2011年2月4日金曜日

平田家文書 その3

津山藩(岡山県)の藩工である
刀工多田金利の文化六年(1809年)
の日記によると、依頼があれば
刀以外の金物も打ち、修理も
行っていたことが分かります

日記には、「燭台(ロウソク立て)拾六(16点)」 
「心切り(ロウソクの芯を切るハサミ)七つ」
「手燭六つ」 「かすがい七つ」 「環(金輪)七振り」
「懸金(掛け金具)百十」 「秤 弐百十(210点)
「細工小刀 九」 「きり小刀 五」 「斧 壱(1丁)
「火ばし 三拾五」 「上火ばし 九」 「打釘 五十」
などなど、その品は多種に亘っています

さて、その2で紹介したような
職の妨害に対する訴えの
嘆願書は7点ほどありますが
もう一点紹介しておきます

これは天明三年(1783年)
当時、農具鍛冶の東寺組合の年寄職をしていた
丸一屋伊右衛門を含め(丸一屋は平田家の屋号)
三名の連名による嘆願書で
触頭の清水平兵衛を通じて奉行所に
出されたものです


「恐れながら願い奉る口上書き」

城州(山城国・京都)乙訓郡馬場村鍛冶藤兵衛
右の者(藤兵衛)は藤蔵の義理の子

摂州(摂津国・大阪)嶋上郡広瀬村の鍛冶
伝九郎と申す者、宝暦十一年巳年(1761年)
三月二十三日、山崎岩川上に住居仕り
印札なしにて農具鍛冶職いたし
仲間の職分を相妨げ候につき
御差し止めの儀を願い上げ奉り候ところ
同晦日(みそか・30日)に召し出され、願いのとうり
職分を御差し止め仰せ渡され則し候
請書差し上げ奉り候

然るところ、その後摂州広瀬村へ
罷り越し(場所を移し)、また御当地へ入り込み
仲間の得意先をせり取りに相廻り候につき
その節仲間より応対に及び候えども相聞き申さず
再び応じ、掛け合い候の上、先年私どもの仲間
鳥羽屋小兵衛に親方籐兵衛を以って
段々相詫び候ゆえ、別途一札これを取り
下にて相済み申し候

然るところ、またまた御当地へ入り込み
西岡村々へ農具細工受け取りに相廻り候
職分相妨げ候につき、伝九郎幷(ならびに)
証人親方である馬場村の籐兵衛へも掛け合い
先の取り置き候一札の趣を以って
応対候えども、一向取り致し申さず候
籐兵衛による証判が仕り罷り(まかり・謙譲語)あり
その上、伝九郎と弟子のことにて
籐兵衛の取り計らい方も之有るべき旨(むね)
この度段々罷り申し入れ下され候へども
別紙の一札、相定め罷りありながら
御構堂仲間一同、難儀仕り候ゆえに
御慈悲の上、籐兵衛を召し出され
吟味の上、一札通り相守り為し候様
仰せ付けなされ候て有難く存じ奉るべく候
右のとうり願い上げ奉り候ゆえ
御役所様へ宜しく仰せ上げられ
たびたび恐れながら願い奉り候。

2011年2月3日木曜日

やっと見つかりました・・謎の仕上砥

一昨年の12月23日に紹介した
謎の仕上砥(参照)と同様のものに
やっと出合うことができました
その砥石を紹介する前に
今回新たに手に入れた天然中砥の
沼田砥を見ていただこうと思います
この中砥もたいへん優れているのです



沼田砥は群馬県に産し(参照
刀剣研磨にも使われていたそうですが
昭和40年代に閉山したということです







硬めの砥石で、やや反応が鈍いので
目起こしをして研いでみました






ザクザクと荒い研ぎ心地で
強い研磨力があります
研ぎ傷は浅く、ご覧のように
この状態でほとんど仕上がっています
鋼は東郷鋼







そしてこれが、やっと出合った仕上砥
京都丹波大平産の戸前層のものと
思われるものです
大平産の内曇り砥(天井巣板)
刀剣研磨でも使われているものです

謎の仕上砥とほぼ同じ反応を示し
強い研磨力があります






一見、赤ピン系の柔らかい仕上砥に
見えますが実際は硬めで
良く反応し、砥泥の出方も理想的です
砥石は見た目では判らない典型のような石です







やや荒目に曇る理想的な中継ぎ砥です








さてこちらは
謎の仕上砥によく似た顔をしているので
喜び勇んで手に入れたものですが
やはり砥石は見た目では分かりません






ですが、最終仕上砥としては
たいへん優れた砥石で
このようなものには
めったにお目にかかれない砥石です









以上の砥石を使った動画を
You tube にUPしました

2011年2月2日水曜日

平田家文書 その2

長塚節(たかし)の小説「土」では
貧しい農家にとっての農具の重要さが
淡々と述べられていますが
前回も述べたように
国の根幹を支える農業のための道具は
当時は手道具が主であり、それらは
農具鍛冶によって製造販売されていました

平田家文書の農具鍛冶関連のものは
当家が同業組合とでも云える「鍛冶仲間」の
重要な立場にあったため
そのほとんどが奉行所や触頭(組合頭)への
嘆願書や、他の仲間からの依頼書であります
嘆願書が残っているということは
奉行所や触頭へ出したものの控えが
保存されていたものと思われます
それら107点の文書から
いくつか紹介したいと思います


