2011年6月8日水曜日

金井鉋 おそるべし

今では幻の鉋となりつつある
金井芳雄作の寸八鉋を
運良く手に入れることができました

 鉋身を自分好みに研ぎ上げ
台の仕込みを大まかに仕上げただけで
このように軽く薄削りができました
削った板はパサパサのスプルースで
薄削りにはあまり向いていないのですが・・

haganeは安来鋼の青紙系と思われますが
青紙系の鋼の鉋は他にも優れたものを
持っていますが、これには及びません・・
初代金井芳蔵のものほど
永切れはしませんが
仕事では充分使えます

パサパサのスプルース材が
このように美しい艶に仕上がりました

刃の研ぎ角度は
自分好みに変えました(約28度)


参考までに、この鉋は
35年間惜しみながら大切に使ってきた
三代目・千代鶴 落合宇一作の寸八です
台は名古屋の青山鉋さんに
打ってもらいました
鋼はスウェーデン鋼と思われます
以前のブログでも紹介しています(参照
この鉋はギターの響板の
最終仕上げ用として
使っているものです
2mmほどの薄い板を削るので
刃の両側は多めに研ぎ落としています

切れ味、削り肌の艶
共に金井鉋と甲乙付け難し
といったところです

そしてこれは光弘銘の寸八です
鋼は炭素鋼系ですが
この鉋も素晴らしい切れ味です


金井鉋といい勝負か・・

他に、今めきめきと頭角を現して
いる石社ishikoso氏作の鉋もありますが
今は訳あって知人の所へ行っています
戻ってきましたら
これも紹介したいと思います

2011年6月4日土曜日

但馬国の毘沙門天

今昔物語 巻十七
 
於但馬国古寺毘沙門伏牛頭鬼助僧語
(但馬国たじまのくにの古寺に於いて、毘沙門びしゃもん
牛頭ごづ鬼を伏し、僧を助ける物語)

今は昔、但馬の国(兵庫県北部)の〇の郡こおりの〇の郷さとに一の山寺あり。起こりて後百余歳を経にけり。而るしかるにその寺に鬼来り住て、人久しく寄り付かず。而る間、二人の僧有けり。道を行くにその寺の側を過る間 日既に暮れぬ。僧ら案内を知らざるに依て、この寺に寄て宿りぬ。一人の僧は年若くして法花の持経者なり。いま一人の僧は年老たる修行者なり。
夜に入ぬれば東西に床の有るに各々居ぬ。夜半に成ぬらむと思ふ程に、聞けば壁を穿うがちて入る者有り。其の香 極て臭し。その息牛の鼻息を吹きかけるに似たり。然れども暗ければ、その体を何者とは見ず。既に入り来て若き僧に懸かる。

僧 大きに恐ぢ怖れて、心を至して法花経を誦じゅして助け給へと念ず。而るに此の者若き僧おば弃てすて、老たる僧の方に寄ぬ。鬼 僧を掴み剝はぎて、忽ちに噉ふ(くらう)。老僧 音を挙て大き叫ぶと云へども、助くる人なくして遂に噉わるぬ。若き僧は、老僧を噉畢くらいおわらば 亦我れを噉はむ事疑ひあらじと思て、迯にげるべき方思ねば、仏壇に掻き登て、仏の御中に交て、一の仏の御腰を抱て仏を念じ奉り、経を心の内に誦して、助け給へと念ずる時に、鬼 老僧を既に食畢おわりて、若き僧の有つる所へ来る。

僧 此れを聞くに、東西思ゆる事なくして、尚心の内に法花経を念じ奉る。而しかる間、鬼神 仏壇の前に倒れぬと聞く。その後 音も為さずして止やみぬ。僧の思はく、此れは鬼の 我が有り所を伺ひ知らむと思て、音を為さずして聞くなめりと思へば、弥いよいよ息音を立てずして、只仏の御腰を抱き奉りて、法花経を念じ奉て、夜の曙あけるを待つ程に、多くの年を過すと思ゆ。更に物思えず。辛くして夜曙ぬれば、先ず我が抱き奉れる仏を見れば毘沙門天にて在ます。 
仏壇の前を見れば、牛の頭なる鬼を三段に切致して置たり。毘沙門天の持ち給へる桙ほこの崎に赤き血付きたり。然れば僧、我を助けむが為に毘沙門天の差し致し給へる也けりと思ふに、貴く悲き事限なし。現はに知ぬ。此れ法花の持者を加護し給ふ故なりけり。
令百由旬内無諸哀患(という九字修法)の御誓違はず。

