2011年6月18日土曜日

不思議な符合 鹿と魚 鹿踊り

ムリヤ・ゴンド族の
鹿踊りの写真を
掲載するにあたり
ブログのご本人に引用の
お願いをした際
ご厚意で他の写真も
お送り頂いたのですが
その内の1枚を見て
おや?と思ったのです

この鹿踊りは
鹿狩りの様子を題材に
踊られるということで
場面は
「人々が鹿を崇める場面」
「神官らしき人物が狩猟を取り仕切る場面」
「狩人が弓矢で鹿を狙う場面」
などがあるということです


これは神官と思われる
人物が持っている
石斧だということですが
これに刻まれている
魚の形状にドキリとしたのです
これと同じ形状のものが
正倉院に収められているのです

これがそうです・・
正倉院には水晶・琥珀・
犀角・瑠璃で作られたもの
があるということですが
これは瑠璃・ガラスで
作られた魚形の腰飾りです

そしてこれは犀角
サイの角で作られた腰飾り

これは琥珀の腰飾り

以上、正倉院展の
図録から引用しました
この図録には水晶のものは
紹介されていませんが
正倉院が建てられた目的は、
東大寺を建立した聖武天皇の
崩御後、后の光明皇后が
遺品を東大寺に寄進し、
それを保管するためであった
とされています

ここで不思議な
符合があるのですが
光明皇后は鹿の胎内から
生まれたという
伝説があるのです
奈良の春日大社と鹿は
対になっているようなものですが
これは春日の神が鹿に乗っ
て鹿島から奈良へやって来た
という伝説が
元となっているようです
ということは、そこには
中臣氏が浮かんでくることになり
中臣氏の祖は天児屋根命と
されていますから
卜部うらべということになります
つまり光明皇后は鹿の肩甲骨を
焼いて占う鹿卜を専門にしていた
氏族の出ということになるのです。
鹿の皮は古代では鑪たたら
ふいごに使われていて
製鉄には必要不可欠な
ものでした
古代インドには
ウーツ鉄を作り出した
優秀な産鉄民族が
いたようですから
インドの鹿狩りの踊りは
そのことと関係が
あるのかもしれません

私の故郷は博多湾の近くですが
その東端にある
志賀島(しかのしま)は鹿の島でもあり
その島にある志賀海神社には
奉納された鹿の角を保管しておく
鹿角堂があります
私が生まれ育った町の近辺は
古代は金属精錬あるいは
鋳造の地でありました
参照

16日に鹿踊りの写真を
紹介したのには訳があって
この写真を見たとき
私は日本書紀の
応神天皇の巻の一云の条に
記されている
「角の付いた鹿革を着た人々が
海に入っていた 云々・・」
という件を思い出したのです(参照)。
角がある人について
記された箇所は他に
垂仁天皇巻の一云条にもあり
そのツヌガノアラシトという
人物は天日槍のことと
されていますが
もし応神天皇の巻に
記されている人々と
天日槍が同じ民族だとしたら・・
と想像が膨らむのですが
なんと、古事記では
応神天皇の母とされる神功皇后は
天日槍から六代目の子孫にあたる
としているのです

天日槍の時代は5世紀頃と
思われますので
古墳時代中期で畿内に
大型の前方後円墳が
造られた時代です
天日槍集団は冶金、鍛冶、
土木、木工、
須恵器(高温で焼く焼物)など
当時の最先端の技術を持っていたようですが、
朝鮮半島の新羅からやってきたとされる民族が、
インドの習俗を持っているということになれば
話はややこしくなってきます

