2011年2月5日土曜日

平田家文書 その4

HPの「京都伏見の鋸鍛冶について
で紹介しているように
江戸時代になって刀剣の重要が減少したため
他の鍛冶職に転向をした刀工も多かったようです
おそらく平田家もそうだったと思われるのは
文書の端々に、平田家が
二条城の御用鍛冶を務めていることを
したためていることからも想像できます

平田家文書は万治三年(1660年)から
確認できるので、おそらく江戸時代になって
二条城が築城された時から
御用鍛冶を務めていたものと思われます
そういった事が書かれた文を
紹介しようと思いますが
この「一札」は前回紹介した文書と同様の
農具鍛冶組合の商売の妨げを
再び行わないという念書です
文政元年(1818年)九月二十四日のもので
新田村の大工 籐兵衛と保証人の
新田村の庄屋七兵衛から出されたもの


「一札」

鍛冶御仲間については、往古より
二条御城中の御用御勤めなられ候
御仲間の御定法(取り決め)相成り候
素人ども売買致しまじく旨(してはならないこと)
御公儀様(幕府)より御触れ流しこれあり
以後、我等心得違い仕り候て
田舎より釘・金物を買い取り
その上得意先へ売りさばき
はなはだ不埒(ふらち・良くないこと)仕り候につき
御出訴におよび、ご理解なり下さり
御差し止めさせられ、恐れ入りなり奉り候

以後は、釘・鉄物・針金等に至るまで
きっと売買致し申しまじく候(いたしません)
もし受け負い共にて請け仕りそうらはば
諸事鉄物類を田舎より買い取り相用い申さず
御仲間内にて買い取り申すべく候
(と言い伝えます)
万一前文に相違御座そうらはば
何時にても思召(おぼしめし)なり下さり候ても
その時一言の子細毛頭申しまじく候
(一言も言い訳をいたしません)
後日のために一札依件(くだん)のごとし






もう一点紹介しておきます
これは天明三年(1783年)五月に
出されたものです

「一札の事」

私、無印札(無許可)にて農具鍛冶職として
渡世仕り候ところ、去る卯年の十月
南山城一統(京都南部一帯の意か)に御印札
御渡しなされ候ところ、私勝手に付き
鍛冶職相止め申したく候につき
一札に則り(のっとり)仕り、お断り申し上げ奉り候

然るところ、今年の春より少しづつ
農具細工仕り、不届けの段誤り奉り候
これによりて、以後鍛冶職、直し物等にても
堅く仕り申しまじく候(いたしません)
もし右の趣、相違仕りそうらはば
いかようにも仰せ付けられ下さるべく候
その時一言のお詫び仕りまじく候
(どのような言い訳もいたしません)
後日のために仍て件のごとし。

2011年2月4日金曜日

平田家文書 その3

津山藩(岡山県)の藩工である
刀工多田金利の文化六年(1809年)
の日記によると、依頼があれば
刀以外の金物も打ち、修理も
行っていたことが分かります

日記には、「燭台(ロウソク立て)拾六(16点)」 
「心切り(ロウソクの芯を切るハサミ)七つ」
「手燭六つ」 「かすがい七つ」 「環(金輪)七振り」
「懸金(掛け金具)百十」 「秤 弐百十(210点)
「細工小刀 九」 「きり小刀 五」 「斧 壱(1丁)
「火ばし 三拾五」 「上火ばし 九」 「打釘 五十」
などなど、その品は多種に亘っています

さて、その2で紹介したような
職の妨害に対する訴えの
嘆願書は7点ほどありますが
もう一点紹介しておきます

これは天明三年(1783年)
当時、農具鍛冶の東寺組合の年寄職をしていた
丸一屋伊右衛門を含め(丸一屋は平田家の屋号)
三名の連名による嘆願書で
触頭の清水平兵衛を通じて奉行所に
出されたものです


