2010年7月5日月曜日

碧玉と九鬼水軍 その19 

これまでに紹介してきた、丹波篠山のニギハヤヒと関連のある地名、「草ノ上」と「味間」の間には丹波最大級の前方後円墳である雲部車塚古墳が、その西には元々は岩座(いわくら)信仰が行われていたと思われる、大変古く由緒ある佐々婆(ささば)神社が、そしてその西には丹波最大の円墳である新宮古墳があります。これらを地図上の記してみると、篠山川に沿って均等な距離にあるのが分かります(地図参照)。また雲部車塚古墳の北東にある櫛石窓神社もほぼ同距離隔たっています。これは何か意味があるのでしょうか・・興味が湧きます。
「多紀郡郷土史話」では多紀の郡(こおり)は古代は水郷であったとし、先に紹介した地図上の古墳は当時の湖の浜に臨んで造られているようである、としています。ですから、湖の大きさを車塚古墳から味間までとすると、大きさは東西12kmほどあったということが推測されます。
上にリンクした味間のところで、味間という所は古代は湿地だったと述べ、その名残りとしての大沢、牛ヶ瀬という地名を挙げておきましたが、それと同様の和田という地名が佐々婆神社の近くにあるのです。「多紀郡郷土史話」の著者は湖岸を和田と呼ぶことは我が国各地にその例が多いと説明しています。他には「多紀郡郷土史話」が書かれた(昭和9年頃)当時、地名として残っている北島、善左衛門島、松ノ木島、沢田島などは湖中に点々とした浮き島状の地であったものと思われる、としています。
また別誌の「多紀郷土史考」では湖水の東岸に当る所に磯宮八幡宮がある、としていますが、これらをまとめてみると、篠山盆地の古代の湖は平安時代頃まで存在していたということが想像されます。そしてその湖は北東の端が車塚古墳があるところで、南東の端には磯宮八幡宮があり、西の端には味間の島姫神社があったということが言えそうです。(地図参照下さい)。
篠山の地は明らかに銅鐸民族圏です。この地では銅鐸はまだ発見されていませんが、状況証拠は多く存在します。その一つが神社の祭神です。先に紹介した新宮古墳のすぐ近くに居籠神社(いがも)というのがあるのですが、この神社の祭神は猿田彦命です。近くを流れる藤岡川は昔は猿田川と呼ばれていたということで、この川からは昔、猿田彦と対になっている天宇受売神(あめのうずめのかみ)の塑像が見つかっているということです。
天宇受売神は先に紹介した佐々婆神社の祭神でもあります。この女神は天照大神が岩戸隠れをした際に、アマテラスの注意を惹くために、閉じられた岩戸の前で胸をはだけて踊りを披露したとされる神でもあります。ですから、猿田彦命と天宇受売神は大変に古い時代の神ということになります。そして、銅鐸を日本にもたらしたのは猿田彦命とされているのです。

江戸時代に描かれた岩戸開きの図
左側で胸をはだけて槍のようなものを
持っているのが天宇受売神

雲部車塚古墳近くにある神社
神社の名はどこにも記されていませんが
赤い鳥居と神殿の様式から
八幡神社と思われます

社殿の装飾に象が施されています
これはこのあたりの神社で
よく見られる特徴であります(参照

これは古代丹波北部、後の但馬(たじま)に属する
朝来(あさご)市和田山町にある
長尾古墳から出土した大刀拵え
古墳時代後期 全長105m

2010年7月2日金曜日

不思議な符合(鎧と能)

これはイタリアの古代遺跡である
ポンペイの壁画の一つです(紀元前後 )
この人物はアレキサンドロスとされていますが
この鎧は日本の古墳から出土しているものの中に
よく似ているものがあるのです(参照






