2011年2月27日日曜日
2011年2月25日金曜日
2011年2月21日月曜日
2011年2月20日日曜日
2011年2月19日土曜日
五十嵐砥?と神前産巣板二種でハイス全鋼鉋身を研ぐ
今回手に入れた五十嵐砥と思われる砥石で
硬めで緻密な砥石なので
#400のダイヤモンド砥石で目起こしを
行ってから研ぎ始めました
強靭な鋼なので
中砥でも深い傷が付かず
荒い仕事ならばこのまま使えます
次に仕上砥として
京都新田産巣板で研いでみました
良く反応し、強い研磨力があります
一般的な鋼の鉋身では
このように激しく反応することはありません
このように激しく反応することはありません
次に、同じく新田産の硬めの巣板で
良く反応し、強い研磨力を発揮します
炭素鋼など一般的な鋼の鉋身でしたら
ほぼ鏡面に仕上がる砥石です
このハイス全鋼の鉋は
中国で作られたものを
ドイツのDICTUMというサプライヤーが
販売しているものですが、たいへん強靭な鋼で
手持ちのハイス鉋のなかでは最も永切れします
国産のハイス鉋も昔のものには
これに匹敵する永切れのものがあったのですが
最近手に入れたものは鋼に強靭さがなく永切れしません
その分、研ぎ易くはあるのですが
これではハイス鉋を使う意味がない
ということになってしまいます
これは何とかしてほしいものです
2011年2月18日金曜日
製作中のギター ブリッジの接着
産地不明の天然中砥を
手に入れたのですが
これがなかなか良いのです
会津砥なのか五十嵐砥なのか
判然としないところでありますが
会津砥にしては粒度が細かく
おそらく五十嵐砥と思われるのですが・・
緻密な砥当たりで、反応は悪くありません
ハイス鋼の刃物にもよく反応してくれるので
製作中の19世紀ギターのブリッジを作る際に
使う刃物をこの砥石で研いでみました
硬くガンコな黒檀材なので
刃物はすべてハイス鋼のものを使いました
(右から二番目の浅い四方反り鉋と
左端の刃幅1,5mmのノミは炭素鋼です)
左端の刃幅1,5mmのノミは炭素鋼です)
研ぎの動画をUPしております
接着されたブリッジ
こちらは特注ミルクール・タイプ
そしてこちらは
特注ラコート・タイプ
2011年2月15日火曜日
七十一番職人歌合から
「平田家文書 その7」で紹介した
菱川師宣の職人図の「研ぎ」図の
古典籍総合データベースの資料(参照)では
説明文の一行目最後の二文字が
「ちち」としか読めないと指摘しましたが
(赤線で囲った字)
室町時代の「七十一番職人歌合」の
同じ図では「ちと(少しの意)」となっています
そうすると「ちと押さばや」となり
これだと意味が成り立ちますね
それから、「ちと」の前の字は
師宣の図では「今」となっていますが
この図では「と」です
今という字も崩せば「と」によく似た
ものになりますが、上の図は明らかに
「と」の字だと思われるのです
しかしながら
「おもき」で改行されているので
文頭に「と」がくると意味を成しません
そうすると、この文は
「先が重きと ちと押さばや」とするよりは
「先が重き 今ちと押さばや」
の方が意味は分かりやすいですね
版木を彫った職人のミスなのでしょうか・・
これは「七十一番職人歌合」の
「貝すり(貝磨り)」図ですが
岩波書店の解説本では、「ばくたい」を莫大とし
「べき(べし・の連体形)」を予定の意味として
「たくさんの貝が必要だろう」と解釈しています
「白かねさいく・白銀細工」図の
「なんりやう」は
源 信正氏のご指摘のとうり南鐐(なんりょう)
とされています
意味は「美しい銀、良質の銀」
2011年2月14日月曜日
灯台下暗し 「七十一番職人歌合」
12日のコメントの続き・・
判読できなかった文字二つを調べていて
ふと思い出したのですが
HPの「天然砥石について」でも
研ぎの職人図を紹介していたのでした
これがそうですが
これは室町時代後期の明応九年(1500年)頃に
成立したとされる「七十一番職人歌合」です
絵師は土佐光信
私が持っているのは岩波書店から出ている
解説本で、原文は載せられていないのですが
歌の内容は「和国諸職絵つくし」とほぼ同じなのです
