2011年12月24日土曜日

篠山 波賀野遺跡

兵庫県篠山市(ささやま市)
波賀野(はがの)
縄文時代と古墳時代の遺跡が
発見されました
参照

12月23日の現地説明会に
足を運びましたが
小雪のちらつく寒い日にも
かかわらず
多くの見学者が訪れていました

 南西側から眺めた遺跡の様子
古墳時代の遺跡の下に
縄文時代の遺跡が
重なっているということです

地元の人の話によると 
この辺り一帯の山は岩山で
向こうに見える山では昔
銀が採掘されていたそうです

上の写真から東側(右方向)に
移動した地点ですが
桜堤の川が見えます
ここは以前紹介した所
でもありますが
(ここの画像の9枚目と10枚目)
この川は武庫川に合流し
大阪湾に流れ込みます
地図の遺跡ポイントから
東側に流れている川です

ここから北に数キロ
離れたところを流れている
篠山川は西に流れ
山南町で加古川に合流して
南下し、播磨灘に流れ込みます
ここ篠山盆地は
標高が200m以上あり
分水嶺でもあります

地図の遺跡ポイントを拡大すると
南西側に出雲(いずも)神社が
確認できると思いますが
この写真の奥の小山が



こぢんまりとした社殿でした
篠山では出雲神社は
ここ1社だけだと思います

遺跡は地面からの湧水が多く
調査は苦労していると
説明されていましたが
近くに酒造元があるくらい
ですから、昔から地下水には
恵まれていたものと思われます

ここの縄文時代の遺跡では
住居跡と埋葬跡
それから生活跡である貯蔵穴
も確認されています
このようにムラ(村・邑)を
構成する三つの要素が
揃って発見されるということは
珍しく、兵庫県では
二例目だということです

これは子供を埋葬したと思われる土器の棺(ひつぎ)

縄文時代の特徴の一つとして
住居跡の近くに子供の墓がある
ということが指摘されていますが
この地でも同様のことが
確認できます
大人は集落から離れたところ
に埋葬されるそうです

9月に紹介した弥生時代の
方形周溝墓でした


縄文時代の土器と石器の一部を
紹介しておきます
私としては、碧玉(へきぎょく)片が気になるところで
以前、三田市から出土した碧玉を
紹介したことがありますが
参照
三輪餅田遺跡は
波賀野遺跡から南に
15kmほど離れたところに
あります(地図参照

時代は違っていますが
碧玉の移動ルートの手掛かりに
なるかもしれません・・

その後の調査
平安時代~室町時代の遺跡から
釘などの鉄製品やふいごの羽口
鉄滓(鍛冶に伴う不純物の塊)
が出土し、鍛冶工房があった
ことが分かったそうです

2011年12月23日金曜日

工房の様子 鉋と木地磨き


以前紹介した一枚刃寸三鉋(身幅55mm)
メープルの荒削りに使うことにし
押え金を付け、二枚刃に仕立て直しました





製作中の二台のギターは
木地磨きを終え
これからニス塗りにかかります
木地磨きをできるだけ薄く済ませるには
その前段階の鉋仕上げが重要になってきます






2011年12月21日水曜日

銀のクリスマス・ツリー



知人のシルバー・アクセサリー作家から
クリスマス・ツリーが届きました
すばらしいセンス





こちらはオマケの画像



2011年12月20日火曜日

生反り小刀

 注文していた「生反り小刀」が届きました
これをこれから刃の厚みを薄くし、柄を挿げ
自分の道具にしていきます
生反りは槍鉋(やりがんな)の小さなもので
日本では弥生時代から使われているものです
刃の形状、反り具合など無数の種類があります


刃の形状を修正した後
このように柄に挿げました




この後、鉋で柄を削り
自分の手に合うように仕上げます


出来上がりました
私の手には木地のままだと
滑って使いにくいので
この後薄くニスを塗ります
研ぎの動画をUPしました


生反り小刀が1本増えました(手前のもの)


工房の様子 猫の手も借りたい



 ネコの手も借りたいのに・・




ネックの加工中・・







荒削りが終わりました
この後サンドペーパーで仕上げます




2011年12月16日金曜日

楽器製作の端材でオブジェ その3



端材でオブジェを作ってみました
今回のものはシルバー・アクセサリー作家の
ところへ行くことになりました


2011年12月15日木曜日

丹波篠山 モンゴルの里


モンゴルの里にお邪魔しました

ラム肉のモンゴル風シャブシャブは最高
私は子供の頃、羊の肉はよく食べていたので
独特の匂いは平気なのですが
この肉はまったく匂いがありません
しかも食べ易く胃にもたれないのです
胃にもたれないのは猪肉と同じですね
数日前に食べたボタン鍋よりも
こちらの方に軍配を上げたいところです・・