「恐れながら願い奉る口上書き」

城州(山城国・京都)乙訓郡馬場村鍛冶藤兵衛
右の者(藤兵衛)は藤蔵の義理の子

摂州(摂津国・大阪)嶋上郡広瀬村の鍛冶
伝九郎と申す者、宝暦十一年巳年(1761年)
三月二十三日、山崎岩川上に住居仕り
印札なしにて農具鍛冶職いたし
仲間の職分を相妨げ候につき
御差し止めの儀を願い上げ奉り候ところ
同晦日(みそか・30日)に召し出され、願いのとうり
職分を御差し止め仰せ渡され則し候
請書差し上げ奉り候

然るところ、その後摂州広瀬村へ
罷り越し(場所を移し)、また御当地へ入り込み
仲間の得意先をせり取りに相廻り候につき
その節仲間より応対に及び候えども相聞き申さず
再び応じ、掛け合い候の上、先年私どもの仲間
鳥羽屋小兵衛に親方籐兵衛を以って
段々相詫び候ゆえ、別途一札これを取り
下にて相済み申し候

然るところ、またまた御当地へ入り込み
西岡村々へ農具細工受け取りに相廻り候
職分相妨げ候につき、伝九郎幷(ならびに)
証人親方である馬場村の籐兵衛へも掛け合い
先の取り置き候一札の趣を以って
応対候えども、一向取り致し申さず候
籐兵衛による証判が仕り罷り(まかり・謙譲語)あり
その上、伝九郎と弟子のことにて
籐兵衛の取り計らい方も之有るべき旨(むね)
この度段々罷り申し入れ下され候へども
別紙の一札、相定め罷りありながら
御構堂仲間一同、難儀仕り候ゆえに
御慈悲の上、籐兵衛を召し出され
吟味の上、一札通り相守り為し候様
仰せ付けなされ候て有難く存じ奉るべく候
右のとうり願い上げ奉り候ゆえ
御役所様へ宜しく仰せ上げられ
たびたび恐れながら願い奉り候。

2011年2月3日木曜日

やっと見つかりました・・謎の仕上砥

一昨年の12月23日に紹介した
謎の仕上砥(参照)と同様のものに
やっと出合うことができました
その砥石を紹介する前に
今回新たに手に入れた天然中砥の
沼田砥を見ていただこうと思います
この中砥もたいへん優れているのです



沼田砥は群馬県に産し(参照
刀剣研磨にも使われていたそうですが
昭和40年代に閉山したということです







硬めの砥石で、やや反応が鈍いので
目起こしをして研いでみました






ザクザクと荒い研ぎ心地で
強い研磨力があります
研ぎ傷は浅く、ご覧のように
この状態でほとんど仕上がっています
鋼は東郷鋼







そしてこれが、やっと出合った仕上砥
京都丹波大平産の戸前層のものと
思われるものです
大平産の内曇り砥(天井巣板)
刀剣研磨でも使われているものです

謎の仕上砥とほぼ同じ反応を示し
強い研磨力があります






一見、赤ピン系の柔らかい仕上砥に
見えますが実際は硬めで
良く反応し、砥泥の出方も理想的です
砥石は見た目では判らない典型のような石です







やや荒目に曇る理想的な中継ぎ砥です








さてこちらは
謎の仕上砥によく似た顔をしているので
喜び勇んで手に入れたものですが
やはり砥石は見た目では分かりません






ですが、最終仕上砥としては
たいへん優れた砥石で
このようなものには
めったにお目にかかれない砥石です









以上の砥石を使った動画を
You tube にUPしました

2011年2月2日水曜日

平田家文書 その2

長塚節(たかし)の小説「土」では
貧しい農家にとっての農具の重要さが
淡々と述べられていますが
前回も述べたように
国の根幹を支える農業のための道具は
当時は手道具が主であり、それらは
農具鍛冶によって製造販売されていました

