2011年6月24日金曜日

出口王仁三郎の気になる発言 水鉛 モリブデン

以前紹介した、今昔物語の毘沙門天に因んだ話(参照 参照)に関することを、ちょっと調べているのですが、そうすると、3月15日に述べた福岡県春日市の弥生時代の遺跡と兵庫県芦屋市の会下山遺跡に繋がっていき、またそれは芋蔓式に、これも以前のブログで述べた古代の製鉄に繋がっていくのです。そういうことなので、もう一度六甲山系の古代と、そこから西に繋がる印南山系の古代を洗い直しているのですが、そうすると、どうしてもさらに西の備前や吉備(岡山県)にも目を向けざるを得ないのです・・
そういうことなので、新たに手に入れた資料を含め、いろいろと目を通しているのですが、おや?と思うことがあったのです・・それは岡山県赤磐市にある熊山の石組遺跡に関する資料なのですが、興味深いことに、それは昭和の初めの大本教の研修用資料として発刊されているのです。大本教はここ丹波の地、とくに綾部市と亀岡市が因縁が深いのですが、他にも昨年5月に続けてこのブログで述べた九鬼家とも少なからぬ因縁があるのです。
このことは今回は深く追及はしませんが、大本の二代目教祖である出口王仁三郎でぐちおにさぶろうはスサノオのことをかなり意識していたようで、昭和5年には有志と連れだって熊山に登り、謎の石組を検分し、結果、石組はスサノオの陵墓であると結論付けているのです。
そして、それに因んで資料には王仁三郎の「天目一神と長船おさふね」という文が載せられているのですが、それを紹介しておこうと思うのです。
以下・・

「日本刀が世界に冠絶するゆえんは、モリブデン(水鉛すいえん)を混入して鍛える秘法をはやくから知っておったからである。明治時代中頃からドイツあたりでこの秘密を発見して、精巧なる軍器を造りだしているが、日本においても秘密中の秘密として、深山に入って造ったので、天狗に教わったなどと称し、決して他人に教えなかったものである。鉄も雲(出雲いづも・島根県)、因(因幡いなば・鳥取県東部)、伯(伯耆ほうき・鳥取県西部)の三国に限られたもので、このほかから出たものでは、たとえモリブデンを混入しても、そう立派なものは出来ない。この鉄(雲・因・伯 三国の鉄)があり、水鉛(モリブデン)があるので細矛千足くわしほこちたるの国の名に背そむかぬ逸品が出来たのである。素尊斬蛇すそんざんじゃ(素尊命による八岐大蛇・やまたのおろち退治)十握とつかの剱つるぎは長船おさふね(岡山県の刀の産地)ではないかと聞くが、それは違う。前言うとおり、雲、因、伯三国のうちに産する鉄でなければならないのだから、これは長船で鍛えられたものではない。」

鉄(鋼はがね)にモリブデンを加えるということは
今で言う特殊鋼ということになります


この神社は上の文とは関係がありませんが
先日訪れた丹波市山南町谷川にある
熊野神社


そして謎の神社(地図参照
この神社は立ち入り禁止になっていて
金網が廻らされており
神社名を確認できませんでした
鳥居の字も風化して判読できず・・
赤い鳥居なので、海人(あま)産鉄系神社ではあります



2011年6月23日木曜日

砥石を切る

さゞれ銘砥さんから
切り跡の付いた砥石の画像を
提供頂きましたので
「砥石を切る」を再掲します

天然砥石は中砥にしろ
仕上砥にしろ
風化した石なので
硬いものではありませんが
いざ切るとなると
一筋縄ではいきません
私はディスク状の
ダイヤモンドカッターで
切っていますが
それでも硬めの仕上砥は
なかなか大変です

 これは仕上砥石ですが
側にはカットされた跡が見えます
これは円盤状の鋸のようですが
円弧が直線的なので
鋸の径はかなり大きそうです
この電動の丸鋸を使って
砥石の加工が為されるように
なったのは昭和の戦後からで
それ以前は手挽きの鋸が
使われていたそうです

