2009年11月10日火曜日

「古代の製鉄」続き その5

播磨国風土記・揖保郡(いぼのこおり)の条では、「韓国(からくに・朝鮮半島)からやって来た天日槍が揖保川(いぼがわ)に至ったとき、葦原志拳乎(あしはらしこお:大国主命)に土地を譲ってほしいと願い出た。葦原志拳乎は取りあえず海にとどまるように言うと、天日槍は海面を勢いよくかき混ぜたので、葦原志拳乎は恐れた」と記されています。
また同じく播磨国風土記・宍禾郡(しそうのこおり)の条では、「葦原志拳乎と天日槍が一つの谷の領有権を争った」とあります。同じく播磨国風土記・神前郡(かんざきのこおり)の条でも「出雲神(いずものかみ=大国主命)と天日槍が争った」と記されています。
これらのことから、当時兵庫県の南西部は出雲国の勢力圏だったことが判ります。しかも最新の製鉄技術を持っているとされるアメノヒボコ集団と争って、それを退けているのですから、出雲国はかなり強大な国だったということも想像できます。
これまで、機会があるごとに播磨地方の地方誌に目を通してきましたが、今のところ、播磨地域の神社の祭神としてアメノヒボコが祀られているところは見当たりません。
刃物の産地として栄えてきた三木市のものも先日見せてもらいましたが、サルタヒコが祀られている神社は数社ありましたが、アメノヒボコが祭神となっている神社は見当たりませんでした。




2009年11月5日木曜日

青山文庫と香道資料

篠山鳳鳴高校内にある青山記念文庫の閲覧に行ってきました。知人の知り合いに香道を教えている人がいて、その人から、青山記念文庫には香道に関する貴重な資料が保管されているので、ぜひそれを見たいと頼まれたということで、こちらに問い合わせがあったのです。
ところが、こちらは恥ずかしながらそういう事は全く知らなかったのです。それで、どんなものか知っておく必要を感じ足を運んだのでありました。
鳳鳴高校内に備えられている書庫は、大型金庫のような扉が取り付けられ、空調のよく効いた立派なものでした。所蔵品の目録も備えられていたので、それを手がかりに
香道に関する資料というものをなんとか探し出しましたが、一箱にまとめて納められたその資料は、和綴じ本で47冊ほどありました。すべてに目を通すことはできませんでしたが、その中で私が興味深かったのは、香道でも歌合(うたあわせ)のように香合(こうあわせ)をやっていたということです。以前、こちらのHPで琵琶合のことを紹介したことがありますが、それと同じことを香道でもやっていたのですね。
これは知りませんでした。
また、源氏香というもの(参照)では、五種類の香が用いられるようですが、これは日本刀の鑑賞で入札鑑定をする場合に五振りの刀が用いられるのと共通していて(参照)、
興味深く感じたのでありました。これは中国の陰陽五行説の影響だと思われますが、下に紹介した本でも中国風の挿絵が随所に見られます。
それだけ、当時幕府が推奨していた儒教の影響が大きかったのだと思いますが、それに警鐘を鳴らしたのが本居宣長だったのであります(参照・九段目)。

参考までに、これは私が所蔵している江戸時代中頃に出版された和綴じ本から引用したものです。この挿絵は、女性のたしなみとして必要な女十芸の内の一つ、「香をきく(鼻偏に香)」という説明図です。この本は明和九年(1772年)に京都で出版されたもので、香道が流行していた当時、裕福な町人の女性のたしなみの一つに入れられるほどだったようです。
因みに他の九つには、「女の道を学ぶ」、「糸を紡ぐ」、
「織りと縫物」、「手習い(習字)と文を読むこと」、
「味(あじわい)を調う(ととのう)こと」、「秤目とそろばん」、
「歌(和歌)を詠む」、「琴を弾(しらぶる)」、そして「双六(すごろく)を打つ」とあります。




最後に同書に載せられている
源氏香の柄の着物を紹介しておきます

この柄の着物は現在でもあるということです


2009年11月4日水曜日

鉋、鉋、鉋

今日は鉋使いの名手
木工作家の徳永順男氏の工房で
研ぎと鉋使いの交流を行いました


鉋刃を研ぐ徳永さん
この両膝を着いた研ぎ姿勢と
手を濡らさず、少量の水で研ぐための研ぎ場セットは
大原氏の考案によるものです
右側にある水桶の水をブラシで砥石に付け
研ぎ汁もこのブラシで洗い流します

大原氏が写真を撮ると
このように玉響(たまゆら・オーブ)が
多量に出現しました・・
5枚ほど撮影されていたのですが
すべてにこのように多量に現れていたのです


2009年10月29日木曜日

「古代の製鉄」続き その4

古代の日本(弥生時代から古墳時代)に
製鉄技術をもたらしたとされる代表的集団に、
サルタヒコ集団とアメノヒボコ集団がありますが、
時代はサルタヒコの方が古いということは
日本書紀の記述からも推察できます。
また、もたらされた製鉄技術も違ったものとされていますが、
サルタヒコは銅鐸文化を中心としていたので、
どちらかと云えば青銅技術が主となっていたようです。
一方、後に渡来したアメノヒボコは最先端の
製鉄技術を持っていたとされています。
このアメノヒボコの技術については、従来の
褐鉄鉱を用いた製錬から砂鉄を用いる製錬をもたらしたとする説や、
焼き入れ技術を持っていたとする説などがあります。
「古代の製鉄」の著者・山本博氏は、
褐鉄鉱を用いた製鉄が原始的で、砂鉄を用いた製鉄が新しいとする説の
根拠となっている、科学的な分析に疑問を投げかけてもいます。
アメノヒボコの後(応神朝)に渡来してきたとされる、
鍛冶の名工である卓素(たくそ)は、銑鉄(ずくてつ)を鋼にする
左下法(さげほう)という技術をもたらしたとされていますが、
もしかして、この技術をもたらしたのが
アメノヒボコだったのかもしれません(参照)。



西王母と東王父


2009年10月25日日曜日

砥石の不思議

先日、久しぶりに京都大平産の仕上げ砥石(戸前 黄板)を
使ってみて、その反応の
すばらしさと研磨力の強さに
驚いたのですが、この砥石
はハイス全鋼の刃には
これまで反応が悪かったのです
これまでは、ハイスや特殊鋼など、強靭な刃も
中研ぎにはシャプトンの「刃の黒幕」#1000と#1500を
使っていましたが、ハイス全鋼は「刃の黒幕」の後では
この大平産の砥前はほとんど反応しないのです
ところが、今年の夏に手に入れた中砥の但馬砥
研いだあとに、そのハイス全鋼の刃を研いでみると
下の画像のように、すばらしい反応をしてくれたのです

ハイス全鋼を但馬砥で研いだ後に研いだ研ぎ汁
この砥石は硬めですが
一般的な鉋身を研いだときと同様の
すばらしい反応です

研ぎ上がった画像ですが
中砥の傷はほとんど消えて
金属組織の細かい結晶が
表れています

これは但馬砥で研いだ痕です
傷は浅く、普通はこういった
浅い傷の後には
硬めの仕上砥はかかりが悪く
人造砥石の深い傷の方が
硬めの仕上げ砥には
反応がいいのです

なぜ但馬砥の後だと
反応がいいのでしょうか
不思議です・・ (参照