其の後 僧は人郷(里)に走り出で、此の事を人に告ぐれば、多くの人集まり行きてみれば、実に僧の云うが如し。此れ稀有のことなりと口々に云い喤る(言い合う)こと限りなし。僧は泣々く毘沙門天を礼拝して其の所を過ぬ。其の後其の国の守〇の〇と云ふ人、此の事を聞て其の毘沙門天を将(承け・うけ)たてまつりて、京に迎へ奉て本尊として供養し恭敬し奉けり。
僧は弥いよいよ法花経を誦して怠ることなかりけりとなむ語り伝へたるとや。



2011年6月3日金曜日

偶然の産物 合掌のオブジェ


Boxハープの構造材の切れ端を



このように接着して 





表面をちょっと仕上げてみたら 





オブジェらしきものに・・・
題して合掌



2011年5月31日火曜日

今昔物語より「鞍馬寺の毘沙門天」

今昔物語 巻17 

僧依毘沙門助令産金得便語(僧、毘沙門天びしゃもんてんの助けによりて金を産しめる便を得る語(物語))   

今は昔、比叡の山の☐に僧有けり、やむごとなき学生がくしょうにては有けれども、身貧きこと限りなし。墓々しき檀越なども持ざりければ、山には否(恐)なくて、後には京に下て、雲林寺と云ふ所になむ住ける。父母などもなかりければ、物云懸る人などもなくて、便よりなかりけるままに、其の事祈り申すとて、鞍馬にぞ年来仕りける。

而る間、九月の中の十日の程に、鞍馬に参にけり。返けるに出雲路の辺にて日暮にけり。幽かすかなる小法師一人をなむ具したるける。月いと明ければ、僧足早に忩いそぎて返りけるに、一條の北なる小路に懸る程に、年十六七歳ばかり有る童の、形ち美麗なるが月々し気なるが、白き衣を四度解无気しどけなげに中結たる、行き具したり。

僧、道行く童にこそは有らめ、共に法師ども具せずねば、恠しと思ふ程に、童近く歩び寄て僧に云く、「御房は何こへ御すぞと。」僧、「雲林院と申す所へ罷る也」と云へば、童、「我を具して御せ」と云へば、僧、「誰とも知り奉らで上の空には何かに。和君は亦何へ御ますぞ。師の許へ御ますか、父母の許へ御ますか。具して行けと有るは、喜しき事には侍れども、後の聞えなむ悪く侍りなむ」と云へば、童、「然思さむは理なれども、年未知て侍つる僧と中を違て、此の十日ばかり浮れ行き侍るを、祖にて有し人にも幼くて送れにしかば、いと借くなる人有らば、具して奉て、何ち也ともと思ふ也」と云へば、僧、「いと喜しき事にこそ侍なれ。後の聞え侍りとも、法師が咎には有まじかなり。然れども、法師が候ふ房には、賎あやしき小法師一人より外に人も候ず。

いと徒然にて侘しくこそは思さむずらめと云ひて、語ひ行くに、童の極て厳かりければ、僧心を移て、然れば只将行なむと思て、具して、雲林院の房に行ぬ。火なむど燃ともして見れば、此の童 色白く 顔福らかにて、愛敬付き 気高かき事限なし。
僧、此を見るに、極く喜しく思て、定て此れ下臈げろうの子などにては有じと見ゆれば、僧、童に「然ても父は誰とか聞えしど」な問ども、何かにも云ず。寝所など常よりは取☐て臥せつ。

僧は、傍に臥して物語などして寝たる程に、夜も明ぬれば、隣の房の僧共、此の童を見て☐て讃め合たり。僧は童を人にも見せずして思て、延にだに出さずして、いと珍らしく心の暇もなく思ふ程に、亦の日も暮ぬれば、僧近付て、今は馴々しき様に翔けるに、僧 恠しき事☐思けむ。僧 童に云ける様、「己おのれは此の世に生れて後、母の懐より外に女の秦(肌)觸る事なければ、委くは知ねども、恠く例の児共の辺に寄たるにも似ず。何にぞや、心解くる様に思え給ふぞとよ。若し女などにて御するか、然らば有のまゝに宣へ。今は此く見始め奉て後は、片時離れ奉べくも思えぬを、尚 恠く心得ず思ゆる事の侍つる也」と云へば、