これは手挽きの鋸で切られた
仕上砥です

これは江戸時代の
硯(すずり)職人の図ですが
砥石もこのような鋸で切られていたということです
硯にされる石は粘板岩ですから
砥石と同様の硬さのもので
硬度は3~4です
焼きが入った鋼はがね
硬度は6ほどですから
鋼で砥石を削ったり
切ったりという加工はできる
ということになります
これが翡翠など
硬度7以上の石になると
鋼の鋸では切ることが
できません(参照
上の図を見ると
鋸の形状から推察して
鋸の刃は切るというよりも
弾力で石を削り飛ばして
溝を付けていくという
感じがします
そういえば私の砥石の師匠の
ところの電動丸鋸は
刃は前挽き大鋸(おが)のように
大きく粗く、回転がゆっくりで
ガツ ガツ ガツと
砥石を切るというよりも
削り飛ばすという感じで切って
いたのを思い出しました

この画像はさゞれ銘砥さんから
提供頂いたものですが
砥石採掘の師匠(今年76歳)の
父にあたる16代目親方による
挽き跡だそうです
機械作業とはいえ、かなり大変な作業だったようです

現在では挽く機械や鋸の性能は
良くなっているようですが
さざれ銘砥さんでは
この挽き跡を実現するために
鋸の刃に工夫をされている
ということです

昔の機械と違って
挽き跡がなめらかで
側の層がよく確認できます

日頃、何気なく砥石を
使っていますが
陰ではこのように様々な工夫と
苦労が為されていることを思うと
砥石に恥じない仕事をしなければ
身が引き締まるのです

以下、さざれ銘砥さんの説明
(文責はブログ管理人である
田中清人にあります)
「画像の挽きかけ原石は、16代親方が伊予の挽き機械の技術を買い、大きなGC(グリーン・カーボランダム)で挽いたものです。黄色のむしろ肌でよく肥えた硬質で見事です。何馬力かはわかりませんが、動力を据えていた基礎も馬鹿でかかったです。このあと全鋼鋸に、次ぎチップ鋸になりました。GCは層理がよく確認できたので好評でしたが、手間や採算的に埒が明かなくなって、今の挽き方に至ります。現在のものは十六代GCにできるだけ似るようにあつらえてもらったものです。それで、写真にあるような「よろい石」の層理が良く見えます。

GCとは金剛砥石やグラインダーに使われているもので、炭化珪素という硬度9から9.5の研磨剤の砥石です。廉価でかつ硬いのでちびなくていいのですが、炭素が半分ですので、鉄の研磨において鉄側に炭素が吸い取られ、ぶよぶよなものに化学変化しますので 研磨剤の角がちびやすくなります。それで黒い砥石(硬い砥石)は、滑る感がして発熱も多くなります。焼入れ前の刃物の力押し研磨に使われることが多いですが、砥石が相手だと、炭素云々は関係ないと思います。
WAはやや高価で、酸化アルミなので鉄と影響し合いませんから、よく削れて刃物の研磨では熱も持ちにくくとてもいいのですが、硬さは劣るので減 りが早いです。

昔は鍛冶屋のレース台に収まるくらいの尺から尺五程度のGC製の丸鋸で、屋根の上に大樽を置いて水を落としながら泥んこになりながら挽いていたと聞きます。
水間府から小屋の屋根まで12mはありまして、水を溜めるために難儀したそうです。17代親方が小学生高学年のころ、樽の栓をし忘れてお父さんの16代長寿氏にポコポコに叩かれたとおっしゃっておりました。
当時、伊予(愛媛県)の方が機械化は先進で、伊予砥採掘の関係者がマシンの特許を持っており、ここから買うことになったようです。伊予の場合は2~3尺の大きな丸鋸で挽き、昭和後期の終わりまで全鋼鋸式でした。

因みに、17代親方は今年76歳になり、オバQにとても似ています。この一言に尽きます。自分でも「オバQみたいなおっさんがよぉ・・」とおっしゃってます。今は腰の骨を折って歩くのがやっとで元気ありません。一言で言うと、映画になってもいいころあいのハチャメチャ破天荒人生の方ですね。たしか道具曼荼羅にどっかんと載っています。
現在の挽き場から尾根を挟んで向こうに住んでいらっしゃいます。槌で矢を叩いているのが聞こえるくらい近いそうです。遠回りになりますが、まともな舗装の道を歩いて行っても5分かからぬくらいなので、たまに、いい石や、鍛えのやり方の正解不正解を採点いただきに寄ります。