それから、これは1983年頃に
加治木義博氏が指摘していることなのですが
上の写真は中国・甘粛省卓尼(チョニ)に伝わる
民族芸能の様子です
この衣装が日本の能装束によく似ています
面をかぶっているのもそうですし
袴のようなものも似ています
それから、注目すべきは右手に持っている刀です
これは日本刀にそっくりではないですか・・
チョニの芸能と日本の能
どちらが古いのかは分かりませんが
これには驚いてしまいます

2010年6月27日日曜日

碧玉と九鬼水軍 その18 

前回紹介した三田市藍本から篠山市味間にかけて、藍本の高川古墳群から出土した大刀と同様の装飾を施された大刀が集中して出土しています。篠山川沿いの山田1号墳からは金銅で装飾された大刀が、2号墳からは単鳳式冠頭大刀、武庫川上流の庄境(しょうざかい)1号墳からは銀象嵌大刀が出土しているのですが、これらの古墳では例外なく鎧・甲に馬具もいっしょに埋葬されています。篠山川の最上流にある雲部車塚古墳も同様のものが出土していて、この古墳は石棺はまだ開けられていないということなので、石棺の中にはさらに多くの副葬品があるものと思われます。
篠山市から三田市にかけて、金属加工に使われたと思われる手焙り形土器も出土しているので、弥生時代の伝統が古墳時代まで続いていたとすれば、大刀の装飾は当地で行われていた可能性も否定できません。



因みに、これは篠山市の箱塚4号墳から出土した特殊扁壺と名付けられている須恵器です。時代は6世紀頃これと同様のものは日本列島で十数例しか出土していないということですが三田市からも2点出土しているのです(参照 )。これは用途は不明とされていますが形状から推測して、「手焙り形土器」と同じように使われたのではないでしょうか。手焙り形土器よりも密閉度が高いので容器内の温度をより高温にする目的があったのかもしれません。




2010年6月25日金曜日

変わった鍔

もうずいぶん前に手入れたものですが
変わり種の鍔です
一見、江戸時代の肥後甚吾風です
木刀か何かに付けられたものでしょうか・・
味わいのよい鉄に金線が象嵌されています


2010年6月24日木曜日

碧玉と九鬼水軍 その17 

ここ丹波篠山には、丹波最大級の前方後円墳である雲部車塚古墳があります。工房からほど近い所ですが、篠山川沿いの地域には旧石器時代からの遺跡もあるので、古代から住みやすい所だったのでしょう。
丹波篠山のように、内陸部の山深い地域では、川沿いに道があったのだと思いますが、古墳時代には古墳を築くために道の整備も必要だったと思われるので、古代の道といっても想像以上に広かったのかもしれません。
また、丹波の古墳ではありませんが、石棺を作るための巨大な石材を、
九州の熊本から大阪や京都まで運んでいたということも分かっています。
ですから物流技術も古代だからといって、決して貧弱なものではなかったはずなのです。
雲部車塚古墳があるところは兵庫県の中央部で、北の
日本海に流れ込む円山川と南に流れる加古川の上流でもあります。加古川に流れ込む途中では「丹波竜」が発見された丹波市山南町を通ります。恐竜の化石が発見された地層「篠山層群」も篠山川の河床に露出していたものです。
山南町といえば、8日に紹介したように、蘇民将来(古代インドの影響)に因んだ神事が行われる神社がありますが、篠山も古代インドの影響を強く受けているので(参照)、その文化は篠山川を通じて伝わった可能性は否定できません。それから、篠山市の味間地域は武庫川の上流にほど近く、その川を南に下る途中に三田市藍本(あいもと)というところがあります(地図参照)。ここに古墳群(高川古墳群)があり、そこから大刀(直刀)が出土していて、それに付けられていた鍔(つば)も良い状態で3点見つかっているのです。




これはその内の一つですが銀象嵌の模様に
隼人紋(参照・九段目)が見られるのです
これには驚きました

2010年6月22日火曜日

碧玉と九鬼水軍 その16 

昨日紹介した銅鏡の銘文の
「八月日十大王」を
「八月日下大王」とする説は
ちょっと無理があるように思います
減筆で画数を減らしたとしても
「下」は「十」にはなりませんし
「八月日」という表現は刀の銘にはよく見られるのです
刀に年紀を入れるようになるのは
鎌倉時代中頃だと思われますが

