2010年1月4日月曜日

古代の製鉄 その12

兵庫県西脇市にある天目一神社近くを流れている加古川の10kmほど下流には、先日紹介した手焙り形土器が出土している加東市があります。また天目一神社の近辺には、鍛冶という名の付いた地名や、鉄を象徴する地名である黒田庄という所があります。それから、古代の製鉄遺跡がある場所の近くによく見られる牧野という地名もあるのです。その北隣の山南町には牧山という山と神社があり、近くには牧山川が流れています。因みに、他にマキノという地名は、滋賀県の琵琶湖西岸にもあり、その地には古代製鉄遺跡もあります(地図参照)。興味深いことは、参照地図に印している余呉湖がある伊香郡(いかぐん)には羽衣(はごろも)伝説があるのですが、江戸時代中頃の伴信友は著書・神名帳考証の「伊香具(いかこの)神社」の項で、当地に伝わる不思議な話を取り上げています。
そこでは、古老の云い伝えとして、余呉湖の南側の入江に白鳥に乗った女性が天から八人舞い降り、この様子を見ていた男が、白鳥の形が奇異だったので神人ではないかと思い、近くに行ってみると天女(てんにょ)であった。その男はひそかに白い犬をけしかけて一人の天女の衣を盗ませた・・云々。ということを記しているのです。
白鳥というのは日本の古代史にはよく登場し、兵庫県の播磨地方、優秀な鉄の産地として知られている千種(ちくさ)には、この地の製鉄技術は出雲(いずも)から白鳥に乗ってやってきた金屋子神によってもたらされたという言い伝えがあります。
古事記・日本書紀に記されている日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は草薙剣(クサナギノツルギ)を持っていましたが、この日本武尊が死後白鳥となって天に飛び去ったという記述は見逃せません。
こうしてみると、白鳥というのは産鉄民族の象徴であったかのようです・・


インドのインダス文明の遺跡から
発見された神官とされる像

2009年12月29日火曜日

古代の製鉄 その11

兵庫県西脇市にある
天目一(あめのまひとつ)神社に
足を運びました

天目一はこれまで述べてきた
天目一箇と同義ですから
以下このように書き表します

社伝によると、この神社は
元々ここにあったのではなく
大正時代に、有識者による判断で
この地に建てられた
ということですですが
この地域に天目一箇神社が
あったのは
延喜式内社として
記録されているので
間違いはなさそうです 参照

石碑に併記されている平野神社は
この地の鎮守だったので
合祀したということです

たいへん立派な社殿が
建てられています

建物の装飾に
このように象を神像化
したものが付けられています
このような例は
ここ丹波地方の神社でも
よく見られます

たとえば、これは
篠山川沿い(篠山市)の
とある八幡(はちまん)神社ですが

この社殿にも同じ装飾が
施されています

社殿の脇にはこのような
レリーフも見られます
これは明らかにインドの
影響だと思われます

因みにこれは
古代インド(紀元前3世紀頃)
の建造物の柱の装飾ですが
よく似たモチーフが
用いられています

この神社の社殿には
このような鳥も
付けられています
一見ウズラのようにも
見えますが
八幡神社なので
鳩(はと)だと思われます

以前、地元の人に
なぜこのように象の装飾や
ハトが付けられているのか
尋ねたことがありますが
何故だか知らないということでした
このような例は以前、随想で紹介したことがありますが
参照(七段目)

地元の人たちは
昔からの言い伝えで
やっているだけ、という風習に
以外に古くから伝わっていることがあるのです
他には、例えば篠山の
ある地域では
葬式の出棺の際に
亡くなった人が使っていた
茶碗を割るという風習がありますが
このようなことは丹波地域では
弥生時代から行われていたことが
分かっています

2009年12月25日金曜日

丸尾山砥石恐るべし

久しぶりに砥取家さんを訪れました
国道372号線が亀岡市に入って間もなく
左折し、北東に進むと丸尾山が見えてきます
工房からは車で30分ほどで行けます

このあたり一帯はあちこちに砥石山があり
優れた砥石として知られている神前産(こうざき)の砥石山もこのすぐ近くにあります(神前産の砥石は、現在は掘られていません)
また、優れた中砥である丹波青砥も、ここから
ほど遠くない所で採掘されているのです


砥取家さんのすぐ近くには
このように杉の大木が聳えていて
大内神社があります
まずここで挨拶をし、砥取家さんに向かいます


掘り出してきた原石を加工する作業所の脇に
試し研ぎのための砥石が所狭しと並べられています


今回は、強靭な特殊鋼の鉋(かんな)を研ぐための
中継ぎ用の仕上げ砥石を探しにきました
23日に述べたように
硬めで力のあるものはないかと
あれこれと試させてもらいました


そして、2枚の仕上げ砥石を手に入れました
これはそのうちの1枚で、丸尾山の
八枚層のものだそうです
23日に紹介した産地不明の優れた砥石
よく似た反応を示してくれました

