堅木を削るにはやや
低いのですが
ローズウッドでしたら
大丈夫です

厚みを減らすための
削りですから
刃を多めに出していますが
ほぼ逆目も止まっています


これくらいの削りでは刃先は
ほとんど変化はありません

2012年1月25日水曜日

造形物 二題

楽器の端材で作った合掌のオブジェ





これは蜘蛛の巣でしょうか・・
高さ1cmほど
すばらしい造形


2012年1月24日火曜日

沼田・虎砥と敷白仕上砥で藤井鉋を研ぐ


砥石が縁で知り合った方から
沼田・虎砥を借りることができました
それを使って藤井刀匠に打ってもらった
玉鋼寸八鉋を研いでみました
You Tubeに動画をUP

最初に使っているのは会津白砥(福島県産)


この砥石はよく反応するのですが
藤井鉋とはあまり相性がよくありません
粒度は#1000といったところですか・・


次に使ったのが
今回借りている沼田・虎砥(群馬県産)
沼田砥には灰褐色の瓢箪沼田砥
このように縞のある虎砥があります


緻密な石質で、目起こしをした方が
より良い効果を得ることができそうです
粒度は#1500~#2000といった感じです


これから仕上研ぎですが
中継ぎとして、京都亀岡・丸尾山産
内曇砥(天上巣板)を使いました


この砥石もよく反応するものですが
藤井鉋とはあまり相性がよくありません


次に京都産の敷白仕上砥を使いました
この砥石は通常の京都産の仕上砥のように
側が層になっておらず
一見、三河細名倉のように見えます
白い部分と褐色の縞の部分は
硬さが違うように見えますが
ほとんど同じ研ぎ感で
研ぎ上がりも違いはありません
砥面の水の吸い方に独特のものがあります


ザクザクとした研ぎ感の割には
鋼は緻密に仕上がっています


上の敷白の研ぎ上がり状態で
充分仕上がっていますが
参考のために中世中山仕上砥で
最後の鏡面仕上げをしました


この仕上砥はひじょうに硬いにも
かかわらず、良く反応し
心地よく研ぐことができます


今回使った沼田・虎砥は
貸して下さった方の御好意で
資料として切り取ってもよい
ということだったのですが

以前から手許にあった産地不明の砥石が
この虎砥にそっくり
ということが分かったのです

こいったことは写真だけでは分からず
実物を手にとって眺め
水に濡らした状態で質感を吟味するなどして
ようやく分かるものだということを
再認識させられたのです

2012年1月20日金曜日

合掌のオブジェ

Boxハープの端材で
合掌のオブジェを作りました







今朝、近くの河原で竹の根っこを拾いました
龍に見えませんか・・




製作中の二台のギターのニス塗りを終えました


ニスを塗っている間、ネコは出入り禁止だったので
ご機嫌よろしくないようです・・

伊予砥とエビ印セラミック砥石で永弘鉋を研ぐ


You TubeにUPした研ぎ動画
画像を紹介しておきます
研いでいる鉋身は古い新潟鉋
二代目・永弘寸八です

最初に使っているのは
荒目の伊予砥(中砥)
これは粗砥と言ってもいいくらいです






次に使っているのも伊予砥ですが
これは細目の粒度です
このように優れた伊予砥は今では
めったにお目にかかれません






そして中研ぎの最終段階として
エビ印セラミック砥石の#3000を使いました

粒度が#2000以上の人造砥石は
研ぎにくいものが多いのですが
これは商品の宣伝コピーで謳ってあるように
「天然砥石の研ぎ味」を味わうことができます
研ぎ上がりは粒度の細かい人造砥独特の
ギラギラとしたもので個人的には
好きではありませんが、研磨力が強い
という長所を優先したいと思います