一つの例として
これは鎌倉時代の名工
景光(かげみつ)の短刀ですが
「元亨(げんこう)三年三月日」
と年紀が入れられているものです
元亨三年は西暦1323年


こちらは室町時代の備前(岡山県)の名工
盛光(もりみつ)の太刀(たち)
「応永二十三年十二月日」の年紀
応永22年は西暦1415年


これは江戸時代中頃の名工
一竿子忠綱(いっかんし ただつな)の刀
「元禄十二年八月日」
元禄12年は西暦1699年

このように、銅鏡の銘文「八月日」
と同様の表現がなされています
このようなことは古来から踏襲されてきた
ことは充分に考えられるのです


刀の年紀には他には
このように「十月三日」と日付を
入れる場合もあります


そしてこの「十二月吉日」
これは日本で好まれる表現で
刀に限らずよく見受けます

2010年6月21日月曜日

碧玉と九鬼水軍 その15 

この銅鏡は和歌山県橋本市にある
隅田八幡宮に古くから伝えられてきたもので
現在では国宝に指定されています
この鏡は日本で作られたものですが
作られた経緯が銘文として鋳込まれています
一般的にはこのように読まれていますが

この部分の「八月日十大王」
「八月日下大王」とする説もあります
考古学者の森浩一氏は
銅鏡などの銘文(金石文ともいう)では
減筆といって画数を減らすことがあるので
「日十」を「日下(くさか)とする可能性はあるとし
古事記に登場する大日下王のこと
かもしれないとしています
日本書紀では大草香皇子となっていますが
母親は日向(ひむか・宮崎県)の髪長媛(かみながひめ)
というところが意味深であります
大草香皇子が住んでいた所は
河内(大阪)の日下(草香)でありますから
これまで述べてきたように
ニギハヤヒと関係しています
ニギハヤヒという名は世襲されて
代々付けられていた名で
元祖ニギハヤヒは日向に拠点を
持っていたという説も有力なのです
他の説としては佐賀県神埼郡
あるいは、鹿島曻説では大分県の宇佐地方としています
八幡宮の大元宇佐八幡宮がある所です(参照

2010年6月15日火曜日

碧玉と九鬼水軍 その14 

6月2日に、ニギハヤヒと関連のある地名である「日下(くさか)を取り上げましたが(参照)、今回は「味間(あじま)について述べようと思います。味間もニギハヤヒに関連があるのです。2日には日下に関連がある地名として、
ここ丹波篠山(ささやま)に草ノ上(くさのうえ)という地名があることを紹介しましたが、味間という地名も存在するのです(地図参照)。
ニギハヤヒのことが詳しく記されている先代旧事本紀では、ニギハヤヒが
河内国(かわちのくに・大阪府)に天磐船(あまのいわふね)に乗って天降った後、大倭(やまと・奈良県)鳥見白庭山(とみのしらにわのやま)に遷った際に、その地の長髓彦(ながすねひこ)の妹と結婚したことになっています。鳥見(とみ)という地名は、奈良県の三輪山付近の旧地名とされています。このことからも、ニギハヤヒが大阪の河内国と奈良の三輪山に関連していることが分かります(参照)。
そして、ニギハヤヒとナガスネヒコの妹の間に生まれた男児が味間見命(うましまみのみこと)とされているのですが、味間見命は宇摩志麻治命(うましまちのみこと)とも書き記されています。これが古事記では宇摩志麻遅となっています。
古事記はウマシマチという発音を漢字で書き記しているので、味間の訓を「ウマシマ・宇摩志麻」と解説していることになります。
このことを古代史研究家の谷川健一氏は、味間(ウマシマ)はもともと水間(ミヌマ=水沼)で、それが「ミマ」→「アジマ」→「ウマシマ」と変化したとしています。丹波篠山にある味間という所も古代は湿地だったということは地質学的にも証明されています。味間の近く、JR篠山口駅のあるところは大沢という地名です。これも湿地だった頃の名残の地名です(地図参照)。それから牛ヶ瀬。ですから、これらは谷川説を裏付けることになります。




