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2014年3月27日木曜日

日本刀関連の本を入手

日本刀に関する本を新たに
3冊手に入れました
まず、画家「かつきせつこ」
さんによる絵本
対象は鎌倉時代の
日本刀作りの技法を
ほぼ手中に収めたとされる刀工・松田次泰氏

それから研ぎの立場から
日本刀の謎に迫る
刀剣研ぎ師の倉島一氏による「日本刀 謎と真実」

倉島氏による鎌倉時代の
名刀の反りの考察は
特筆ものです
一言で言えば当時の
名刀の反りの多くが懸垂線
依っているというもの
これは日本の建築物の
屋根の反りなどにも
取り入れられているものです
このことと、西洋の楽器などがフィボナッチ数列による
黄金比に依っていることが
多いということに
共通したものを感じます

一般的に、日本刀を焼入れすると刀身が反ると
言われていますが
先に紹介した松田氏の
焼き入れでは
刀身は反らないのだそうです(そういう技術がある)
このことから、鎌倉時代の名刀の反りも焼入れによる
偶然の反りではなく
刀匠による意図どうりの
反りであると松田氏は
主張されています
このことは
たいへん興味深い・・

こちらは日本刀の科学的研究の先駆けとも言える
俵国一氏による
「日本刀の科学的研究」
こういった研究書が戦後間もない昭和28年(1953年)に
出版されているということに
驚いてしまいます

装丁は当時一世を風靡した
版画家の棟方志功


出版当時の俵国一氏近景
出版された当時
氏は82歳だったということで
この研究は明治39年10月から
大正13年の10月まで18年間
行われたということです

松田次泰氏によると
この研究書は現在の
日本刀の世界では
ほとんど無視されているということですが
松田氏にとっては
この本に書かれてあることは
鎌倉時代の日本刀作りの方法そのものなのだそうです
 
この研究にあたって
当時の鑑定家・本阿弥光遜氏の
監修の下で刀匠・笠間繁継氏が実際に作刀に
携わったということです

研ぎについても
砥石と研ぎ傷の写真を交え
詳細に記されています





2013年7月17日水曜日

刀剣を生業(なりわい)とする・・


幕末頃に撮影されたと思われる写真
後に彩色処理されているようです
このように盥たらいの中に大きな砥石を入れて
研いでいるところが見られますが
写真が残っていたとは驚きです
この写真では盥に水は張られていないようなので
撮影用の設定でしょうが、大まかなところは
当時の様子だと思われます
そうすると、現代のような構えになり
踏まえ木が使われるようになったのは
明治時代頃ということになりますね・・




きょうの神戸新聞に掲載された記事から部分転載
(右クリックで別ウィンドウで開くと大きな画像を見ることができます)

現代では実用的ではないものを作る
ということはかなりの覚悟が必要でしょうね・・
実力さえあれば協力者が現れてくれるのも事実ですが
その実力を世に知ってもらう努力も必要な世界

我々楽器を作る者にも言えることなのですが
世の中に迎合しすぎてもいけないし
独りよがりでもいけない
確たる自信も必要だが、それを客観的に見る努力も必要
何事も難しいですね・・


2012年1月29日日曜日

楽只堂年録から




徳川五代将軍・綱吉の
側(そば)用人として奉公し
大老まで出世した
柳沢吉保(参照)の公用日記「楽只堂(らくしどう)年録」から刀剣に関する記述を
少し紹介します。楽只堂年録は柳沢文庫所蔵のものを底本とし、
平成二十三年七月廿八日八木書店より翻刻出版されものです。
ここに紹介する日記はその第一巻から引用したもので貞享四年九月(1687年)から
元禄八年十二月(1695年)のものです。
文中の旧字は新字に書き換え、意味が掴みにくい箇所は適宜書き換え、場合によっては
ルビや解説を付けました。従って文責は編集した田中清人にあります。


貞享四年(1687年)九月九日 吉保三十歳
出生の男子(息子の安暉やすあき?安暉は吉里の幼名、七夜の祝なり 中略 
祝とて安忠(祖父)より兵部(安忠が安暉に付けた名)熨斗
(のし・熨斗鮑のこと)をもとらせ、重代の仁王の刀と、安忠
大坂御陣の供奉せし時、指たりし(刀を腰に差すの意)正広の脇指
与ふ。件(くだん)の刀は長さ二尺一寸、無銘にて矢折の傷あり。
元は信俊が鷹野脇指にて、吉保が誕生せし時も守刀にせり。
後、吉保が代に至て、本阿弥の何某に見せぬれば、
代金一枚五両といへる札を付けつ。正広の脇指
長さ一尺四寸一分あり。