平田家文書の農具鍛冶関連のものは
当家が同業組合とでも云える「鍛冶仲間」の
重要な立場にあったため
そのほとんどが奉行所や触頭(組合頭)への
嘆願書や、他の仲間からの依頼書であります
嘆願書が残っているということは
奉行所や触頭へ出したものの控えが
保存されていたものと思われます
それら107点の文書から
いくつか紹介したいと思います


まずこれですが
これは宝暦六年(1756年)五月に
触頭である清水平兵衛(へいべい)を通して
奉行所に出された嘆願書です
この文書の最後の署名のなかの
丸一屋伊右衛門が平田家の屋号です

江戸時代の文体は
このように和漢混淆文が一般的でしたので
このままでは読みにくいので
私に読めるかぎり読み下してみます
間違いなどありましたら
ご教示頂くと助かります


「恐れながら願いたてまつる口上書」

田舎鍛冶(が)これまで近在へ参り
農具細工(を)(つかまつ)(行っている)(故・ゆえ)
ご当地の農具鍛冶53人の者
困窮仕り(困窮している)(そうろう)につき
段々(いろいろと)願い奉り(たてまつり)候ところ
御吟味のうえ、銘々(それぞれ)御差し止め
なり下され、ありがたく存じ奉り候

然る(しかる)ところ、この度、泉州堺(大阪府堺市の)鍛冶
源兵衛(げんべい)と申す者、西七条村中町(の)百姓
八兵衛と申す者と馴(な)れ合い
旅宿に仕(つかまつ)(留まり)、農具一式
夥しき(おびただしき・多くの)商い仕り候上
農具直し細工などまで請け取り(請け負い)
ご当地の農具鍛冶(の)得意先(を)(強調の意)妨げ
(わずか)の居職(いじょく)(自宅での仕事はわずかしか行っていない)
農具仲間(は)一向手透きにまかりなり
必至と手詰まり(このままでは仕事が少なくなり
手詰まり状態になる)渡世難儀、迷惑仕り候間(故・ゆえ)

右の源兵衛という者は、先年朱雀村(の)
茂兵衛方の旅宿に仕り(行き)
右体(先に述べたような)商売を仕り候につき
去々(一昨年の)戌年(いぬどし)三月五日に
御差し止め願い奉り候ところ
御吟味の上、御差し止めなり下され候ところが

また西七条村へ参り相妨げ、甚だ(はなはだ)
難儀仕り候ゆえ、御慈悲の上
西七条村の百姓、八兵衛幷(ならびに)
堺の鍛冶源兵衛を召し出され
以来(今後)、ご当地の農具鍛冶の妨げ(さまたげ)
仕らず候よう仰せ付けられ下され候はば
一統に有難く存じ奉るべく候。  以上。

平田家文書 その1


 古書店でふと目に留まった本ですが
ぱらぱらと捲ってみたら
興味深いことが目に入ったので
買ってきました


小川寿一 編集・解説
「平田家文書」より部分転載

この本は非売品となっていますので
自費出版されたもののようですが
口絵部分に古文書の写真が
いくつか掲載されているので
それを少し紹介しておきます

この文書が蔵されている平田家は
京都東寺の東側にあり
万治元年(1660年)から
明治11年(1878年)までの
各種文書が保管されているということです

その中で私が興味を惹かれたのは
平田家の家業でもあった
農具鍛冶関連の文書です
それは寛保元年(1741年)から
文政元年(1818年)の分まであり
数にして107点あります





 まず紹介しておきたいのはこれですが
これは軸装されているので
ここに書かれてあることは
平田家としては誉の一件だったものと
思われるのです
 編者の小川寿一氏による翻文

農具鍛冶という職種は
当時では必要不可欠なものだったので
藩の管轄下にあり
専売されていたのではないかと
平田家文書から推察できるのですが
鍛冶に携わっているからには
やはり刀を打つ刀鍛冶には
憧れがあったようです