2010年6月12日土曜日

蝶の死骸

今朝、蝶の死骸を見つけました
翅の付け根がまだ柔らかいので
死んだばかりのようです
道路際だったので
車と衝突でもしたのでしょうか

それにしても美しい・・

2010年6月8日火曜日

碧玉と九鬼水軍 その13 

         興福寺で出土したとされる三つ巴紋の軒瓦を手に入れました。

時代は室町時代と思われます。これには「東院北回廊柵周辺出土 1976年2月17日」というデータが書き込まれています。同様のもので左巻きのものが興福寺のHPにも紹介されています(参照)。
奈良・興福寺といえば、藤原氏の氏寺としても知られていますが、平安時代には三輪山の麓に出雲庄という荘園を所有していたということです。藤原氏は中臣氏と同義ですが、それに三輪山が関連しているとなると、どうしても兵庫県三田(さんだ)市の三輪神社と九鬼家に繋がらざるを得ません。
これで振り出しに戻るわけですが、奈良県三輪山の麓にある大神(おおみわ)神社に配祀されている神に大己貴命(おおなむちのみこと)=大国主命(おおくにぬしのみこと)があることの理由が、出雲庄という荘園があったということに関係しているようです。これらのことは後に詳しく述べるとして、振り出しである九鬼家の家紋の三つ巴紋が、その後多く見られ、その都度紹介してきました。
それは、九鬼家発祥の地とされる和歌山県熊野三社の社紋に、そして丹波篠山の地に、それから兵庫県三木市の浄土寺の軒瓦も室町時代のものがありました。
それから、三田・三輪神社のほど近く、日下部の地にある塩田八幡宮の社紋も三つ巴でした。それ以外にも九州大分県、大阪松原市から出土した
三つ巴軒瓦も確認しました。それから、全国の三つ巴紋の神社が紹介されているサイトもあります(参照)。その祭神をみるとほとんどが海人(あま)系なのです。つまり九鬼家が優れた水軍だったように、もともと海を拠点としていた、あるいは航海を得意としていた民族が関係しているということになります。
兵庫県西脇市の天目一(あめのまひとつ)神社を訪れた際に(参照)、兵庫県のほぼ中央に位置する内陸部に、海人系の代表的な神社である住吉神社が多く見られたのに驚いたのですが、西脇市の北隣に位置する丹波市山南町には蘇民将来に因んだ神事を行う神社まであるのです狭宮神社の茅の輪くぐり。また同町にある大歳神社では蛇ないという神事が行われています。これらは明らかに牛頭天王(スサノオ)に関係しています(参照)。つまりインド、あるいはその大元の西アジアの影響を受けているのです。ここで、またもや九鬼家のルーツがインドであるということを思い起こすのですが、ここ丹波篠山の地も大きな影響を受けているのは明らかなのです。