オーナーの息子さんはまだ14歳だということですが
モリンホール(馬頭琴)の名手であります
11歳のときにはCDも出しているということで
店内で販売もされています
モンゴル平原の広大な空気を振わせ
遥か遠くの空に消え入る響き・・
最初に奏される「私はモンゴル人」という曲は
日本人である私の胸にも深く沁みわたりました


オーナーのスーチンドロンさんに
流暢な日本語でモリンホールの
説明をしてもらいました


竹で作られた、この美しく装飾された道具は
モンゴルの人々にとって
必要不可欠なものだそうですが
さて、これは何でしょうというオーナーの問いに
私は最後まで正解できませんでした

これはモンゴルの厳しい冬に使われるもので
馬を走らせた後、馬の汗を拭うものだそうです
拭うというよりも掻き飛ばすのだと思いますが
これをやっておかないと零下数十度の厳寒の中
汗がたちまち凍って馬が凍死してしまうのだそうです

その道具に最高の装飾を施しているところに
馬がどれほど重要なものか推し量ることができます・・

2011年12月7日水曜日

Sinier de Ridder工房の本

フランスの楽器修復工房
から2冊目の本が
出されました
(2011年9月刊行)

今回はフランスの
ミルクール出身の製作家が
作った19世紀ギターが
特集されています

フランスLamy工房の様子
楽器の鮮明な写真と共に
当時の楽器店や

工房の写真も
掲載されています
(同書籍から部分転載)
このような資料は
我々楽器を作る者にとって
バイブルです
ありがたいことです・・

2011年12月5日月曜日

駒王丸と高麗王若光 その4

富士宮下文書では、日本列島に渡ってきた国狭槌尊
クニサツチノミコトをカラスが道案内をしたことや、富士山に辿りつくまで猿や鹿が協力をしたことも記されています。このことに関して、山梨県の富士山駅周辺には
八咫(やた)という字が付けられた山や地名があったのは富士宮下文書と何らかの関係があるのかもしれません。現在は見られませんが、矢田や谷田は現在でもあるようです。
国狭槌尊をカラスが道案内をした話は、古事記の神武東征譚に登場する八咫烏と同様ですし、猿が同様の働きをすることは、天孫降臨譚で猿田彦が邇邇芸尊ニニギノミコトを道案内する話と酷似しています。
その2のコメントで述べたように、鹿島曻説では、倭人興亡史や桓檀古記から判断すると、神武は扶余王仇台のことになるとしています(百済王仇首でもある)。
また、仇台(神武)は帯方(ソウル)の地に伯済(後の百済)を建て、海を渡って九州北部福岡県の糸島に伊都国建て、さらに熊本では多婆羅国を建てています。
初代扶余は高句麗を建国した人物ですから、古事記や日本書紀の記述は朝鮮半島の出来事だった可能性も考えられます。ということは富士宮下文書も朝鮮半島での出来事であった可能性がでてくることになります・・
日本書紀は中国や朝鮮半島の歴史の借史であるという説もあるくらいですが、そのことをカラスや猿の道案内の説話が裏付けているのでしょうか・・
因みに、古事記に記されている因幡の白兎譚でのワニ騙しの話のルーツはマレー半島にあるとされています。




2011年12月1日木曜日

津田彩穂梨さんの絵




津田彩穂梨さんの絵が届き
ここ数日じっくりと眺めています
小さな絵ですが、その世界は広く大きく
長い間見入ってしまうのです・・
中央に描かれているものは
石好きのワタクシにとってはタマラナイ質感です






宇宙を連想させるものとしては
もう一つ、このような石が工房にはあります
これは25年ほど前に手に入れたものと
記憶していますが、もっと前かもしれません
縞メノウAgateを熱処理で変色させ
輪切りにしたものと思われますが
偶然の産物として表れた模様が
洞窟の中から眺めた宇宙のようにも見えます
この模様を見る度に不思議な感慨に打たれ
我を忘れてしまうのです・・

2011年11月28日月曜日

端材でオブジェ



楽器を作る際に出た端材で
オブジェを作ってみました
いい息抜きになりました

2011年11月25日金曜日

駒王丸と高麗王若光 その3


きょう、八木書店から刊行されている「楽只堂らくしどう年録 第一巻」を手に入れました。この本については後日詳しく紹介するつもりですが、楽只堂とは徳川五代将軍綱吉の側用人として仕えていた柳沢吉保(よしやす1658~1714)の号だということです。
楽只堂年録は吉保の公用日記が翻刻刊行されるにあたって付けられたものだそうですが、この最初に吉保の先祖の家系が記されています。
その書き出しを少し写してみます・・(旧字は新字に直しています)

