「平田家文書 その1」で少し述べたように、一般の鍛冶職人は刀鍛冶への憧れがあったようで、農具鍛冶職人が京都の刀工である伊賀守金道(いがのかみ きんみち・かねみち)に入門した記録が平田家文書でも見ることができます。
初代伊賀守金道は江戸時代初めの刀工で、徳川家康の命令で百日で千振りの陣太刀を打ち、この陣太刀は大阪冬の陣・夏の陣(参照)で使われたということです。もっとも百日で千振りの刀を打つということは、弟子を使ったとしても金道一人でできることではなく、京都や諸国の手の利いた刀工を門人ということにして手伝わせてもよい、という許可を得て何とか成し遂げたようです。
その功績により家康は朝廷に申請して、金道に「永代日本鍛冶惣匠」という称号を与え、加えて幕府から三人扶持(ふち)を与えたということですが、その結果、伊賀守金道は全国の鍛冶の頂点に立つことになるわけです。
三人扶持は役人の報酬としては低い方ですが、刀鍛冶の地位はもともと低かったようで、三人扶持を頂くということは刀工としては名誉なことだったようです。
たとえば、「その3」で紹介した津山藩工の多田金利の日記では、藩の要人からの注文で相州伝の刀を打ったことが記されていますが、その注文は中間頭(ちゅうげんかしら)を通してのものだったということが記され、出来上がったことを「中間頭に申し達す」と記しています。つまり金利の立場は、足軽よりも下の位である中間よりも低かったということになります。
それに比べると、伊賀守金道は、将軍家康から名誉を受けているので格別ということになります。
金道はその後、刀工の箔とも云える「守・かみ」 「介・すけ」 「掾・じょう」 「目・さかん」といった、官位の受領を朝廷へ申請する手続を行う役を授かることになります。
菱川師宣の「和国諸職人絵つくし(歌合)」より
「かぢ師・鍛冶師」の図(参照)
江戸時代初めの貞享二年(1685年)に出版されたもの
江戸時代初めの貞享二年(1685年)に出版されたもの
同じく「かいすり・貝磨り」の図
見えている説明文は
この太刀の さやは ばくたいの かいが入べき
この太刀の 鞘はバクタイの貝が入べき
バクタイとは貝の種類でしょうか・・・不明
絵の脇にはアワビ貝のようなものが見えますが・・
絵の脇にはアワビ貝のようなものが見えますが・・
2 件のコメント:
ばくたいの かいが入るべき
螺鈿には薄貝が使われます。
鞘の漆塗りの際に螺鈿加工し薄貝・・・ばくたい・・・ではなく・・・はくたい(薄体)・・・ではなかろうか
源 信正
ありがとうございます。
「薄体」考えられますね。
「薄」を呉音ではバクと発音するようですから。
もう一つは「膜」もバクと読めますから
膜状の薄い貝というのも考えらそうです。
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