この本のことは全く忘れていて、迂闊でした・・
これで原文が解読できます 大変ありがたい
ということで、読めなかった字を照合してみました
コメントでは
「左歌五文字かな はず〇ゆみねの あひしらひ
あらまほしくや
右はあらうるしの はけめあはぬを
むら雲にたとへたる〇
左右共にさしてもきこへす 持にて侍るへし(引き分け)」
としましたが、左歌の評は
「左歌 五文字かなはず聞ゆ
峰のあひしらひ あらまほしくや」
右の歌の評と判定は
「右は荒漆の刷毛目合はぬを
叢雲にたとへたる歟(か)
左右 共にさしても聞こえず 持にて侍るべし」
ということは最初の〇は
「聞」という字で、次の〇は「歟(か)」でした
参考までに
手許にある「くずし字用例辞典」(東京堂出版)の
「聞」と「歟(か)」を挙げておきます
2011年2月12日土曜日
平田家文書 その7
伊賀守金道から受領をもらった刀工は、輝かしい勲章をもらったようなものですから、そのことは早速出来上がった刀の中心(茎・なかご)に銘として切られ、また広告の文句に由緒書として載せ、恩恵は少なくなかったようです。
このように伊賀守金道は鍛冶職人の頂点に立ち、絶大な権力を持っていたわけですが、この権力に逆らう者が登場するのも歴史の必然なのでしょうか。
興味深いことに、この反逆者が平田家文書に登場する、清水平兵衛なのです。天明五年(1785年)に伊賀守金道から門人たちに出された通達には
「近来、京都に於いて清水平兵衛と申され候者、御公儀御用の儀申し立て、運上銀の儀願い上げ、鍛冶一統出銀致し候へども、御即位御用並(ならび)に日本鍛冶宗匠御免許の旨申し立て、此の方弟子の分は残らず、出銀御免除これ有り候。尤も此の方諸役御免徐の御牌、頂戴仕り候。」
とあり、清水平兵衛が幕府御用を承ったと云って、京都の鍛冶職人から運上金を徴収し始めたことが伺えるのです。これに対し、金道は、日本鍛冶宗匠(二代目金道は惣匠という字を当てていますが、三代目以降は宗匠の字を当てています)の免許を持っていると言って、清水平兵衛に運上金を払うことを断ってもよいと京都の門人に通達しているのです。
平田家文書によると、農具鍛冶触頭として文書に登場する清水平兵衛は、業者から借財をし家を新築したりしているのです。また、金物類(とくに銅)を商った余剰の利潤を業者と分け合う契約を結んだ廉で、職を免ぜられたりしています。つまり汚職に手を染めていた。
伊賀守金道はそういった事情を知っていたのでしょうか・・
前回に引き続き、貞享二年(1685年)に出版された
菱川師宣による「和国諸職絵つくし」(参照)から
「とぎ・研ぎ」の図を紹介しておきます
見えている説明には
「さきがおもき今 ちかおさばや
ぬしにとひ申さん はばやさは
いかに手をきるぞ」
でしょうか・・?自信がありません
「先が重き今 近押さばや
主に問ひ申さん 刃早には
いかに手を切るぞ」
とでもなるのでしょうか、これも自信がありません。
意味不明ですね・・
いま(2月13日)気が付いたのですが
リンクさせてもらった
古典籍総合データベースの資料では
一行目下から二字目「ち」の次の字が「か」とは読めませんね
これでは「ちち」くらいにしか読めないのですが・・
版木に欠けでもあったのでしょうか・・
それから、四行目は「はばやさ」で
先に挙げた私が持っている復刻版のものとは
「さ」の字が違っています
私の手許のものもよく見ると「さ」のようですが
一見「に」に見えたので最初は「に」かなと
思ったのですが、これはやはり「さ」でしょうね
そうすると「はばやには」でななく
「はばやさは」 「刃早さは」となります
こちらは「白かねさいく」 「白金細工」
説明は
「なんりやうのやうなる かねかな」
「何両のやうなる金かな」
でしょうか、これも自信がありません・・
2011年2月11日金曜日
夏屋砥と沼田砥で薄ノミを研ぐ
先日入手し、鉋研ぎの動画をUPした
これが頗る具合がいいのです
ということで、薄ノミ研ぎの動画をUPしました
まず荒目の中砥である夏屋砥
硬めにもかかわらず、良く反応し
適度な滑走感があり、たいへん研ぎやすい砥石です
人造中砥はよく反応するのですが