元禄元年(1688年)十一月十二日 吉保三十一歳
御前(将軍綱吉の御前)に召され、松平伊賀守忠徳(側用人)
喜多見若狭守重政(側用人)が列にて務むべきの仰を蒙り、
食禄一万石を加え賜り、青江次吉の刀を御手自ら下されて
拝領す。其刀、長さ二尺四寸一分、磨上にて銘なし、
代金十五枚の折紙あり。けふ(今日)南部遠江(とおとうみ)政直も
御側衆より此役に仰付らるれども、席、吉保が下なるべき由
仰事也。同月十五日に、太刀目録にて御礼を申上る。

元禄四年(1691年)二月廿八日 吉保三十四歳
安暉(やすあき?吉保の息子)が袴着なり。刀を与へて祝ふ。

廿九日
黒田豊前守直重が使、新井三郎右衛門、山名信濃守泰豊が使、
有路外記、結納の品々を捧げ来る。
新井三郎右衛門・有路外記に刀一腰宛を与ふ。
結納の使帰りて後、豊前守直重・信濃守泰豊来り見(まみ)ゆ。
直重に引たる刀は、備前の重実、代金十五枚の折紙有。
脇指は三原、三枚五両の札あり。媒妁は中根平十郎正冬
山田十大夫重政なり。泰豊に引たる刀は、和泉守兼定
作にて、代金三枚の札有。脇指は志津の作にて、
代金十五枚の折帋(紙)有。媒妁は詳ならず。

三月廿二日
今日天気よく、吉保が宅に初めて(将軍綱吉が)御成なり。
去比より宅の内に、新たに御殿の経営成就して、
頗る丁寧を尽せり。奥御殿の床に御筆の桜に子連馬の
掛物と立花二瓶、違棚に料紙箱を置く。紅葉の蒔絵なり。
狩野探雪が画る祝の壺といへる巻物、宇治にて茶を拵ゆる
体なり。是も棚に置て直に献上す。御刀掛は黒塗り蒔絵なり。
御講釈の間には、床に寿老人、左に松、右に竹、
何れも靏(ツル)を描ける、狩野洞雲が筆の三幅対を掛けたり。
下に砂の物、棚に見台あり。御装束の間の床には、是も洞雲が
描ける槇(まきの木)の山水の二幅対を掛く。中御殿は西王母、
左右共に龍なり。卓に香炉を乗せたり。
御刀掛は、梨地蒔絵なり。

(この後、柳沢吉保は御礼のため家族を伴って登城、その折の日記)
前略
母・妻・娘などの捧げ物、何れも進物番衆持ち出る。
終りて家臣(吉保の家臣)三人、一人一人太刀目録にて拝謁す。
披露はみな伊予守植昌なり。それより西の御成座鋪(ざしき)
入らせらるる内に、献上物をば進物番衆引く。再び上段に
御出にて御雑煮・御吸物出る。
吉保御相伴にて御盃を下さる。御肴いただき、替への時、
御手自ら御指の御腰の物頂戴す。帯して御礼を申し
御盃を御次に持出る。時に上意ありて、成貞(吉保の家臣の一人)
取りて台に乗せ、御前に捧ぐ。召上げ給ふ時、吉保、来国光の
を献ず。成貞持ち出で披露す。献上の茶壷は
真壺(まつぼ・呂宋(るそん)壺の中で文字・紋様のないもの)御小性衆両人にて
持ち出る。是も披露は成貞なり。
次に御盃を安暉(吉保の息子)に下さる。御肴を頂き、替への時、
御脇指を御手自ら安暉に下され、御盃を返し奉る。再び吉保に
下されて納めぬ。成貞ご挨拶をす。それより北の御成座敷の上
段に御着座なりて、吉保が産母并(ならび)に妻・二人の娘初て
御目見す。安暉が母は月の穢ゆえ御前に出ず。
俊親(安暉の母の弟)を召し、是も御自ら脇指を下さる。