上の石を切ったのは、親方の父親で長寿さまです。たしか、昭和43年没です。16代目になります。そのまた父に当たるおじいさんは常二郎さまで昭和12年くらい没です。六尺(1m80cm)をゆうに超える方で、お相撲のスカウトがよく来たそうです。

長寿様の弟に、奥殿や菖蒲谷高山・菖蒲長四郎・木津山で有名な「うしのすけ様」が砥石の家督を継ぎ、菖蒲砥石銘でとても有名であると思います。
その息子さんが健寿さまで、引退は昭和でしたが、ついこの間お亡くなりになりました。今はそのまた子供の代になりますが、皆さん床屋だったり大工だったりと違う職で、よく山に遊びに来てくれます。

GC挽きはとても石の層理が美しく確認できるので、よかったのですが、コスト高になるので、工場が向ノ地町から高鼻町に移動したときにはもうやめになってたそうで、実働期間は5年あるなしとか。高鼻町は最後に露天ブルで引っかいた中山のところを山越え通りはさんで南側の農地にあった工場になります。
畑中資本一本になる前の、値の張るクラスの中山には、全鋼挽きの後に、わざわざ磨いてつるつるにした石があります。たしか、丹波の檜山資本での加工の石などで、よく見かけました。

写真の赤い「よろいの石」は、だめな砥石の見本です。
こういう「よろい石」を安く買ってきて、これに色つきのカシューを塗り、値段を変身させて・・という・・業者さんもあります・・
高山は鉱脈が愛宕系統になり、一級落ちますが、良く中山に変身していますね。

特注 トーレス型モダン・タイプ完成

弦長645mm 鈴木音律


ヘッドのインレイ  参照


2011年6月21日火曜日

鉋合せ・・削り比べ

平安時代から行われてきた
「合せ」を鉋でやってみました(参照
通常、「合せ」は番(つがい・二つ一組)で行われますが
今回は三丁の鉋で行いました
削る木は、よく乾燥させた
ホンジュラス・ローズウッドという硬く緻密な板です
30年近く寝かせていたものです

日本でいえば紫檀の部類に入る木ですが
真黒(まぐろ)本黒檀ほど堅牢ではありませんが
粘りがあって緻密な材質なので
削り難さでは木材の中で筆頭に属するでしょう
今回のものは板目交りで
所々に強烈な逆目があります

さて、まず最初に登場するのは
ここ数日このブログに登場している
初代・金井芳蔵の寸六一枚鉋です
刃角度は23.5度
粘りが強い材質なので
刃のかかりが少なくなるように
刃先を弓形に研ぎ直しました

削り肌は問題ありませんが
部分的な強烈な逆目は止まりませんでした
これはやはり二枚刃の鉋で
押え金を思い切り詰めた状態で
削らないと無理のようです

一枚目の画像の削り屑を出した後の
刃先の状態です
早くもかなり摩耗していますが
まだ切れは止んでいません

さて次は、前回の真黒本黒檀削りで
あっという間に切れ止んだ東郷鋼の登場です
寸八で刃角度は26度

前回の真黒本黒檀ほどガンコな材ではないので
この木には実力を発揮してくれました
切れ味よく、逆目も軽く止まりました

 刃先は少し摩耗した程度です

最後に粉末ハイス鉋の寸八二枚刃(参照
刃角度29度
これは一般的に売られているもので
価格は二万数千円のもの

切れ味軽く、逆目もキッチリ止まりました

刃先はほとんど変化なし

これで結果が出ました
ホンジュラス・ローズウッドという堅木に対し
最も優秀なものは粉末ハイス鋼の鉋でした
次に東郷鋼、そして初代・金井ということになりますが
初代・金井の、刃先が摩耗していても
切れ続ける永切れには今回も驚かされました
他には甘めの東郷鋼も試してみましたが
初代・金井よりも刃先は丈夫でした
刃角度はほぼ同じですから
このことからも初代・金井の鋼は
青紙系と思われます