それを裏付けるように
寛政11年(1799年)の文書には
農具鍛冶仲間のなかから
当時の刀鍛冶の惣匠とされていた
京五鍛冶の一人である伊賀守金道
入門した者があることも記されています

また上に紹介した文書の内容のように
野鍛冶とも云われる農具鍛冶が
刀の鍔(つば)を打つというようなことは
異例のことだと思われるのですが
それだけに一家として誇りだったのでしょう

本書の編集・解説をなさっている
小川寿一氏は、上の鍔の鍛造の文は
かなり誇張があり見直す必要がある
と述べられていますが・・

2011年1月28日金曜日

遼寧省と日本の帯金具、そして勾玉

前回の続きですが
中国遼寧省の出土物と日本のそれに
よく似たものがある例として
他に下に紹介したような帯金具があります

 これは奈良県から出土している
古墳時代の帯金具ですが


画像は九州国立博物館HPから引用

同時代の遼寧省から出土している
バックル部分の形状・様式がほぼ同じです
帯金具について考察されている資料が
手許にあるはずなのですが
まだ見つかりませんので
見つかり次第紹介したいと思いますが
ここまで似ているものは
他の地域には見当たらないのです


それから、これらは
遼寧省の出土品ですが
右端の石剣や管玉
それから勾玉も日本から
同様のものが出土しています(参照
(銅剣は遼寧式銅剣と云われる
独特の形状のもので
これは日本では見られません)

ですから、遼寧省を含む朝鮮半島と日本は
桓檀古記(契丹文書)に記されているように
古代から深い繋がりがあったと
云えるのではないでしょうか

このことは、敷衍すれば
北部九州と朝鮮半島の伽耶(かや)や新羅が
同族であったことの可能性と
同じことなのかもしれません
参照:四段目)


2011年1月26日水曜日

触角式銅剣 柄頭

巴紋様々」で紹介した原田大六氏は
著書「日本国家の起原」で
考古学上の興味深い指摘をしています
原田大六 著
「日本国家の起原 上巻」より部分転載

その一つに、上に紹介したような
触角式銅剣の柄の考察があります
右端のものは佐賀県柏崎遺跡から
出土しているものですが(参照
これと同様の柄を持った銅剣が
世界各地で発見されているということなのです

ということは、鹿島曻説のように
日本の古代文化・文明は
メソポタミアなど西アジアをルーツとし
それらが西周り、あるいは南周りで
日本に入ってきている
という可能性は大きいと云える
のではないでしょうか
鹿島説では、その流れがタイの
バンチェンで逆流し、再び西と南に
流れて行くのです
また、それが日本列島に入って来る際にも
北からの流れと南からの流れがあります

その流れのなかの、中国と日本に
焦点を当ててみると
以前紹介した、中国遼寧省から
出土している銅戈にある三つ巴紋を
考察する上でのヒントを得ることができます


たとえば 
これは遼寧省出土の三つ巴紋銅戈と
ほぼ同じ時代と地域から出土している
龍の頭部と思われる彫刻ですが
それと同様の様式の龍頭(りゅうず)
時代は下りますが、日本にも見られるのです


これがそうですが
これは海の正倉院とも云われる
福岡県の玄界灘にある沖ノ島の
遺跡から発見されているものです
時代は東魏時代(6世紀)とされています


これはまたずっと時代が下りますが
兵庫県の神社に奉納されているものです
これなども古代遼寧省の流れを
見て取ることができます

ということは、日本の三つ巴紋は
中国遼寧省から入って来た可能性が
大きいことになるわけですが
中国の戦国時代(紀元前403~221)よりも
古くから日本に三つ巴紋が
あったということならば
九州南部から入ってきたものが
北上し、中国遼寧省に及び
それがまた逆流してきたということも
考えられるということになります