江戸時代の貨幣価値についてはこちらを参照下さい。



2011年4月24日日曜日

幕末の出石と江戸



これは出石の旧家から出た
幕末の読本です
題は「野居鷹(のずえのタカ)



 発刊されたのは
文化五年(1808年)
画工は、かの有名な
葛飾北斎であります
江戸深川で発刊されたことが
記されていますから
この本も江戸から
出石に運ばれてきた
ことになります
見開いた右上に
判が押されていますが
但州出石サシガネに▲の下に
米太とあります

この読本は
四巻が綴じられていて
貸し本とされていたようです
上の「米太」という判は
ここに書かれてある
田米屋という貸本屋
のものなのかもしれません
各巻の最後に上のように
「帙本何方(いずかた)
御かし(貸し)
申候共(申しそうらへども)
相済み候はば(そうらはば)
早々御返し下され
(たく)候也(なり)
と注意書きがなされています

2011年4月22日金曜日

千代鶴是秀と運寿是一

HPの「日本刀について」で述べている
石堂運寿斎是一の短刀が今回の篠山刀剣会で
鑑定刀として出されました



写真では分かりにくいですが
地鉄じがねは大変美しく
新々刀期のものとは思えず
大阪新刀や肥前刀と見紛うほどでした
刃文はもんの匂いは深く(刃文が太い)よく揃い
刀工の腕の良さが表れています
新刀期の大阪新刀や肥前刀の刃文にくらべると
やや刃文の明瞭さに曇りを感じますが
匂いの深い丁子刃文に沸にえ
付けることができるのは
江戸石堂派ではこの運寿是一だけだそうで
幕府の抱え工になったのも頷けます

 運寿是一は奉納刀など注文打ちの刀も多く
これもその一つのようです
「奉 出石侯命」と切られていますが
兵庫県北部の出石Izushi藩の藩主による
注文打ちのようです

中心なかごの棟側には
嘉永七年ハ月日と年紀が切られています
(嘉永七年は西暦1854年)

「日本刀について」でも述べていますが
刃物鍛冶で有名な千代鶴是秀(明治七年生まれ)
父親(二代目綱俊 運寿是俊)の弟
つまり是秀の叔父(八代目 石堂寿永)は
石堂運寿斎是一の弟子です
是秀はこの叔父に入門しています
是秀が入門した頃は石堂是一も健在だったので
是秀はおそらく両人から指導を
受けていたものと思われます
ですから、是秀の打った刀が古刀として見られた
という逸話も本当かもしれません

参照:千代鶴是秀作組鑿


2010年12月22日水曜日

簗瀬市蔵・初刀匠の合作刀 

この刀は、このブログにコメントをいただく
源 信正さんこと簗瀬(やなせ)哲也氏の
曽祖父の簗瀬市蔵氏と祖父初氏による合作刀で
昭和三年の昭和天皇の即位を祈念して打たれたものだそうです

12月20日のブログにコメントをいただいているように
この刀には刃中に長い金筋(金線)が入っているということですが
御自身、これが金筋なのか自信がないということです
これをご覧になって皆さまどう判断されますか

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以下、簗瀬氏による説明です

簗瀬市蔵の父彦六は備前長船刀匠横山左近介源祐信(友成56代孫)の門人で、祐信が安政三年11月11日福江城下に屋敷知行を下され作刀。万延元年9月15日に五島を辞去するまでの3,4年間滞在した際に長船の作刀を学び(1854~1860)五島神社の宝刀を明治17年に鍛造した。
五島には横山祐信と簗瀬一党にのみが刀工といわれている。
五島神社の御刀はWWⅡ戦後の際、もって行かれました。
裏表に昇り龍下り龍が彫られたのでなく、研磨の時に自然と浮き上がってきたので、宝刀とされたといわれてます。
この刀を作刀したのは、私の曽祖父「源朝臣 簗瀬市蔵 信正」(みなもとのあそん やなせいちぞう のぶまさ)(刀工名 源 信正)です。亡くなる一年前69歳の作で、祖父 初(はじめ)との合鎚で昭和三年に作刀したものと思われます。
彦六は信正の父になります。