童、打咲て「女にて侍らば、得意にも不☐しとや」☐(と)云へば、僧、「女にて御せむを具し奉て有らむは、人も何にかは申すらむと思て愼ましくこそは。亦三宝の思食さむ所も怖しくこそは」と云へば、童「三宝は其に心を発して犯し給ふ事ならばこそは有らめ。亦 人の見む所は童を具し給へるとこそは知らめ。若し女に侍りとも童と語ひ給ふらむ様に翔て御かし」と云て、いと可咲気に思たり。
僧、此れを開て女なりけりと思ふに、怖しく悔しき事限なし。然れども、此が身に染て思はしく、労たければ出し遣る事をば為さで、此く聞て後は、僧 外々☐て衣☐隔てゝ寝けれども、僧凡夫也ければ、遂に打解て馴れ陸(むつび)たる有様に成にけり。

其の後は、僧 極き童と云へども、此く思はしく労たきもなし。此れは然べき事なめりと思て過ける程に、隣の房の僧共などは、「微妙き若君を然ばかり貧しき程に、何にして儲たるにか有らむ」とぞ云ける。
而る程に此の童は心地例ず成て、物なんど食ず。僧 いと恠しく思ふ程に、童の云く、「我れは懐任しにけり。然☐(知)り給ひたれ」と。僧此を聞て、踈き顔して、「人には童と云てぞ月来☐有つるを、極めて侘しき事かな。然て子産む時は、何がせむと為る」と云へば、童、「只御せ。よも其に知せ奉らじ。然らむ時には只 音為ずせで御せ」と云へば、僧心苦く いと惜く思ひ乍ながら過る程に、既に月満ぬれば、童 心細気に思て、哀れなる事共を云て泣く事限なし。

僧も哀れに悲しく思ふ程に、童、「腹痛く成たり。子産べき心地す」と云へば、僧侘て騒げる。童、「此な騒ぎ給ずそ。只然べき壷屋に壷に畳を散て給へ」と云へば、僧、童の云ふまゝに、壷屋に畳を敷たれば、童其に居て暫許とばかり)有るに既に子を産つるなめり。衣を脱ぎ着て子を含み臥せたるに様にして、母は何ち行とも見えずで失にけり。僧いと恠く思て、寄て和ら衣を掻去て見れば、子はなくて、大きなる枕許ばかりなる石有り。僧怖しく気踈けうとく思ゆれども、明りに成して見れば其の石に黄なる光有り。吉々く見れば、金也けり。童は失にければ、其の後僧面影に立て、有つる有様恋しく悲しく思えけれども、偏ひとえに鞍馬の毘沙門の我れを助けむとて謀り給たる也けりと思て、其の後 其金を破つつ、売て仕けるに、実に万づ豊に成にけり。

然れば本は黄金と云けるに、其より後、子金とは云にや有らむ。此の事は弟子の法師の語り伝たる也けり。毘沙門天の霊験掲焉けちえん(著しい)なる事 此なむ有けろとなむ語り伝へたるとや。





2011年5月29日日曜日

思わぬ展開 世阿弥から鉱山

5月26日に奈良の東大寺と近辺の神社を紹介しましたが(参照)、氷室神社の拝殿が舞殿を兼ねているということで、私は世阿弥のことを連想したのです。ところが世阿弥のことは、5月11日に兵庫県三木市にある
天津神社のことを紹介した際にも、頭の片隅をよぎっていたのです。それははっきりとした記憶ではなく、
天津神社が鎮座する播州の古代のことを思っていて、ふと、そういえば世阿弥が書き著した「風姿花伝」に
播州のことが記されていたような気がするという、古い記憶がよみがえったのです。
その時は、それ以上の追及はしませんでしたが、26日に氷室神社で世阿弥のことを思ったので、家に戻って
さっそく風姿花伝をめくったのですが・・
ありました、ありました。
第四の神儀云の条(参照)で、「かの河勝、欽明・敏達・用明・崇峻・推古・上宮太子につかへたてまつる。この芸をば子孫に伝へて、化人跡を止めぬによりて、摂津国浪速の浦より、うつぼ船に乗りて、風にまかせて西海に出づ。播磨の国坂越の浦に着く」云々・・
「かの河勝」というのは神儀云の最初に記されている
秦河勝(はたのかわかつ)のことですが、ここで記されている河勝の出生や最期の様子は尋常ではありませんね。
このことにも興味があるのですが、ひとまず置いておき、話を進めようと思います。秦河勝の本拠地は京都の太秦(うずまさ)とされていますが、太秦の近くには松尾大社があり、そこは秦氏の信仰の対象でもありました。元々は岩座(いわくら)信仰だったことから、古代に近辺で金属精錬が行われていた可能性は大です。以前述べたことがあるように(参照)、秦氏は摂津国の多田鉱山近辺に移住しているとされているのです。

双竜透かしの古代中国貨幣
直径6.3cm