2010年6月5日土曜日

碧玉と九鬼水軍 その12 

新撰姓氏録には、当時(平安時代初め)の氏族(うじぞく)の出自や始祖が記されているのですが、その氏名には明らかに外国(インドなど)のものと思われる発音が多く存在しています。それを姓氏録では漢字で書き記しているので注釈が必要なのですが、紹介したサイトでは読み方まで説明されていません。
ですから、気になる氏名を少し挙げてみようと思います。
まず、出雲臣の同族として挙げられている「鵜濡渟(ウジュヌ)」、これはあきらかにインド系のようですね。次に同じく出雲臣の同族から「宇賀都久野(ウカツクヌ)」、日置造(へきのみやつこ)の始祖「伊利須意弥(イリスイネ)」。その他、氏名だけを挙げていくと、爾利久牟(ニリクム)、片禮吉志(ヘンレキシ)、左李金(サリコム)
伊利斯沙禮斯(イリシシャレシ)、都久爾理久爾(ツクニリクニ)、布都久呂(フツクロ)
大新河(ダイシンガ)、殖栗(ショックリ)などなど・・
いかがでしょうか。これらは日本語とは思えませんが、こういった名前の人々が、当時あたり前のように日本に居たということになります。時代はやや遡りますが、聖徳太子が制定した十七条憲法の第一条の書き出しで、「和を以て貴しとなす」としているのも、以前HPで述べたように(参照・6段目)、当時の日本には様々な人種がいたことが根拠になっていると思われるのです。
話を戻しますが、高橋良典説によると、鵜濡渟(ウジュヌ)はインドのデカン高原にある地名ウジャインとしています。その他、上に挙げていない姓氏録の氏名でインドのデカン高原一帯の地名と一致するものを多く指摘されているのですが、これらを見ると以前紹介したように(参照)、ここ篠山の神社に古代インドの影響が見られる理由が納得できるのです。






2010年6月2日水曜日

碧玉と九鬼水軍 その11 

丹波篠山出身の考古学者、福原潜次郎氏(故人)は昭和9年に出版した「多紀郷土史話」の中で、日下(くさか)について考察しています。その説で興味深いのは、他の地域で日下と言われているのが篠山では「草ノ上(くさのうえ)」とされていて、この篠山の「草ノ上」が日下の起源地であるとしているのです。(地図参照)。地図を見ていただくとお分かりのように、たしかに現在でも草ノ上という地名がありますが、福原氏は「草ノ上」は本来は「種の上」であったとしていて、その根拠として、部族の移住の際に捧持してきた神実(かんざね)を挙げています(実は種と同義である)。
このことで福原氏はおそらく、種の上流は丹波にあって、河内など他の日下は種の下流であるという意味で、先のような説を述べたのだろうと思います。しかし、どのような漢字を当てたとしても、「クサカ」という発音を表すのが目的ですから、福原説のように「クサノウエ」が「クサカ」と同義であるというのは、ちょっと無理があります。ただし、新撰姓氏録では「日下部連(くさかべのむらじ)は彦坐命(ひこいますのみこと)の子の狭穂彦命(さほひこのみこと)の後(すえ)なり」とあり、彦坐命は丹波道主命の父とされていますので、福原説のように、日下の起源地が丹波である可能性は大きいと云えます。
それから、先に紹介した地図に示したもう一つのポイントである雲部車塚古墳の存在は見過ごされません。車塚という名の付いた古墳は数多く存在しますが(遺跡ウォーカーで車塚古墳を検索してみてください)、川崎真治説によると、車塚は本来は亀塚のこととしています。
亀は古代倭語や同時代の朝鮮半島南部の弁辰(弁韓)語でクウヅマと言い、それが音転してクルマという発音になったということなのです。鹿児島県南部の種子島では今でも亀のことをクウヅマと呼ぶそうです。因みに他の地域では、長崎県五島地方ではクンクン、大分県宇佐地方、熊本県、福岡県の壱岐(いき)地方ではクウヅ、他の九州地域では、クヅ、クツ、コォツ、コォゾー、クチガメ、山口県や島根方言ではクソガメ、広島県ではカンドー、三重県阿山郡、奈良県添上郡、京都府相楽郡ではクソンド、京都府与謝郡ではガンダメ、などと呼ばれているようです。
このことは「碧玉と九鬼水軍 その8」で述べたように、亀をトーテムとした民族が関係しているということになりますが、車塚古墳は亀をトーテムとした民族の、その地の首長の墓ということになります。





