ラベル 碧玉と九鬼水軍 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 碧玉と九鬼水軍 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2022年8月10日水曜日

福知山市三和町大原神社

 

ちょっと気ままな旅に・・
工房から1時間半ほど


元伊勢・外宮
豊受大神社toyuke-daijinja



御神木


近くの渓流

巨大な岩があちこちに


少し足を延ばし
天橋立へ


帰る途中
大原oobara神社
寄ってみました


道路からは
この茅葺の絵馬殿しか
見えないが


鳥居の奥の拝殿と神殿は立派
創建は大化元年645年という
説もあるほど古い
その際、天児屋命
が関係しているようです
江戸時代になり九鬼家
篤く信仰していたようですが
九鬼家の祖が天児屋命と
されていることと
何か関係があるのでしょうか

手水舎で身を清め



本殿へ向かう
明らかに周囲とは
違う厳かな雰囲気に
身が引き締まる
祭神は伊邪那美命
Izanami-no-mikoto
天照大神
amaterasu-oomikami
月読命
tsukuyomi-no-mikoto 
の女神三神
天照大神と月読命が
一緒に祭られているのは
珍しい

彫物も豪華で
目を瞠ってしまう

摂社の水門神社

圧巻は境内脇の参道

昇り始めから
20m以上はあろうかと
思われる藤蔓が
大蛇のように絡まっている


因みに、大原神社は
兵庫県から京都府にかけて
あちこちに見られますが
読み方はooharaがほとんどで
ここ三和の大原だけが
oobaraと濁るようです


2022年7月7日木曜日

八咫鏡と八稜鏡 そして内向花文鏡


三種の神器の一つは
八咫鏡 Yatanokagami
とされています
この画像の鏡は
福岡県平原遺跡から
出土している直径46.5cmの
内向花文鏡と
名付けられているものです
ヤタについては
諸説あるようですが
その一つに八咫を
円周の単位とする説もあります


これも平原遺跡から
出土しているもので
直径は18.8cm


これは奈良県柳本大塚古墳から
出土している内行花文鏡
直径39.7cm
ここに紹介した3枚の
内行花文鏡の内側の
花弁様の円弧が8枚なのが
気になります
最初のものは、中央部にある
紐を通す鈕chuの周りに
♠形の花弁様のものが
8枚鋳込まれています


内向花文鏡についての
曽布川寛氏による最新説「曽布川2014」
内向花文鏡のデザインは
古代中国の神仙思想を元にした
宇宙構造を表している、というもの
銅鏡中央の紐を通す鈕chuを
天極星とした釣天と連弧文で表された
八天を基本に構成されているとする


さて、こちらは
矢野祐太郎という人が
昭和の中頃に伊勢神宮に
所蔵されている八咫鏡を
写し取ったとされる図
八稜鏡ですね
文字については中央部は
ヘブル語である
という説
もありますが
その周りの文字は


九鬼家に伝わる
中臣神世文字
似ているところに
興味を覚えます


これは九鬼kukami家に
伝わる九鬼文書の一部ですが


このような絵も残されています
これは平安時代の画家
百済河成が描いた
とされる牛頭天王
gozu-tennoは
素戔男尊
susanoono-mikoto
のことでもあります


手に持たれている鏡が
八稜鏡です


九鬼家の紋の三つ巴が
八稜鏡の中に描かれている印

九鬼神伝から紹介


道教では八角というのは
魔除けともされているので
その影響もあるのでしょうか


こちらは日本独特の宝鈴鏡
これは鈴が10個付いている
十鈴鏡

八鈴鏡

七鈴鏡

六鈴鏡

五鈴鏡
小さなものには
四鈴鏡もあります

2010年11月5日金曜日

猿田彦と滋賀県

先日、滋賀県の大津市伝統芸能会館に行った際に、
近くにある大津市歴史博物館に寄ってきました。

滋賀県は関西に越して来た時から頻繁に足を運んでいますが、
歴史博物館はこれで三度目でしょうか・・。
今回は当地の古代史資料を目当てに行ってきました。
ショップでは何種類か販売されていましたが、志賀町史の
古代について書かれてある巻が興味深かったので手に入れてきました。

古代の滋賀県といえば、私はまず琵琶湖の南に位置する
野洲市から大量に発見されている銅鐸を思い浮かべるのですが、
それと関連して、琵琶湖西岸の高島市を連想します。
この地は猿田彦とたいへん縁が深いのです。
このことは以前HPで少し述べていますので参照ください
(日本の歴史について「その八」12段目)。
これについて補足的なことも後日述べようと思っていますが、
当地の氏族である和邇氏(わにうじ)と小野氏(おのうじ)も
見過ごすことができないので、今回少し触れようと思います。