2011年1月22日土曜日

三・五・七鈴 七五三

タイトルに三・五・七と入力して
おやと思ったのですが
逆から読めば七五三になりますね・・
七五三の宮詣りは
厄払いの意味もあるようですが
やはり三・五・七には魔除けの力があるのでしょうか

 さて、これは何に使われていたのか不明の
ものなのですが、これと同様のものが
東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)
天真名井(あまない)家文書が保管されていた
とされる天真名井家に伝えられています
東日流外三郡誌でも図入りで記載されていて
それによると、これは
「神武帝皇后累継五鈴手長鏡」とされていて
作者は「玉造天乳命」とされているのです

そして、説明文の「天之常立鈴鏡之事」では
天皇の継累には三種の神器を伝賜し即位し
皇后は天皇即位と共に
神武帝皇后より継賜する天之常立鈴鏡を
受け継いで正位皇后となるとされていて
五つの鈴は天祖五代を顕し
鏡は天照皇大神を霊顕している
と説明されています

また、後土御門天皇と皇后の源頼子の
第三皇子である天真名井宮義仁親王が
文明十一年(1479年)七月一日に
奥州挙兵に赴く折に武運長久を
祈って賜った遺品であるとも記されています 

東日流外三郡誌には偽書説も当然あるのですが
確かに和田家文書には和田喜八郎により
書かれた偽書も多くあるようですが
だからといって、天真名井家文書も
すべて偽書にしてしまうのは
ちょっと行きすぎのような気がします
それを言ってしまうと
古事記・日本書紀も当時の
権力者の都合のよいように書かれた偽書
ということになってしまうのです

東日流外三郡誌に記載されている図の
なかには、後に古墳の壁画に
同様のものが発見されたりしているのです

 鏡の裏側には鬼瓦のような顔があります
これと同様のものは古代の中国にも
見られますが、やはり魔除けとして
付けられているのでしょう


 これは日本の古墳から出土している
五鈴鏡ですが(参照


 中国にはこのようなものがあります
釧(くしろ)でしょうか・・(戦国時代:BC403年~BC221)


 これは、ここ丹波篠山の古墳から
出土している七鈴鏡です(参照




これも篠山の古墳から出土している馬鈴
これは三鈴ですね


そしてこれは韓国から出土しているものですが
これは何のために使われたのでしょうか
参照

2011年1月21日金曜日

巴紋様々

大阪府吹田市の
万博公園内にある
国立民族学博物館
ウサギに因んだ
企画展が行われましたが
その展示物に東南アジアの
タイで使われていた
「皮むき器」がありました
それに付けられていた模様に
おや?!と思ったのですが
この文様は以前紹介した
巴形銅器に
似ていませんか・・?


 これは以前紹介した
弥生時代の
巴形銅器(参照
渦の向きは逆で渦の数も
違っていますが
良く似ています

原田大六著
「銅鐸への挑戦 1巻」
から部分転載

巴形銅器については
原田大六氏の優れた
考察がありますが
氏は著書で、中国秦代の咸陽宮の軒瓦(参照)に
巴形銅器とよく似た
文様があるということを
昭和50年代に
発表されていたのです

原田大六著
「銅鐸への挑戦 1巻」
から部分転載

それから、上の図は
アメリカのミシシッピ川
下流で発見されている土器(ミシシッピ文化)に
見られる文様として氏が紹介しているものですが
これにも同様の
文様が見られるのです

ここでもう一度
以前紹介した(参照
中国戦国時代の銅戈を
見て頂きたいのですが
この銅戈が出土したとされる
遼寧省に及んだ
文化と同じものが
東南アジアにあるというのは
納得できますが
北アメリカ大陸にも
流れていたということには
驚いてしまいます