2011年6月16日木曜日

毘沙門天と牛頭天王

6月4日に紹介した今昔物語の「但馬国の毘沙門天」では、
毘沙門天が牛頭(ごづ)鬼を退治する話になっています。
牛頭とは元々は牛頭天王のことで、
古事記・日本書紀に登場するスサノオのことでもあります。
日本神話ではスサノオは出雲(いずも)で活躍しますが、
ルーツは西アジアにあり、それがインドを経由して
日本に入ってきているものと思われます。
スサノオに蘇民将来説話が付きものとなっているのが
その証拠と云えます(参照)。
方や、牛頭鬼を退治する毘沙門天も元はインドの神ですが(参照)、
仏教を日本に伝えたとされる用明天皇とその息子である
聖徳太子の時代は飛鳥時代(6世紀)ですから、
時代は牛頭天王よりも新しいということになります。
スサノオ(牛頭天王)は天照大御神の弟とされていて、
時代は私が支持している説では
紀元前7世紀頃となります(参照・8段目~9段目)。
これらのことから、今昔物語のこの話が書かれた平安時代の頃は、
スサノオを信仰していた先住民族が
鬼として恐れられていたということが推察されます。
これはちょうど、コロンブス以来、
ヨーロッパ人がアメリカ大陸に移住した際、
その地の先住民族との軋轢で
先住民を怖ろしいものと見なしたことと同様のことと云えます。


江草拓 (Taku EGUSA)様のHP
私のどこでも散策記録」から引用させて頂きました

2011年6月15日水曜日

2011年6月12日日曜日

京都に毘沙門天

昨日、仕事の合間をみて京都に足を運び、
木工・染色二人展」を見に行ったことを紹介しましたが、会場である「ギャラリーYDS」の近辺の地図を見ていて「おや?」と思ったのです。地図参照
先日から毘沙門天に関する今昔物語を紹介していましたが、「毘沙門」という名が付けられた町名があるではないですか・・参照 参照 
近くにはその他、金吹町、鏡屋町、鍛冶町、釜座町といった、金属加工やその販売に関する町名が見られます。また役行者えんのぎょうじゃ町の役行者(役小角えんのおづぬ)と、百足むかで屋町のムカデは鉱山に関係が深いのです。
おもしろくなってきましたね。これらの町名は毘沙門天と関係があるものと思われるのです。
それから、ギャラリーの北東には御苑があり、そこには福岡県を本拠(参照)とする宗像神社がありました。
また、同じ海人あま系の民族神である弁財天を祀った
厳島いつくしま神社もあります。弁財天は毘沙門天と並んで七福神のメンバーでもあるのですね・・



昨日紹介したように、ギャラリーの玄関に梅の家紋の暖簾が提げられていましたが、福岡の私の実家も同じ家紋なのです。梅紋といえば大宰府ですが、宗像神社が京都のこの地に勧請かんじょうされたことと何か関係があるのでしょうか・・興味が湧きます。



 京都御苑の中の宗像神社


同じく厳島神社



厳島神社に奉納された弁財天の絵
弁財天の眷族けんぞく(守り神)は龍神ですが
この絵には龍の化身として白蛇が描かれています

2011年6月11日土曜日

仕事の合間にちょっと京都まで・・・


今日から始まった
木工と染色二人展を見に
京都Gallery YDS まで足を運んでみました
6月19日まで開催されています

木工作家・徳永順男
染色作家・平金有一

二階が染色工房になっており
町家風の一階がギャラリーになっています
家紋の梅は私の実家と同じですね・・


玄関から展示会場までの廊下にも
ご両人の作品が並んで置かれています




ここは中庭でしょうか・・?


そこの、敷かれた玉石の上に
舞台が設われ、その一角で徳永さんが
カンナ・フィニッシュをやっていました

来場者は徳永氏の作品である椅子に腰をかけて
ゆっくりと作業を見るという趣向

大きな長椅子の存在感に圧倒され
近付くのが憚られるほどです・・


奥の間には平金氏の作品が
主に展示されていましたが
初めて目にした氏の作品に
目を奪われてしまったのです・・
畳に敷いてある絨毯は、氏のデザインを
絨毯作りの本場であるペルシャなどで
作ってもらったものだということでした
そのデザインの大胆さと美しさにも驚きました