まず和邇氏ですが、志賀町史では、本来は和邇部氏で
4世紀後半に和邇部氏と和邇氏が結び付いたとなっています。
本拠地は今でも琵琶湖中央部西岸に地名として残っています(地図参照)。
この地図のJR和邇駅近くに小野神社があるので、この地は小野氏も
関わっているようですが、小野氏は大和(奈良県)の春日の和邇一族から
分岐したとされていますので、和邇氏とは同族として
共存していたものと思われます。
余談になりますが、滋賀県高島市の田中神社から発見された
ホツマツタエでは和邇氏は琵琶湖北部の伊香の地から
高島の地に移ってきたとされています(地図参照)。
以前述べたように、この地には羽衣伝説があります(参照)。
ということはルーツは東南アジアということになります。

話を戻しますが、小野氏からは聖徳太子の時代(6世紀頃)に
遣隋使として派遣された小野妹子が出ていて、和邇氏からは
大津宮廷の支配者である天智(てんじ)天皇崩御後の
壬申の乱(672年)で勝利した天武(てんむ)天皇が輩出されています。
志賀町史の和邇氏の記述で興味深いのは、
和邇部氏(和邇部臣・おみ)は7世紀の終わり頃まで宮中の鎮魂祭で
神楽を奉仕する女性(猿女・さるめ)を出していたということです。
このことは、ここ丹波篠山の佐々婆神社と同じなのです。
佐々婆神社は私の工房のすぐ近くなのですが、以前紹介したように(参照
この神社の祭神は天宇受売神(あめのうずめのかみ)、つまり猿女なのです。
そしてこの地も古来から神社に奉納舞をする巫女を輩出していたとされているのです。
このように、滋賀県の琵琶湖西部とここ丹波篠山の地は
深い繋がりがあったようなのです。
また、先に紹介した天武天皇が、壬申の乱の際に協力しなかった隼人を
丹波の地に追いやったというのも、丹波の地は隼人とも
繋がりが深かったからではないでしょうか(参照)。



2010年10月21日木曜日

猿田彦とニギハヤヒ

弥生時代の始まりを紀元前1000年説を採ると、
この頃ニギハヤヒ族が日本にやってきた可能性が
あるような気がします。世界史ではこの頃バビロンの覇権が
イシンからアッシリアに移り、これに対抗してカルデア人
(アラビア海の海人)がイシンの王族を中国に亡命させ
萁子朝鮮をたてています。それに伴い近辺では様々な
軋轢があったことが想像されますが、当然その流れが
日本列島に及んだ可能性もあるものと思われます。

紀元前700年頃には九州の国東半島で製鉄遺跡が
発見されているので、これはニギハヤヒ族がやって来ている
可能性大です。そのおよそ600年後、紀元前100年頃に
銅鐸文化が始まったとされています。
北海道と沖縄を除き、全国的に分布している弥生時代の
遺跡の中で、銅鐸、銅剣、銅矛などを持った青銅器文化
というものは九州から近畿に集中しているのが特徴的です。
ですから弥生時代の始まりは製鉄技術を持ったニギハヤヒ族が
日本列島に入ってきたのを嚆矢とし、その後西日本に
青銅器文化を持った猿田彦族が入ってきたという
図式を描くことができそうです。
ついでに述べておきますと、天日槍は3世紀から4世紀にかけて
日本にやってきたものと思われます。このときには、朝鮮半島の
当時の最先端の鉄加工技術や、それまで日本にはなかった
高温で焼く須恵器を作る技術を持って来たとされています。




2010年10月16日土曜日

猿田彦と翁

昨日、猿田彦の死因について少し述べましたが、
お気付きの方もあったかもしれませんが、この話は
インドネシア近辺の説話なのです。それが古事記では、
猿田彦が伊勢(三重県)の阿邪訶(あざか)にいる時、
(いざり)をしていて比良夫(ひらぶ)貝に手を挟まれて
溺れ死んだとなっています。
この阿邪訶という地名は、現在の三重県阿坂(地図参照)と
するのが一般的のようですが、阿邪訶は地名ではなく、
沖縄で言うアザカイであるという説もあります。
アザカイとはシャコ貝のことで、ですから、インドネシア系の
「猿がシャコ貝に手を挟まれて死んだ」という説話が
沖縄経由で伊勢地方に伝わったとする方が理に適って
いるのではないでしょうか。比良夫貝についてはよく分かって
いないようですが、タイラギのことではないかという説もあります。

以上のような、南方系の説話が日本の神話になっている
ということは他にもあります。たとえば、マレー半島の
ワニだましの説話が日本書紀の因幡(いなば)の白ウサギになっていたり、
他には卵生神話や蛇体神話もあります。
それから、日本各地に残る羽衣伝説の地の一つに、
滋賀県北部の余呉湖がありますが、この地は近年(昭和40年代)まで
焼畑農業が行われていたということです。ということは、
この地の羽衣伝説は南方から伝わってきた可能性があります。
このことは、滋賀県から銅鐸が多く出土していることと
何か繋がりがあるのではないでしょうか。