ただし、前回述べたように、研ぎ感や切れ味
それから永切れの仕方は
通常の青紙とは明らかに違います


2011年6月20日月曜日

金井鉋 おそるべし その2


今日も初代・金井芳蔵鉋 寸六一枚刃を
仕事で使ってみました

削り削って、刃先がこのようになった状態で




カーリー・メープルを仕上てみたのですが・・
信じられません・・




深い逆目も完全に止まっているではないですか・・
刃先が摩耗していて、しかも一枚刃です
信じられません・・





鉋身を小刀のように使ってみましたが
切れ味良好でした
やはり初代金井鉋おそるべし・・

簡易 焼戻し


私が行っている刃物の焼戻しの
方法を紹介しておきます

 電気アイロンと温度計
それに右下にチラと見えるバイス

 この温度計は300度まで
測ることができます
これは20年以上前にホームセンターで
購入したものですが
今ではもっと精度のよい
便利なものがあるものと思います
鋼の焼戻しは180度前後で行いますので
アイロンの温度を確認し

このようにセットします
家庭用のアイロンは強で200度ほどです

あるいは、このように
鉋身全体をアイロンに乗せても構いません私はアイロンが冷たい状態から
鉋身を乗せておき、設定温度に達したと
思われる状態から30分~2時間ほど
放置しています
アイロンの電源を切り
温度を下げている間も
このままにしておきます
これまでこのやり方で様々な刃物の
焼戻しを行いましたが
失敗したことはありません

オーブントースターを使う場合もあります


鋼の焼戻し温度については
このサイトを参照ください

200度以上の温度で行う場合は
こちらを参照下さい

2011年6月19日日曜日

金井鉋 おそるべし 

初代・金井芳蔵の
寸六鉋(一枚刃)を手に入れました
(入手先:外栄金物株式会社) 


 使い込まれた古い鉋を
仕立て直したものですが
裏の錆が深く、多めに裏押しをしましたが
まだまだ朽ち込んでいるようです
ですが、両側部分なので
なんとか使えるでしょう

鋼は安来鋼の青紙ということですが
二代目の金井鉋は
今見られる青紙と同様ですが
この初代は青紙とは到底思えません
噂に聞く青紙の鍛造古鋼でしょうか・・

グラインダーで出した火花は
手持ちの東郷鋼や燕鋼とそっくりです
青紙よりも抵抗があり、火花は少なく
燕鋼ハイス鋼のような火花なのですが

 研ぎ上げてみると、鋼は澄んで
鏡面に仕上がります
この仕上がり具合も青紙とは思えません
これは東郷鋼と同様のものです

しかし、鋼は何とも表現のできない
粘りがあり、柔らかそうでも
仕上研ぎはなかなか難儀をしました
東郷鋼の鉋は何丁か使っていますが
このような研ぎ心地のものはありません
裏押しも容易で
焼きが戻っているのではないか
と最初は思ったくらいです・・

よく乾燥したスプルースを
削ってみましたが
削った感触も独特な粘りを感じます

楽器用のよく寝かされたスプルースを
鉋で削った方は経験していると思いますが
こういったスプルースは軟材でも
鉋の刃先の摩耗が早く
切れ止むのも早いのです
ですが、この鉋は驚くほど永切れします

一般的な鉋では切れが止むほど
試し削りをした後
刃先がやられやすいセドロ材を
楽器4台分、さんざん削りましたが

 刃先がやや白くなった程度で
まだまだ切れは止んでいません

 それならば、と
ガンコな真黒の黒檀を削ってみました

しばらく削ってみましたが
ここまで刃先が摩耗しても
まだまだ切れるのです
金井鉋おそるべし・・
次元が違います・・

参考までに、これは他の東郷鋼の鉋ですが
これなど、研ぎ上げてそれほど使って
いなかったにもかかわらず、黒檀を削ると
あっという間に刃先が細かく変形し
切れが止んでしまいました・・


2011年6月18日土曜日

不思議な符合 鹿と魚 鹿踊り

ムリヤ・ゴンド族の
鹿踊りの写真を
掲載するにあたり
ブログのご本人に引用の
お願いをした際
ご厚意で他の写真も
お送り頂いたのですが
その内の1枚を見て
おや?と思ったのです

この鹿踊りは
鹿狩りの様子を題材に
踊られるということで
場面は
「人々が鹿を崇める場面」
「神官らしき人物が狩猟を取り仕切る場面」
「狩人が弓矢で鹿を狙う場面」
などがあるということです


これは神官と思われる
人物が持っている
石斧だということですが
これに刻まれている
魚の形状にドキリとしたのです
これと同じ形状のものが
正倉院に収められているのです