2011年1月14日金曜日

不明材・・


現在、19世紀ギター ラコート・タイプ
製作していますが



 この裏板と横板の樹種が不明なのです・・
入手先の材木店でも判らない
ということですからお手上げです

現在はアフリカなどから多くの種類の木が
入って来ていてそれを扱う業者も
覚えるのが大変のようです


この材は、一見ブビンガのようにも見えますが
質感や匂いなどは明らかに違います
ブビンガとマホガニーと桜を合わせて
3で割ったような感じですかね・・
ご存じの方はぜひご教示をお願いいたします

やや荒い質感ですが、複雑な杢が出ていて
ニスの塗り方によっては
面白い効果が期待できそうなので
試作をしてみました

横板がうまく曲がるか心配でしたが
なんとかうまくいきました
問題は鉋の刃がやられやすい
ということですね・・
小刀やノミで削る分には問題ないのですが
鉋は刃先を擦るように使うので
どうしてもやられやすいのですね・・
ハイス鋼のものでも少ししか
もってくれないので苦労しました・・

出来上がった音
YouTube動画参照下さい


2011年1月13日木曜日

砥石の不思議 その3


今回、新たに手に入れた天然仕上砥石(本巣板)
産地は京都梅ケ畑地区大突産(地図参照)のもの
購入した「さざれ銘砥」によると
大突から菖蒲にかけて掘られていた
裏大突という間府だということです 
参照





使ってみてビックリ
ほどよい硬さで反応良く
かなり荒い研ぎ応えなのですが
仕上がりは緻密で
鏡面近くまで仕上がっているのです
ここまで荒い研ぎ応えの仕上砥には
初めて出会いました

同じ間府の内曇砥(天上巣板)も
何枚か持っていますが、硬さはほぼ同じですが
研ぎ心地は緻密で、仕上がりは曇ります
同じ産地の砥石とはとうてい思えません
砥石というものはほんとうに不思議です

2011年1月11日火曜日

特注仕様19世紀ギター 二種

これから製作していく2台の19世紀ギター
どちらも特注仕様です

 こちらは初期ミルクール・タイプ(参照
ペグヘッドで弦長は630mm





こちらはラコート・タイプ(参照
これも弦長は630mmでペグヘッド仕様です

どちらも響板のヨーロッパ・スプルースは
30年近く寝かせていたものです



2010年12月31日金曜日

サルタヒコとカモ氏

前回述べた葛城山(奈良県)には、神武東征以前に賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)が勢力を持っていた、と
山城国風土記逸聞(参照)に記されています。後に
賀茂建角身命は八咫烏に化身して神武を導いたという有名な話になるわけですが、後の賀茂氏の元祖でもあるわけです。カモの他の当て字としては、加茂、加毛、甘茂、鴨などありますが、ここ丹波篠山にある居籠神社(いがも)参照)のイガモはカモとは関係があるのでしょうか、知りたいところです。
葛城山がある大和(奈良県)にはもう一つ三輪氏という古豪が存在します。三輪氏については「碧玉と九鬼水軍」で少し触れましたが(参照)、祖はニギハヤヒです。
つまり葛城の賀茂氏と三輪山の三輪氏は同族ということになります。
賀茂氏は出雲風土記や記・紀では賀茂神戸(かも かんべ)として記載されていますが、出雲の大国主の国譲りでは仲介役として登場しています。
前回紹介した、大和国栖(くず)の主である一言主から
派生したとされる事代主(ことしろぬし・言代主)は、出雲の賀茂神社の主祭神として祀られていますが、事代主は託宣を司っているとされていますので神戸(かんべ)の役割を果たしていたようです。





