2011年5月10日火曜日

沼田・虎砥と愛宕山仕上砥で東郷鋼鉋を研ぐ


先日UPした動画の画像を紹介しておきます
これはどこの産地のものか不明ですが
ひじょうに硬く、面直しをするのに一苦労しました
硬いにもかかわらずよく反応し
心地よく研ぐことができます
この面は板目ですが青砥のように
使う面を柾目にする、というような
気を使う必要はなさそうです
 
 そして、この面は柾目です
ジャリジャリとした研ぎ感ですが研ぎ傷は浅く
粒度は#1200といったところでしょうか
内田広顕著 「刃物に関する諸材料
で説明されている砥石のなかでは
山形県の前森砥が近い感じがします
「凝灰岩 緑色・塊状・緻密 中砥」と説明されています
あと緑色を呈している中砥としては
秋田県の金山石ですが、「岩脈を成す石英粗面岩 」
という説明には該当しない感じです

次に使っているのは京丹波・亀岡産の青砥です
亀岡には青砥の産地として
岡花・青野・宮川が連なっていますが
これは今では幻の砥石となってしまった岡花産のものです

以前の動画で、割れた青砥を接着して
使っているのを紹介したことがありますが(参照
先般、森砥石さんが工房に寄ってくれた際に
その青砥を見てもらったら「これは岡花産のもので
うちが昔掘っとったものでっせ」と言われたのです

こうこうこうで、と事情を説明したら
後日持ってきて下さったのがこの砥石なのです
青砥は、どの産地のものも
硬いものから柔らかいものまで様々ありますが
これはやや硬めで砥泥が邪魔にならず
しかも研ぎ易く、心地よく研ぐことができます
そして何よりも青砥によく見られる
粒度のムラがほとんどありません
これには大変助かります

ややピンボケですが
研ぎ傷の粒度は上の産地不明のものと
それほど変わらない感じですが
傷が深めなのか地鉄(じがね)がやや濃く見えます

そして次に使っているのは
これは沼田・虎砥です
一見、三河名倉に見えますが
縞の感じが違います






研ぎ上がりも優れた中山ものと同様に
粗めの研ぎ感の割には緻密に仕上がっています
細身ながら、たいへん優れた仕上砥です

さて、最後の仕上研ぎは
京都愛宕山産の仕上砥を使ってみました



硬めですがよく反応し
強い研磨力があります
サリサリとした研ぎ感は、中山産と言われても
違いが判らないほどです

2011年4月30日土曜日

能面と刀

世界文化社刊 梅若六郎著
「まことの花」から部分転載 

今日は久しぶりに篠山の能楽資料館に
足を運びました
2年ぶりになりますか・・
ここを訪れる度に、能が完成された
室町時代の能面のすばらしさに
感嘆させられるのです
それに鼓の蒔絵と衣装の絵柄の大胆さ・・

能楽資料館を後にして、次は篠山の刀工
藤井啓介氏の鍛刀場を訪れました
作品展示コーナーで目にした氏の作品は
室町時代の能面の緊張感に負けていない
存在感があり、氏の力量に
改めて感服してしまったのであります
最近の氏の地鉄(じがね)
よく詰んだ古刀期や新刀期の地鉄に
劣らぬものがありますが
刃文の匂い口(刃文の幅)の見所の多さも
見事だと思います

氏の作品は玄人好みといいますか
刀を見る目がある程度身に付いている人にしか
分かってもらえない部分が多いので
ある面、損をしているのかもしれませんが
氏はそれにもかかわらず
自分の目指す方向性にブレがないのが
すばらしいと思うのです
その頑な姿勢は室町時代の能面に
通ずるものでもあるとも感じさせられたのです


2011年4月27日水曜日

瀕死の桜・・


丹波篠山の中心部に
王子山という小山があります
24日に来客があったので
そこにも案内したのですが
咲き終わったソメイヨシノの1本が
瀕死の状態にありました

幹の太さはそれほど太くはないので
樹齢は10数年といった感じです
虫にやられたか、病気にでも罹っているのでしょうか
上方の太い枝は枯れ果てています
それでも下の方の枝には葉が出ているので
まだ生き長らえているようです



その桜の主幹から一輪花が出ていました
最後の力を振り絞って咲いているようで
心を打たれました・・

老桜の ひとひらの花 幹に揺れ   棚柿音(たなかきおと)


2011年4月24日日曜日

幕末の出石と江戸



これは出石の旧家から出た
幕末の読本です
題は「野居鷹(のずえのタカ)



 発刊されたのは
文化五年(1808年)
画工は、かの有名な
葛飾北斎であります
江戸深川で発刊されたことが
記されていますから
この本も江戸から
出石に運ばれてきた
ことになります
見開いた右上に
判が押されていますが
但州出石サシガネに▲の下に
米太とあります

この読本は
四巻が綴じられていて
貸し本とされていたようです
上の「米太」という判は
ここに書かれてある
田米屋という貸本屋
のものなのかもしれません
各巻の最後に上のように
「帙本何方(いずかた)
御かし(貸し)
申候共(申しそうらへども)
相済み候はば(そうらはば)
早々御返し下され
(たく)候也(なり)
と注意書きがなされています

2011年4月22日金曜日

千代鶴是秀と運寿是一

HPの「日本刀について」で述べている
石堂運寿斎是一の短刀が今回の篠山刀剣会で
鑑定刀として出されました



写真では分かりにくいですが
地鉄じがねは大変美しく
新々刀期のものとは思えず
大阪新刀や肥前刀と見紛うほどでした
刃文はもんの匂いは深く(刃文が太い)よく揃い
刀工の腕の良さが表れています
新刀期の大阪新刀や肥前刀の刃文にくらべると
やや刃文の明瞭さに曇りを感じますが
匂いの深い丁子刃文に沸にえ
付けることができるのは
江戸石堂派ではこの運寿是一だけだそうで
幕府の抱え工になったのも頷けます

 運寿是一は奉納刀など注文打ちの刀も多く
これもその一つのようです
「奉 出石侯命」と切られていますが
兵庫県北部の出石Izushi藩の藩主による
注文打ちのようです

中心なかごの棟側には
嘉永七年ハ月日と年紀が切られています
(嘉永七年は西暦1854年)

「日本刀について」でも述べていますが
刃物鍛冶で有名な千代鶴是秀(明治七年生まれ)
父親(二代目綱俊 運寿是俊)の弟
つまり是秀の叔父(八代目 石堂寿永)は
石堂運寿斎是一の弟子です
是秀はこの叔父に入門しています
是秀が入門した頃は石堂是一も健在だったので
是秀はおそらく両人から指導を
受けていたものと思われます
ですから、是秀の打った刀が古刀として見られた
という逸話も本当かもしれません

参照:千代鶴是秀作組鑿