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刃中にあるこのような筋を
金筋と言ったり銀筋と言ったりしますが
金筋の定義は、鑑定の指南書などでは
「刃縁や刃中に現れる筋で
沸が凝結して黒く光り輝いている直線状のもの
屈折しているものは稲妻と称する
金筋と同様でも白みを帯びて見えるものは銀筋と呼ぶ」
とされています
とすると、この刀のように
刃文に沿って曲線を描いているものは
稲妻とする方が妥当なのでしょうか・・

人によっては、白熱電球に当てて見て
金色に見えなければ金筋とは言えない
という人もいますので
なかなか判断が難しいところではあります

私が思うところは
この筋は沸(にえ)の凝結が緩いもののように見えますので
薩摩刀によく見られる沸筋とするのが妥当のような気がします
薩摩風稲妻とでも言いましょうか・・
しかし、この御刀は匂(におい)出来のように見えます
匂出来の刀にも沸筋が出るものなのでしょうか・・
不思議といえば不思議です・・

2010年12月17日金曜日

お守り刀展拝観

大阪歴史博物館で開催されている
お守り刀展覧会に足を運びました

 地下鉄の出口を出ると
間近に博物館の建物が聳えています
後方には大阪城天守閣が聳えているのが見えるのですが
後ろに立っている高層ビルに呑まれて
ちょっと威厳が消されてしまっています・・





 会場入り口の様子
せっかくなので、常設展示も見ることにしたら
エレベーターで10階まで行くように云われたので
そのようにしました
刀剣展は6階で行われているということです






 10階から常設展示を見ながら
エスカレーターで降りていくと
途中の踊り場が全面ガラス張りになっていて
このように大阪城を望むことができます





 会場内は撮影禁止になっていたので
展示の様子はお伝えできませんが
私の心に残った一振りを
ぜひ見ていただきたいと思います
(販売図録から部分転載)

これは鎌倉時代中期頃の姿をした太刀ですが
作者は岐阜県の吉田政也氏
今年、平成二十二年の新作です
全面が山鳥毛丁子刃文となっています
おそらく岡野家に伝わる国宝の一文字「山鳥毛」を
意識して打たれたものであろうと思いますが
見事でありました
研ぎも氏自身が行ったということですが
妖しいまでの存在感に
時間の経つのを忘れて見入ってしまいました
ぜひ一度手に取って拝見したいものです

その他の展示刀の受賞作は
全日本刀匠会HPで紹介されています





 それからこの短刀は
展覧会とは関係がないものですが
展示会場で販売されていた刀剣誌の
精炎vol.3に掲載されていた
天田昭次氏の作品です
見事な相州伝に息を呑んでしまいました・・





博物館を出ると
天守閣の上には月が出ていて
空の左側には、伊丹空港か関西空港かは
分かりませんが
飛び立った旅客機が間近に・・
このとき、なんとも云えない感慨に打たれてしまったのです・・

2010年10月7日木曜日

日本刀の将来を憂う

御先祖に刀匠を持つ簗瀬(やなせ)哲也氏が、
日本美術刀剣保存協会長崎支部に寄せられた文を紹介したいと思います。
簗瀬氏は長崎市在住、長崎簗瀬家47代目・・源義光流れ(武田家に同じ)。
この文についての私のコメントは控えさせていただき、
皆様の判断にお任せしたいと思います。
文は簗瀬氏から送っていただいた画像のままUPしました。文のところを右クリックして別ウィンドウで開くと大きな画像が見られます。




2009年10月15日木曜日

藤井啓介氏の刀

兵庫県篠山市在住の刀剣作家
藤井啓介氏の脇差(平造り)を
見る機会を得ました
出来の良い刀は、見るだけで心が洗われます
こうして手に取ってじっくりと眺めていると
古来から、刀が鑑賞されてきたのが
よく理解できるのです

氏は27代兼元である
金子孫六刀匠に師事されていますが
この脇差は、その初代孫六兼元(室町時代後期)
を写したものだということです

刃文の匂い口(刃文の幅)は複雑で
見所が多く、金筋も所々に見られ
いつまで見ていても飽きません
これは名刀の条件を備えていると云えます

表・裏には梵字の種子が彫られています
本歌
(初代・兼元の作品)
は研ぎ減っていて
裏の字が判然としませんが
これは、おそらくこうであろうということで
彫られたものだと思われます

参考までに、これは手許にある
字典の一部ですが、これを参考にすると
表の字は
文殊菩薩、裏は多聞天
該当するようです