2010年12月27日月曜日

葛城山と尾張

大阪と奈良の間には葛城山(かつらぎさん)がありますが、古事記では、この山に行幸に行った雄略天皇(5世紀とされる)が葛城山の主である一言主(ひとことぬし)と遭遇する話が記されています。
この葛城国の主は大物主系の物部氏(もののべのうじ)という説があります。もしそうだとすると、尾張連(おわりのむらじ)と熊野連の祖は葛城国ということになり、大物主は
ニギハヤヒと同義ですから、前回述べた吉野の国栖
(くず)族と同族ということになります。それを裏付けるように、尾張連と熊野連は大海人皇子を支援しているようです。
新撰姓氏録では尾張連は火明命(ほあかりのみこと)を祖としていますが(参照)、火明命はニギハヤヒと同義です。
また、熊野連の熊野という地名は以前紹介した九鬼家(参照)の出自地でもあり、やはり大物主系です。

5世紀頃の東海地方は大和王権の軍事的拠点とされていたようで、日本書紀のヤマトタケル東征譚では、
ヤマトタケルに従った者として、美濃(岐阜県)の弟彦公(おとひこのきみ)、伊勢(三重県)の石占横立(いしうらのよこたち)、尾張(愛知県)の田子稲置(たごのいなぎ)、乳近稲置(ちじかのいなぎ)の名が記されています。
稲置は稲城とも書かれますが当て字はともかく、イナギとは紐を使った投石(参照)を得意とした兵集団という説もあります。日本書紀では異佐誤(いさご)と記していますが、日本語では石弾のことを礫(つぶて)とも言います。
川崎真治説によると、イサゴや石・イシは紀元前3000年頃のメソポタミアのウル語あるいはシュメール語の
アサグやアスクが語源であるとしています。

2010年12月26日日曜日

天武天皇とニギハヤヒ

大海人皇子(おおあまのおうじ・後の天武天皇)は、壬申の乱に先立ち吉野(奈良県)に隠棲したとされていますが、舎人(とねり)を通じて美濃(岐阜県)や尾張(愛知県)の地方豪族との連絡を密に取り、武器や兵力の増強を図っていたともされています。そして、天智天皇が崩御するやいなや近江(おうみ・滋賀県)に攻め込み、天皇の皇子である大友皇子を自殺に追い込んで壬申の乱に勝利し、天皇に即位したことになっています(673年)。
この一連の出来事のなかで、大海人皇子が吉野に隠棲したことについては、歴史家により様々に考察されていますが、私が興味深いのは、古代吉野の地は神武天皇東征譚の舞台にもなっていて、大阪湾の草香(くさか・日下)の地に上陸したものの戦いに敗れ、痛手を負った神武が逃げ延びたとされる地でもあるということです。
その地で神武はかくまわれて、大海人皇子と同様に兵の増強を図ったとされています。ということは、当時(弥生時代~古墳時代と思われる)の吉野には神武と同族の民族が住んでいた可能性が考えられることになります。
吉野の地には国栖(くず)というところがあり、大海人皇子はこの地にも足を延ばしているようですが、国栖は隼人や土蜘蛛、熊襲などと同様の正史側から見た蛮族とされています。ということは、
日本列島の先住民族とも言えるわけで、国栖の族長がナガスネヒコとされていたりしますので、初期産鉄集団であるニギハヤヒとも繋がっているということになります(参照)。そうすると、神武と
大海人皇子も同族ということが考えられるわけです。
また、大海人皇子が美濃や尾張とも関係があったということは、その地も同族だった可能性もあるということも考えられます。



滋賀県から出土している古代の木製弓
「出土木製品にみる人の知恵」図録から部分転載

左は滋賀里遺跡出土の縄文時代晩期と
されるもので、右の弓は弥生時代のもので
松原内湖遺跡出土のもの

どちらも魏志倭人伝に記されている
「兵には矛・楯・木弓を用う
木弓は下を短く上を長くし
竹箭は鉄鏃あるいは骨鏃なり」
という内容と合致し、
魏志倭人伝が記された当時(2世紀~3世紀頃)
日本列島では主に現在の和弓と
同形のものが使われていたようですが
それが縄文時代からあったということに
驚いてしまいます


因みに、これは弥生時代の銅鐸に
鋳込まれた図ですが
弓は下を短く、上を長くして使っています