滑走感がないので、刃先を研ぐのが難しいのです
人造中砥はよく反応するのですが
滑走感がないので、刃先を研ぐのが難しいのです
硬めの天然中砥で、ここまで鑿(ノミ)に良く反応するものは
これまでお目にかかったことがありません
2011年2月10日木曜日
平田家文書 その6
「平田家文書 その1」で少し述べたように、一般の鍛冶職人は刀鍛冶への憧れがあったようで、農具鍛冶職人が京都の刀工である伊賀守金道(いがのかみ きんみち・かねみち)に入門した記録が平田家文書でも見ることができます。
初代伊賀守金道は江戸時代初めの刀工で、徳川家康の命令で百日で千振りの陣太刀を打ち、この陣太刀は大阪冬の陣・夏の陣(参照)で使われたということです。もっとも百日で千振りの刀を打つということは、弟子を使ったとしても金道一人でできることではなく、京都や諸国の手の利いた刀工を門人ということにして手伝わせてもよい、という許可を得て何とか成し遂げたようです。
その功績により家康は朝廷に申請して、金道に「永代日本鍛冶惣匠」という称号を与え、加えて幕府から三人扶持(ふち)を与えたということですが、その結果、伊賀守金道は全国の鍛冶の頂点に立つことになるわけです。
三人扶持は役人の報酬としては低い方ですが、刀鍛冶の地位はもともと低かったようで、三人扶持を頂くということは刀工としては名誉なことだったようです。
たとえば、「その3」で紹介した津山藩工の多田金利の日記では、藩の要人からの注文で相州伝の刀を打ったことが記されていますが、その注文は中間頭(ちゅうげんかしら)を通してのものだったということが記され、出来上がったことを「中間頭に申し達す」と記しています。つまり金利の立場は、足軽よりも下の位である中間よりも低かったということになります。
それに比べると、伊賀守金道は、将軍家康から名誉を受けているので格別ということになります。
金道はその後、刀工の箔とも云える「守・かみ」 「介・すけ」 「掾・じょう」 「目・さかん」といった、官位の受領を朝廷へ申請する手続を行う役を授かることになります。
菱川師宣の「和国諸職人絵つくし(歌合)」より
「かぢ師・鍛冶師」の図(参照)
江戸時代初めの貞享二年(1685年)に出版されたもの
江戸時代初めの貞享二年(1685年)に出版されたもの
同じく「かいすり・貝磨り」の図
見えている説明文は
この太刀の さやは ばくたいの かいが入べき
この太刀の 鞘はバクタイの貝が入べき
バクタイとは貝の種類でしょうか・・・不明
絵の脇にはアワビ貝のようなものが見えますが・・
絵の脇にはアワビ貝のようなものが見えますが・・
2011年2月9日水曜日
人造中名倉砥と梅ケ畑内曇砥
You Tube 動画にUPした砥石を
紹介しておきます
これは刀剣研磨用の
人造中名倉の#2000
人造中名倉はいくつかの種類が
ありますが、これまで使ったなかでは
最も気に入っているものです
これまで日本刀研ぎのための
人造中名倉をいろいろ試してきましたが
鉋など木工用の刃物を研ぐには
どれも柔らかすぎて、使いにくかったのですが
これは硬めで反応もよく、充分使えます
使い初めは表面の艶で滑って研ぎ難いですが
使い始める前に表面を磨れば
すぐにこの砥石本来の反応が得られます
商品名は「京東山」
ネット・ショップでも売られています
刀剣用砥石としては驚くほど安価です・・
研ぎ傷が浅く
次は仕上研ぎが行えます
これは三河産(愛知県)の白名倉
この砥石山も今では掘られておらず
入手が困難な砥石になってしまいました
砥面右側の針気がやや当たりますが
悪影響には及びません
これは仕上砥の天井巣板(内曇砥)
京都梅ケ畑の大突(おおつく)から菖蒲(しょうぶ)に
かけての間府で採掘されたものだそうです
この間府の天井巣板も珍しいものです
しっとりとした研ぎ感で
心地よく研ぐことができます
そして最終仕上として使った砥石
産地は不明ですが
たいへん硬いにもかかわらず
良く反応し、強い研磨力があります
今ではこういった砥石には
めったにお目にかかることができません
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