仕上研ぎの最初は岐阜県産の合砥です
この砥石は普段は中継ぎとして使っていますが
細かめの粒度ですので

人造砥の#3000の後に使うと
これだけで充分仕上がっています




参考のため京都梅ヶ畑・中山産のカラスで
最後の鏡面仕上げをしました

カラスの出ている仕上砥はザラツキ気味で
あまり好きではありませんが
このカラスはほとんど悪影響はなく
ほど良い研磨力を及ぼしています

2012年1月19日木曜日

バラ科の花梨とマメ科の花梨

今回製作する平家琵琶は
注文して下さった方から
実家に植えられていて
枯れてしまった
紅花梨(カリン)の木を
どこかに使ってほしいという
要望を受けていました

数本送ってもらったものは
太いものでも
7cmほどしかなく
材として使えるかどうか
心配でしたが


製材してみると内部は健全で
充分乾燥しているので
琵琶の鶴首(ネック)
として何とか使えそうです
ところが、紅花梨と
聞いていたのに
内部はカリン材とは思えず
どう見てもツゲ材です・・
何かの間違いではないかと
確認してみましたが
花梨に間違いはない
ということでした
花梨材だったらこのように
緻密な肌ではなく
導管がはっきりしていて
色ももっと濃いはず・・
結局、私の勉強不足
認識不足だったのですが
よくよく調べてみると
花梨にはバラ科のものと
マメ科のものがあり
全く違う種類の木だ
ということが分かったのです
送って頂いたものは
実をカリン酒などにする

今回平家琵琶の甲板(裏板)
として使う紅花梨材は
マメ科の花梨だったのです


2012年1月16日月曜日

魚の装飾紋及び双魚紋について その2

昨日紹介した「天皇系図の分析について-古代の東アジア-」の著者である藤井輝久氏は魚形、とくに双魚紋は神魚と定義し、「神魚=ニムナ=任那=みまな」としています。氏によると、魚紋は古代インド、ペルシャ、シュメールまで遡ることができ、海人(あま・海洋民系)に共通した独自なシンボルだということなのです。また、朝鮮半島では金官伽羅(伽耶)の時代に、初代王である金首露の妃(許黄玉)はインドから嫁いで来ているのだそうで、双魚紋を象徴としていたようなのです。インド・ドラヴィダ語のミ=神、マナ=魚で任那(ミマナ)は神魚の意味があるという説は説得力があります。このようなことから、藤井説では金官伽羅=任那(みまな)海洋民の神魚連合(ギルド)=伽耶ギルド連邦としています。そしてこの連邦は南倭でもあるのですが、南倭は鹿島曻説と同様に、朝鮮半島南部と九州北部をエリアにしているのです。そのことを裏付けるように、日本の古墳の出土物にも魚紋は見られ、例として継体天皇陵とされる今城塚古墳から出土している家形埴輪に刻まれているもの、熊本県の江田船山古墳出土の鉄刀の象嵌、藤ノ木古墳出土の金銅製沓(クツ)に付けられている「魚の飾り」が挙げられています。





今城塚古墳から出土している
家形埴輪とその軒部分に
描かれている鹿と魚

鹿と魚といえば昨年6月のブログ紹介した
光明皇后の夫である聖武天皇の
遺品のなかの魚形の腰飾りと
光明皇后は鹿の胎内から生まれた
という伝説を思い出します・・


これはメソポタミアのものとされる
焼物の絵付け
魚と卍紋が見られます


スキタイの魚紋


そしてこれは5世紀頃のものと思われる
コプト裂(参照
これにも魚と卍紋が見られます

2012年1月15日日曜日

魚の装飾紋及び双魚紋について その1

ここ丹波篠山に出雲神社があることについて調べていたら、魚の装飾紋についてちょっと分かったことがあるので、忘れないうちにそのことを述べておこうと思います。このことは昨年6月のブログでも少し述べましたが、正倉院に収蔵されている魚形の腰飾りは聖武天皇の遺品とされています。このことから、魚紋は新羅や百済系民族の象徴なのかと思っていたのですが、インドにもよく似た魚紋があるということに戸惑ってしまったのです。それで昨年6月のブログでは「朝鮮半島の新羅からやってきたとされる民族が、インドの習俗を持っているということになれば、話はややこしくなってきます。」と結んでいたのです。
今回、出雲神社についてもう少し詳しく調べたいと思い、古代の東アジアの情勢について書かれた本を数冊新たに手に入れたのですが、その内、薬師寺の仏像様式から、白村江の戦いの後、日本は完全に唐・新羅連合軍に占領されたとしか考えられないとする鈴木治氏の著書「白村江」からは多くの示唆を得ることができたのです。それから、故・鹿島曻氏と同業(弁護士)で、氏から鹿島古代史説の薫陶を得、さらにそれを進めた内容の藤井輝久氏の「天皇系図の分析について・古代の東アジア」からは多くの収穫があり、ありがたいことに、先に述べた魚紋についても多くの紙面が割かれていたのです。(魚の装飾紋及び双魚紋について その2はこちら


薬師寺金堂に安置されている
薬師如来座像の足の裏(仏足)に見られる双魚紋