2010年5月30日日曜日

碧玉と九鬼水軍 その10 

日下(くさか)という地名や語源については様々に考察されていますが、古事記でも序文で、「姓(うじ)の日下を玖沙訶と謂ひ、名の帯を多羅斯(たらし)と謂ふ、かくの如きの類は本に随て改めず」と断りを入れているほどですから、古事記が編纂された当時(8世紀)でも特別な読み方だったようです。
最初に古事記の注釈書を書いた江戸時代の本居宣長は、「かくの如きの類とは、長谷(はつせ)、春日(かすが)飛鳥(あすか)、三枝(さきくさ)などなり」と注釈をしています。三枝は現代では「さえぐさ」が一般的ですが、考えてみれば、
春日、飛鳥などなぜそう読むのか不思議といえば不思議です。
日下という読み方については、ニュージーランドのマオリ語「クタカ」の転訛であるという説(参照)や、アイヌ語で読むと意味が通じるという説もあります(参照)。
日下を素直に読むと「ひのもと」なのですが、これは日の本とも書くことができ、日本となります。倭(やまと)が日本という国名になったのは7世紀頃とされていますが、三国史記の新羅本紀では、670年の記録に「倭国が国号を日本と改めた」とあります。また、中国の文献である旧唐書(くとうしょ)や、旧唐書を宋の時代に改めた新唐書に記されている「日本」は、神武が東遷する以前の、物部氏(ニギハヤヒ)が河内に築いた日下のことであるという説もあります。そうすると、日下を「くさか」ではなく「ひのもと」と呼んでいた可能性も否定できないということになります。

たとえば、「山辺の道」は「やまべの道」と訓むこともできますが、倭名類聚抄では「夜萬乃倍」と訓が付けられています(紹介サイトをCtrl+Fキーで「夜萬乃倍」の文字検索をして下さい)。つまり当時は「やまのべの道」と訓んでいたことになります。また、この「山辺の道」というのは、古くから奈良県の三輪山周辺から北に伸びる道を指していたということです。ということは、日下も「くさか」ではなく「ひのもと」と訓んでいた可能性が高くなります。このことから、古事記序文で「日下を「くさか」と謂うのは元の読み方に従った」と書かれているということは、古事記編纂の頃には「ひのもと」と訓んでいたことも考えられます。
そうすると、古事記編纂以前に訓まれていた「くさか」は神武東遷以前、ニギハヤヒ族が河内に居住した地に付けられた地名、あるいは氏名だったということになります。
ニギハヤヒ族は最初に日本に渡ってきた地は九州の宇佐地方と思われますので、神武の東遷と同様にニギハヤヒも九州から大阪湾まで東遷してきたという説を裏付けることにもなるのです。因みに、物部氏(ニギハヤヒ族)発祥の地は佐賀県神埼郡一帯ともされています。





2010年5月26日水曜日

碧玉と九鬼水軍 その9 

前回紹介した塩田八幡宮は、兵庫県三田(さんだ)市の三輪・餅田遺跡からほど近いところにあり、その近くには日下部(くさかべ)という地名があります。
日下部は新撰姓氏録に記載されているので、元々は氏(うじ)名だったことが分かりますが、河内国(かわちのくに・大阪)と摂津国(せっつのくに・大阪と兵庫県)に居住していたとされています。(かばね)としては、連(むらじ・日下部連)、そして
宿禰(すくね・日下部宿祢)として山城国(やましろのくに・京都)に、それから首(おびと・日下部首)として和泉国(いずみのくに・大阪)に見えます。それらの地が後に地名として残ったのだと思いますが、塩田八幡宮が鎮座している神戸市北区道場町は摂津国ですので、新撰姓氏録で説明されているところだと思われます。
新撰姓氏録の河内国の日下部の説明では、「神饒速日命孫(かむにぎはやひのみこと の ひこ)、比古由支命之後也(ひこゆきのみこと の すえなり)」となっています。
神饒速日命は「碧玉と九鬼水軍その8」で紹介したニギハヤヒのことです。つまり三田市の三輪神社から神戸市北区の塩田八幡宮にかけての一帯はニギハヤヒの勢力圏だったということです。奈良の三輪山の麓にある大神(おおみわ)神社の祭神は大物主命ですが、これはニギハヤヒのことです。
日本書紀では、初代天皇とされる神武天皇(カムヤマトイワレビコ)が天皇になる前に九州から東遷して、行きついたところは「河内国の草香邑(くさかむら)の青雲の白肩の津」とされています。河内国の草香とは現在の東大阪市の日下のことですが、この地が新撰姓氏録に載せられている河内国の日下部氏の勢力地だったということは容易に想像できます。
ということは、この地は神武東遷以前にすでにニギハヤヒの勢力圏になっていたということでもあります。またその後、神武が熊野から大和国(奈良県)に入った際にはニギハヤヒが現れ、神武に仕えたとされていますので、このニギハヤヒはある特定の人物の名前ではなく、代々世襲されてきた名前だということが分かります。 神武天皇については、現在ではその実在は疑われていますが、HPの「日本の歴史その九」でも述べたように、おそらく素戔男尊(すさのおのみこと)や日本武尊(やまとたけるのみこと)の東遷を重ね合わせているものと思われます。