信定 
「青木尾張守と号す、吉保が高祖父なり。そもそも青木氏は昔時、清和天皇五代の孫、伊予守源頼義の三男、新羅三郎義光、甲斐守に任ぜしより子孫彼国に充満す。これ甲斐源氏の太祖なり。」
このように、「駒王丸と高麗王若光 その2」で、源氏のルーツは朝鮮半島の新羅にあると述べたことの裏付けになるようなことが記されています。新羅三郎の郎は
花郎の郎でもあります。花郎のトップを源花、あるいは花主、また国仙と云うそうですから源氏の源という字も花郎軍団からきているのかもしれません。因みに源花の下が花郎、または仙郎があり、その下に郎徒または門徒という位があるということです。日本の武士について一族郎党と言ったりしますが、これは花郎軍団の郎徒からきているようです。







2011年11月22日火曜日

駒王丸と高麗王若光 その2

幼名駒王丸の木曽義仲は源氏でありますが、源氏のルーツについては諸説あり、その一つに藤原氏の護衛、あるいは荘園の用心棒的存在として仕えていたというものがあります。これが地方の有力者と結び付き、徐々に力を蓄えていき、武士という存在になったというものです。
それから、新羅の花郎であったという説があります。
907年に唐が滅亡していますが、唐との貿易で成り立っていた新羅も連鎖的に滅びています。このときに新羅に代わって建国したのが契丹と高麗ですが、高麗軍に追放され日本の関東地方に亡命した新羅人の中に、この花郎も含まれていたようです。このときの高麗は後に述べる若光の高麗(高句麗)とは別の王朝で王氏高麗のことです。

高麗王若光のことは日本書紀と続日本紀に僅かしか記されておらず、日本書紀・天智五年(666年)に「冬十月甲午朔己未、高麗遣臣乙相奄鄒等進調、大使臣乙相奄鄒 副使達相遁 二位玄武若光等」とあり、続日本紀巻三の文武三年(699年)に「乙未 從五位下高麗若光賜王姓」とあるのみです。このなかの「王」という字には一般的に「こきし」という朝鮮語の訓が付けられています。
続日本紀には他に高麗人についての記述があり、霊亀二年(716年)に「以駿河(静岡県)、甲斐(山梨県)、相摸(さがみ・神奈川県)、上総(かずさ・千葉県中部)、下総(しもうさ・主に千葉県北部、茨城県南西部)、常陸(ひたち・茨城県北東部)、下野(しもつけ・主に栃木県)七国高麗人千七百九十九人、遷于武藏國、始置高麗郡焉」とあります。
このことから、668年に滅んだ高句麗(高麗)から多くの亡命者が日本列島に入ってきたことが窺われます。先に紹介したように、若光には從五位下の位と王(こきし)姓が与えられています。これが高麗王若光という名の起こりのようです。
参考までに、王氏高麗(918年~1932)に対し、若光がいたときの高句麗(紀元前37~紀元668)は6世紀頃から高麗を正式な国号にしていたということです。尚、若光のときの最後の王は宝蔵王とされています。










2011年11月19日土曜日

駒王丸と高麗王若光 その1

次に製作の予定である平家琵琶の撥面には、
木曽義仲に因んだ絵を描くことにしています、それで、いま木曽義仲のことをちょっと調べています。
琵琶を依頼して下さった方から、義仲の幼名は駒王丸(こまおうまる)であるということを教えてもらっていたので、どうしてそのような幼名が付けられたのかも知りたいと思い、調べ始めたのですが、手立てがほとんどないのです。
そういうことなので、こまおうまる コマオウマル・・・と
念仏のようにブツブツ云いながら本棚を眺めていたら、以前、滋賀県にある渡来人歴史館で買っていた高麗王若光(こまおう じゃっこう)に関するDVDが目に入ったのです。コマオウ! 近い! もうちょっとでコマオウマルではないか・・・ということで、早速そのDVDを見直したのですが、最初に高麗、許麻、巨摩、狛、駒、という字が紹介されているのです・・
どれもコマと発音します。このコマという発音に様々な当て字が付けられているのですが、漢字の意味はそれほど重要ではなく、コマという発音が重要なのは想像がつきます。
許麻、巨摩は地名によく見られます。狛は神社の狛犬のコマですね・・
そして駒は「ヒョウタンからコマ」の駒で馬のことです。