まずこれですが
これは宝暦六年(1756年)五月に
触頭である清水平兵衛(へいべい)を通して
奉行所に出された嘆願書です
この文書の最後の署名のなかの
丸一屋伊右衛門が平田家の屋号です

江戸時代の文体は
このように和漢混淆文が一般的でしたので
このままでは読みにくいので
私に読めるかぎり読み下してみます
間違いなどありましたら
ご教示頂くと助かります


「恐れながら願いたてまつる口上書」

田舎鍛冶(が)これまで近在へ参り
農具細工(を)(つかまつ)(行っている)(故・ゆえ)
ご当地の農具鍛冶53人の者
困窮仕り(困窮している)(そうろう)につき
段々(いろいろと)願い奉り(たてまつり)候ところ
御吟味のうえ、銘々(それぞれ)御差し止め
なり下され、ありがたく存じ奉り候

然る(しかる)ところ、この度、泉州堺(大阪府堺市の)鍛冶
源兵衛(げんべい)と申す者、西七条村中町(の)百姓
八兵衛と申す者と馴(な)れ合い
旅宿に仕(つかまつ)(留まり)、農具一式
夥しき(おびただしき・多くの)商い仕り候上
農具直し細工などまで請け取り(請け負い)
ご当地の農具鍛冶(の)得意先(を)(強調の意)妨げ
(わずか)の居職(いじょく)(自宅での仕事はわずかしか行っていない)
農具仲間(は)一向手透きにまかりなり
必至と手詰まり(このままでは仕事が少なくなり
手詰まり状態になる)渡世難儀、迷惑仕り候間(故・ゆえ)

右の源兵衛という者は、先年朱雀村(の)
茂兵衛方の旅宿に仕り(行き)
右体(先に述べたような)商売を仕り候につき
去々(一昨年の)戌年(いぬどし)三月五日に
御差し止め願い奉り候ところ
御吟味の上、御差し止めなり下され候ところが

また西七条村へ参り相妨げ、甚だ(はなはだ)
難儀仕り候ゆえ、御慈悲の上
西七条村の百姓、八兵衛幷(ならびに)
堺の鍛冶源兵衛を召し出され
以来(今後)、ご当地の農具鍛冶の妨げ(さまたげ)
仕らず候よう仰せ付けられ下され候はば
一統に有難く存じ奉るべく候。  以上。

平田家文書 その1


 古書店でふと目に留まった本ですが
ぱらぱらと捲ってみたら
興味深いことが目に入ったので
買ってきました


小川寿一 編集・解説
「平田家文書」より部分転載

この本は非売品となっていますので
自費出版されたもののようですが
口絵部分に古文書の写真が
いくつか掲載されているので
それを少し紹介しておきます

この文書が蔵されている平田家は
京都東寺の東側にあり
万治元年(1660年)から
明治11年(1878年)までの
各種文書が保管されているということです

その中で私が興味を惹かれたのは
平田家の家業でもあった
農具鍛冶関連の文書です
それは寛保元年(1741年)から
文政元年(1818年)の分まであり
数にして107点あります





 まず紹介しておきたいのはこれですが
これは軸装されているので
ここに書かれてあることは
平田家としては誉の一件だったものと
思われるのです
 編者の小川寿一氏による翻文

農具鍛冶という職種は
当時では必要不可欠なものだったので
藩の管轄下にあり
専売されていたのではないかと
平田家文書から推察できるのですが
鍛冶に携わっているからには
やはり刀を打つ刀鍛冶には
憧れがあったようです

それを裏付けるように
寛政11年(1799年)の文書には
農具鍛冶仲間のなかから
当時の刀鍛冶の惣匠とされていた
京五鍛冶の一人である伊賀守金道
入門した者があることも記されています

また上に紹介した文書の内容のように
野鍛冶とも云われる農具鍛冶が
刀の鍔(つば)を打つというようなことは
異例のことだと思われるのですが
それだけに一家として誇りだったのでしょう

本書の編集・解説をなさっている
小川寿一氏は、上の鍔の鍛造の文は
かなり誇張があり見直す必要がある
と述べられていますが・・

2011年1月28日金曜日

遼寧省と日本の帯金具、そして勾玉

前回の続きですが
中国遼寧省の出土物と日本のそれに
よく似たものがある例として
他に下に紹介したような帯金具があります

 これは奈良県から出土している
古墳時代の帯金具ですが


画像は九州国立博物館HPから引用

同時代の遼寧省から出土している
バックル部分の形状・様式がほぼ同じです
帯金具について考察されている資料が
手許にあるはずなのですが
まだ見つかりませんので
見つかり次第紹介したいと思いますが
ここまで似ているものは
他の地域には見当たらないのです


それから、これらは
遼寧省の出土品ですが
右端の石剣や管玉
それから勾玉も日本から
同様のものが出土しています(参照
(銅剣は遼寧式銅剣と云われる
独特の形状のもので
これは日本では見られません)

ですから、遼寧省を含む朝鮮半島と日本は
桓檀古記(契丹文書)に記されているように
古代から深い繋がりがあったと
云えるのではないでしょうか

このことは、敷衍すれば
北部九州と朝鮮半島の伽耶(かや)や新羅が
同族であったことの可能性と
同じことなのかもしれません
参照:四段目)