2010年5月20日木曜日

塩田石を求めて その2

この川は塩田八幡宮から
500mほど南に流れている
有馬(ありま)川 です
この川の上流には熊野神社と
大歳神社が並んで建っているのに
興味が湧くのですが
このことは次回述べます

こちらは上の写真の反対側
東側の風景です
月見橋の下から眺めた風景ですが
空は広く解放感があり
奥の山から満月が昇っていく様子は
すばらしいだろうと想像できます
在原業平の兄である行平など
平安時代の歌人たちが
ここを訪れたのも
納得できるというものです
とは言うものの
昔の流れは
塩田八幡宮の近くだった
ということで
前回紹介したように
そこに今では
厳島神社の小さな社が
建てられています

さて、塩田石なるものの
手掛かりでも見つからないものか
有馬川の岸に地層を探しましたが
現在ではほとんど護岸工事が
為されていて
地層が見えるところは
ありませんでした
それならば、河原の石を
見てみようと
河原に降りましたが
転石はほとんどが花崗岩で
その他の石も石英質の
硬いものばかりでした

ところが、場所によっては
上の写真のように風化が進んで
柔らかそうな石も散見されたので
塩田石の期待はできそうです

上の石を花崗岩で叩いてみると
ボロリと剥がれました
面を擦ってみると密度も適度にあり
砥石として使えそうな雰囲気です
砂岩か凝灰岩か
見分けづらいところですが
どうも凝灰岩のような感じがします
出土した塩田石はもっと
粒子が緻密なので
塩田石とは言えないかも
しれませんが
砥石にはなりそうです

持って帰って面を出し
早速刃物を当ててみました
サリサリと反応しますね・・
石の質感や刃物への当たり具合は
但馬砥によく似ています(参照
これは凝灰岩のようですね

傷は大きめで、砥石としては荒砥の部類に入ります
比較的傷が均一なので
使えないこともありません
古代の人だったら砥石として
使っていたでしょうね

参考までに、これは出土した
塩田石です
緻密なので、現在使われている
砥石としては
愛知県に産していた三河名倉砥
似ています
これも凝灰岩ですが今では
掘られていません

今回は川での探索となりましたが
次回は山を探してみたいと
思っています

2010年5月16日日曜日

塩田石を求めて

兵庫県三田(さんだ)市にある
三輪・餅田遺跡から出土した砥石は
塩田石と呼ばれているということは
前回述べましたが(参照
その塩田石が採れるという
神戸市北区道場塩田に行ってきました

ここ丹波篠山から三田市
あるいは神戸の道場に行くには
いくつかのルートがありますが
今回は篠山の後川(しつかわ)から三田市に
抜ける道を選びました
私のお気に入りのコースです
山々の若葉が萌える合間に藤の花の紫色が
なんとも云えぬ風情を醸し出していました
まさに心が洗われる風景です