カンナ・フィニッシュのための 
徳永氏自作の特殊鉋
ダリの絵を見ているようです・・・
鉋身は大原康彦氏作


作業をしているすぐ脇には
 研ぎ台が置かれています


 そして足元の鉋屑(欅・ケヤキの木)
これを貰ってきて


 顕微鏡で覗いてみました(400倍)
厚みが50ミクロンほどあり
顕微鏡観察の試料としては厚めなので
ピントを合せるのがやや難しい・・


 縦方向の木繊維の途中にある
横方向の放射状の組織が見えます
参照


これは600倍で覗いたもの
中央やや上の部分に
以前紹介したスプルースに見られた
丸い細胞のようなものが確認できます

2011年6月9日木曜日

縄文時代草創期の石器工房跡


奈良県で発見された
縄文時代草創期(約1万5千年前)の
石器工房跡から出土した石器を見に行ってきました

場所は奈良県生駒いこま郡三郷さんごう



展示会場の三郷町文化センター


すぐ脇を大和川が蛇行しています


石器工房跡の出土状況(写真パネル)
石器の素材はほとんどがサヌカイトでしたが
サヌカイトはこの遺跡群からほど近い所にある
二上(にじょう)山から運ばれたものと思われます
二上山はサヌカイトの産地として著名なのです




サヌカイトは本来黒っぽい色をしていますが
出土品は風化して表面が白く変色しています

割れた断面も変色しているので
この石器はもともと割れた状態で
あったことが分かります

この石器は失敗作であろうと
解説されていましたが
私もそう思います
私もこれまで古代の技法で
多くの石器を作ったことがありますが
上の写真の左のもののように
あと少しで完成という時に
最後の打撃でパカリと割れてしまうことが
よくあるのです・・涙・涙・・

それから、エッジからの割れが
途中で止まってコブ状になっていますが
これもよくなる状況なのです
これを割り除くことは至難の技で
古代の人もこれで苦労したんだな・・
ということがよく分かります
なんだか安心しました・・






参考までに上の写真は
二上山産のサヌカイトの原石で
側は風化して出土した石器のように
白っぽいですが
内部はご覧のように黒い色をしています


有舌尖頭器の出来上がり





これは石器工房跡から出土したもの
唯一サヌカイトではない素材で作られたものです
石はチャート(石英質)と思われます
この石はここ丹波篠山の山でもよく見られます


2011年6月8日水曜日

金井鉋 おそるべし

今では幻の鉋となりつつある
金井芳雄作の寸八鉋を
運良く手に入れることができました

 鉋身を自分好みに研ぎ上げ
台の仕込みを大まかに仕上げただけで
このように軽く薄削りができました
削った板はパサパサのスプルースで
薄削りにはあまり向いていないのですが・・

haganeは安来鋼の青紙系と思われますが
青紙系の鋼の鉋は他にも優れたものを
持っていますが、これには及びません・・
初代金井芳蔵のものほど
永切れはしませんが
仕事では充分使えます

パサパサのスプルース材が
このように美しい艶に仕上がりました

刃の研ぎ角度は
自分好みに変えました(約28度)


参考までに、この鉋は
35年間惜しみながら大切に使ってきた
三代目・千代鶴 落合宇一作の寸八です
台は名古屋の青山鉋さんに
打ってもらいました
鋼はスウェーデン鋼と思われます
以前のブログでも紹介しています(参照
この鉋はギターの響板の
最終仕上げ用として
使っているものです
2mmほどの薄い板を削るので
刃の両側は多めに研ぎ落としています

切れ味、削り肌の艶
共に金井鉋と甲乙付け難し
といったところです

そしてこれは光弘銘の寸八です
鋼は炭素鋼系ですが
この鉋も素晴らしい切れ味です


金井鉋といい勝負か・・

他に、今めきめきと頭角を現して
いる石社ishikoso氏作の鉋もありますが
今は訳あって知人の所へ行っています
戻ってきましたら
これも紹介したいと思います