この砥石は緻密で透明感があり
大理石のように見えます。砥石は見ただけでは判らない
典型のようなものでした。筋は全く当たりません


研磨力も申し分なく、1分ほどで
中砥の#1500の傷をほぼ消すことができました
私はこの後鏡面仕上げをしますが
このままでも充分使えます



そして、これは御主人もいつのものか判らない
というほど古い仕上げ砥石で
四代続いている砥石採掘の御先祖の
誰かが掘ったものだろうということです
採れた山は丸尾山ではないということです
このような砥石は、これまで見たことがありません


裏と側の様子ですが
側は今のように機械で挽いたものではなく
手鋸で挽いたものだそうです

これは上の八枚層のものより硬い砥石ですがよく反応し
強い研磨力があります


これも1分ほどで中砥の傷を消すことができました
申し分なしの仕上がりです


刃先の拡大写真


2009年12月23日水曜日

驚異の砥石 謎の仕上砥


但馬(たじま・兵庫県北部)で長年使われていた
砥石をいただきました

まず、この仕上げ砥石を紹介しようと思いますが
試し研ぎをしてその力強さに驚きました
このような砥当たりのものには
初めてお目にかかりました
これを持ってきて下さった方の話によると
京都の北部で採れた砥石だと聞いたと
いうことでしたが、産地はどこなのでしょうか・・
これに似た色合いのものを何点か持っていますが
どれも違う研ぎ味なのです・・
強いて挙げれば滋賀県高島産のものが似ていますが
高島産の砥石はかなりの数使ったことがありますが
このような反応のものは知りません
硬めですが、強靭な特殊鋼の鉋刃でも
ザクザクと力強く研ぎ上げてくれるのです
ちょうど今、このような砥石が欲しいと思っていた
ところなので、たいへん驚いています
25日に、砥取家さんに行くことにしていますが
そこでも、このようなものを探すつもりだったのです


この画像では刃先が使い減ったままで試し研ぎを
したので、刃先は仕上がっていませんが
ほぼ鏡面に研ぎ上がり、地鉄(じがね)肌が美しく現れます


割れている個所を接着し、台に付けました
長年使い込まれて、厚みは8mmほど
まで減っています。それでも、硬い砥石なので
この先頻繁に使っても10年以上は使えるでしょう
大切に使わせていただきます



それから、もう一つ紹介します
画像左のもので、中砥の但馬砥です
これは本来の但馬砥と思われ
諸寄砥とも呼ばれていたものだと思います
右のものも同じ方から以前いただいた但馬砥ですが
色合いが違います
右のものは近年掘られているもので
諸寄以外の但馬地域、兵庫県豊岡市内各地で 
掘られているもののようです

さて、上の画像左の但馬砥は
持ってきて下さった方の話によると
その方の御尊父が数十年前に40年以上
使ってこられたものだということです
ですから、これは文字どうり
本物の但馬砥(諸寄産)と思われます
30年ほど前に、この砥石は幻の砥石と
言われていたものです・・
私が、兵庫県に越してきたときも
この砥石を求めてあちこち尋ね歩いたのですが
結局いいものに出会うことはできませんでした
それが、このようなかたちで出会うことができ
いま、不思議な感慨に浸っているのです・・


これは特殊鋼の鉋刃を研いだものです
すばらしい反応で、近年掘られているものよりも
強い研磨力があります


これは但馬砥独特の研ぎあがりですね

2009年12月22日火曜日

古代の製鉄 その10



分銅型土製品は岡山県を中心に西日本一帯で出土しているということですが、播磨地域ではこれまで56点ほど確認されています(参照)。これも用途はよく判っていないようですが、群馬県の古墳時代の埴輪に、よく似たものを頭に付けたものがあります(参照)。
古代インダス(インド)の遺跡からも、よく似たものを頭に付けた土製の人物像が出土していますが、日本で出土する分銅型土製品と同様の形状のものが、インドのガンジス川流域のガンガー文化の青銅製の呪具に存在しています。ですから、日本の埴輪とインダス文明の土製人物像のものとは同じ目的で頭に付けられていたと思われます。このことから、分銅型土製品のルーツはガンガー文化にあると佐藤矩康氏は指摘されているのです。氏によると、ドルメンも同じ伝播ルートを辿っているということです。ということは、天目一箇神と猿田彦は同じ系統の民族と云えそうです。共通項はどちらも青銅製品を作ることを専門にしているということが云えます。そういえば、18日に触れた(参照)千種地方の岩野辺(いわなべ)という所では銅鐸の破片が出土しています。
先に、分銅型土製品のルーツはガンガー文化にあると述べましたが、時代は紀元前1000年頃ということです。世界史では、この頃はソロモン王がタルシン船団を組んで中国大陸にまで至っているとされていますが、その文化は当然後に日本にも入ってきています。たとえば天照大御神や伊勢神宮がそうです。この西アジアが起源のフェニキア文化と先のインドのガンガー文化との関係にも興味が湧きます。