これがそうです・・
正倉院には水晶・琥珀・
犀角・瑠璃で作られたもの
があるということですが
これは瑠璃・ガラスで
作られた魚形の腰飾りです

そしてこれは犀角
サイの角で作られた腰飾り

これは琥珀の腰飾り

以上、正倉院展の
図録から引用しました
この図録には水晶のものは
紹介されていませんが
正倉院が建てられた目的は、
東大寺を建立した聖武天皇の
崩御後、后の光明皇后が
遺品を東大寺に寄進し、
それを保管するためであった
とされています

ここで不思議な
符合があるのですが
光明皇后は鹿の胎内から
生まれたという
伝説があるのです
奈良の春日大社と鹿は
対になっているようなものですが
これは春日の神が鹿に乗っ
て鹿島から奈良へやって来た
という伝説が
元となっているようです
ということは、そこには
中臣氏が浮かんでくることになり
中臣氏の祖は天児屋根命と
されていますから
卜部うらべということになります
つまり光明皇后は鹿の肩甲骨を
焼いて占う鹿卜を専門にしていた
氏族の出ということになるのです。
鹿の皮は古代では鑪たたら
ふいごに使われていて
製鉄には必要不可欠な
ものでした
古代インドには
ウーツ鉄を作り出した
優秀な産鉄民族が
いたようですから
インドの鹿狩りの踊りは
そのことと関係が
あるのかもしれません

私の故郷は博多湾の近くですが
その東端にある
志賀島(しかのしま)は鹿の島でもあり
その島にある志賀海神社には
奉納された鹿の角を保管しておく
鹿角堂があります
私が生まれ育った町の近辺は
古代は金属精錬あるいは
鋳造の地でありました
参照

16日に鹿踊りの写真を
紹介したのには訳があって
この写真を見たとき
私は日本書紀の
応神天皇の巻の一云の条に
記されている
「角の付いた鹿革を着た人々が
海に入っていた 云々・・」
という件を思い出したのです(参照)。
角がある人について
記された箇所は他に
垂仁天皇巻の一云条にもあり
そのツヌガノアラシトという
人物は天日槍のことと
されていますが
もし応神天皇の巻に
記されている人々と
天日槍が同じ民族だとしたら・・
と想像が膨らむのですが
なんと、古事記では
応神天皇の母とされる神功皇后は
天日槍から六代目の子孫にあたる
としているのです

天日槍の時代は5世紀頃と
思われますので
古墳時代中期で畿内に
大型の前方後円墳が
造られた時代です
天日槍集団は冶金、鍛冶、
土木、木工、
須恵器(高温で焼く焼物)など
当時の最先端の技術を持っていたようですが、
朝鮮半島の新羅からやってきたとされる民族が、
インドの習俗を持っているということになれば
話はややこしくなってきます

2011年6月16日木曜日

毘沙門天と牛頭天王

6月4日に紹介した今昔物語の「但馬国の毘沙門天」では、
毘沙門天が牛頭(ごづ)鬼を退治する話になっています。
牛頭とは元々は牛頭天王のことで、
古事記・日本書紀に登場するスサノオのことでもあります。
日本神話ではスサノオは出雲(いずも)で活躍しますが、
ルーツは西アジアにあり、それがインドを経由して
日本に入ってきているものと思われます。
スサノオに蘇民将来説話が付きものとなっているのが
その証拠と云えます(参照)。
方や、牛頭鬼を退治する毘沙門天も元はインドの神ですが(参照)、
仏教を日本に伝えたとされる用明天皇とその息子である
聖徳太子の時代は飛鳥時代(6世紀)ですから、
時代は牛頭天王よりも新しいということになります。
スサノオ(牛頭天王)は天照大御神の弟とされていて、
時代は私が支持している説では
紀元前7世紀頃となります(参照・8段目~9段目)。
これらのことから、今昔物語のこの話が書かれた平安時代の頃は、
スサノオを信仰していた先住民族が
鬼として恐れられていたということが推察されます。
これはちょうど、コロンブス以来、
ヨーロッパ人がアメリカ大陸に移住した際、
その地の先住民族との軋轢で
先住民を怖ろしいものと見なしたことと同様のことと云えます。


江草拓 (Taku EGUSA)様のHP
私のどこでも散策記録」から引用させて頂きました

2011年6月15日水曜日