後川を抜け、三田市が近づくと
山の様相が変わります
上の山はいつも気になるのですが
今回はカメラを持って出ていたので写真に収めました
この、定規で引いたような見事な三角形の山は何だ?
日本にもピラミッドがあるという噂は耳にするが
これもその一つかもしれません・・


塩田石を探す前にまず塩田八幡宮
挨拶に行ってきました
200mほどの参道が終わる頃
杜の鳥居が見えてきました
手前右に見える白い鳥居は厳島神社のものです


これが厳島神社
かわいらしい社でした
鳥居の右脇には石碑が建てられていて
「旧月見橋跡」とありました
このことについては次回述べることにして
歩を進めることにします



さて、いよいよ塩田八幡宮の杜です
さあ!と足を進めようとして
ふいと横に目をやると
何やら立派な門があります
日に焼けて黒くなった板に薄くなった墨書きの
看板をよく見てみると「塩田八幡宮社務所」
とありました



なかなか立派・・屋根に目をやると
軒瓦が左三つ巴ではないですか・・
ま、今回はこれが目的ではないので・・
と自分に言い聞かせ歩を進めました

長い石段を登りきると
立派な社殿であります
参拝を済ませ、左脇にある社務所
塩田石について尋ねたら
知らないということでしたが
この地がなぜ塩田というのかという
由来を教えてくれました
この地の岩盤には塩気が含まれていて
それが湧き水に溶け出ているから
塩田と言うのだそうであります
ということは、その塩分を含んだ岩盤が
塩田石なのだろうか・・
とりあえず、塩田八幡宮の近くを流れている
有馬川の河原の様子を見てみることにしました
その様子は次回報告することにします

社務所の方にお礼を述べて
引き返そうとしたら
あ、宜しかったらこれをどうぞ
と神社のパンフレットを下さいました
それを見てビックリ
この神社の社紋は
なんと左三つ巴ではないですか・・



2010年5月12日水曜日

三輪・餅田遺跡の碧玉と塩田石


兵庫県三田(さんだ)市の
新たに発見された加工途中の
碧玉製管玉と砥石(塩田石)の
説明会に先日足を運びました

展示ケースの下の段に見える
弥生時代の土器は
地元で焼かれたものだろう
ということでした
独特の雰囲気がありました
隣接する丹波や播磨とは
全く違う感じです

これが今回新たに発見された
砥石です
この石は、塩田石とも
呼ばれているそうで
三輪・餅田遺跡から南東に
1.5kmほど離れた
地域で見られるそうです
興味深いのは、その地に
塩田八幡宮があり
その神社のすぐ近くには
厳島神社があるのです

砥石の側に使われた跡が
残っていました
こうして、手に取って観察させて
もらえたのは幸運でした

そして、これも今回の発掘で
新たに発見された
加工途中の碧玉(へきぎょく)製
管玉(くだたま)です
このような加工を上の砥石で
行ったのだと思いますが
上の砥石の削れ方は
管玉ではないような気がします
弥生時代から古墳時代に
かけての管玉の側は直線なので
これを削った跡は
もっと直線的になるはずです

上の砥石の減り方は
勾玉のように側が丸いものを
削った跡だと思われるのです

この管玉は加工途中
おそらく穴を開けている時に
割れたもののようですが

私が 興味深いのは
反対側のこれから穴を
開けようとしていた跡なのです
よく観察すると、ポツポツと
針のようなもので突いた跡が
見られます

私は、自分で勾玉を作るので
よく分かるのですが
硬い石の平らなところに
穴を開けようとした場合
最初の取っ掛かりが必要で
それには鋼(はがね)の
錐のようなもので突くのが
最も有効なのです
そうすると
自ずと上の写真のような
白いポツポツの跡が
できるのです

参考までに、これらは
昨年2009年に神戸の雲井遺跡で
発見されたものです
三輪・餅田遺跡のものと
同様の碧玉です