今日の篠山
工房からの眺め

2010年10月15日金曜日

三つ巴紋と猿田彦

猿田彦が祀られている神社に三つ巴紋はないものと思っていましたが、
三重県鈴鹿市の椿大神社が三つ巴紋であることを知りました。
猿田彦と椿(つばき)については、古賀登氏による長大な論文がありますが、
それについては後日述べるとして、なぜ猿田彦を祭神とする神社に
三つ巴紋が付けられたのでしょうか・・
こういった重層性とも云える現象は猿田彦に関する事象に
よく見られるのですが、それはそれだけ猿田彦が古くから
各地に大きな影響を残したからだと思われるのです。
サルタヒコは特定の人物名ではなく、ニギハヤヒや玉依姫などのように、
ある民族グループの代表的世襲名だったものと思われます。
そして事ある時々に、天孫降臨の道案内をした代表者がいたり、
南西諸島に居たときには塩土老翁(しおつつのおじ)とされたり、と
人々の記憶に残っていったのではないでしょうか。
また、サルタヒコの死因が溺死で、その原因が海に潜っていて
大きなシャコ貝に挟まれたという言い伝えもその一つの出来事だと云えます。
シャコ貝はサンゴ礁の海域に生息するので、日本では沖縄近辺となります。
昨日述べたように、私見ではサルタヒコ族が最初に日本に上陸したのは
鹿児島県南西部の阿多隼人の地としましたが(地図参照)、
サルタヒコ族のルーツを西アジアとした場合、
その後 インド南部経由で東南アジアに至り、南西諸島を経て
鹿児島に入ったことになります。



この神社は、ここ篠山で唯一猿田彦が
祀られている居籠神社(いがも神社)
風前のともし火で
地元の人にも忘れ去られようとしています


2010年10月14日木曜日

隼人紋と猿田彦

下の写真は、ベトナム ドンソン文化(紀元前300~紀元100)の遺跡から出土したとされる青銅製の鐘です。高さは11cmほどで、以前紹介した滋賀県出土の小型銅鐸のレプリカ(参照)とほぼ同じ大きさです。ドンソン文化の青銅技術を持った民族が
日本に入ってきて、弥生時代の銅鐸を作ったのではないかという説がありますが、この鐘は銅鐸のルーツと言えるものなのかもしれません。
興味深いのは、この鐘に鋳込まれている文様ですが、これは隼人紋と同じなのです。隼人紋はHPで紹介(参照:九段目)しているように、縄文時代から見られるので、その頃から隼人系民族が日本にやって来ていたということになりますが、紹介した青銅製の鐘が事実ドンソン文化のものだとすれば、サルタヒコも隼人族と関係があるということになます。
古代筑紫国(福岡県)は猿田国と呼ばれていたという説もありますが、それ以前には九州全体が猿田国だったという説もあります。
先日紹介した鹿児島県霧島市の高千穂峰山頂に刺されている「天の逆鉾」にサルタヒコと思しき顔が付いているのは、その説を裏付けるものなのかもしれません。
そして高千穂峰の西に位置する阿多隼人の地こそ、最初に
サルタヒコが九州に基地を構えた所なのではないでしょうか(参照





2010年9月19日日曜日

碧玉と九鬼水軍 その23 


中国遼寧省(地図参照)は朝鮮半島の付け根に位置していて、三つ巴紋の銅戈(どうか)参照)が出土した戦国時代(紀元前403~221年)は燕(えん)の国に属し、長城を境に
東胡と接していました。次の秦時代(紀元前221~207年)漢時代(紀元前206~紀元220年)もやはり北限として長城を境に北に匈奴(きょうど)、東は萁子朝鮮(きし・ちょうせん)に接していました(参照)。



この図は紀元前3世紀の秦代から3世紀の魏代の中国人による東方異民族観(井上秀雄著「古代朝鮮」より部分転載)ですが、遼寧省付近は秦代には濊(わい)、漢代には倭(うばい)とされていたようです。濊も倭は同じ民族(発音も似ています)で、日本列島にも及んでいたという説が今では多く見受けられますが、戦国時代の遼寧省から出土した銅戈に三つ巴紋が鋳込まれているということは、秦代以前から朝鮮半島の一部と遼寧省を含む地域は日本列島と同じ民族圏だったということの裏付けとなるのではないでしょうか。
ということは契丹文書(参照・七段目)に記されているように、紀元前後の朝鮮半島の一部と日本列島は同じ民族圏だったということになるのです。




燕国の燕(えん)
このような想像上の四足の神獣でもあります