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2025年8月14日木曜日

「竃稲荷の猫」と三味線


佐伯泰英氏の小説
「竃稲荷の猫」は三味線製作が
題材となっている
内容がどこまで史実を
反映させてあるのか
気になったので、「三味線音楽史」
を眺めていたら
元禄年間(江戸時代中頃)に
出された「女重宝記」のなかで
説明されている三味線各部の名称
に間違いがあると書かれていた
手許にある女重宝記を
見てみたら
確かにそのとおりだったが
これは言われてみなければ
気が付かない

赤線で囲んだところが間違い
白字は読み下し

訂正した状態

三味線の説明は
「三味線はりうきう(琉球)国
よりわが国にわたりたれ共
その音淫乱にして
楽器にいらず遊女のわざ
となれり ゆめゆめ
引(弾き)ならひ給ふべからず
され共其所々の名は
おぼへ給ふべし」
云々

ネット上で紹介されている
版が違うもの
「三味線はりうきう国の
うつはをうつしたれ共
その音淫乱にして
楽器に入(い)らず 遊女の
わざとなれり
引ならひ給ふに及ず
され共其所々の名は
おぼへ給ふべし」
云々

こちらは
和漢三才図会の
三味線の説明
「五雑組に云う 三絃は常に
簫合せて之を鼓す
然して多くは淫哇の調にて
倡優の習ふ所耳夫子の謂く
鄭声は淫なり 淫とは靡なり 
巧なり 淫慾の淫に非 (あらず)
言心は楽にして度過に也
艶にして実無き也」
△「桉ずるに其絃三つ故に
三線と名づく 琉球国好て
之を多用す 然ども楽器
為ざるを 婦女里子(さとのす)
等毎に之を鼓(ひき)て遊舞す
其皮に蛇皮を用す
焉(これ)本朝にも亦嬉戯
必用の物と為す
其、棹は花梨木を以て
上の如く為す
鉄刀木(タガヤサン)紫檀最も
橒(きさ:杢のこと)の美を愛す
桑木之に次ぐ 櫧(かし:樫) 木
を下品と為す 其皮皆
猫の革を以て 八乳の者を
良と為す」
間違いなどありましたら
ご教示願います

2025年8月6日水曜日

和布刈神事と出エジプト記

 

これは旧約聖書の
出エジプト記の有名な場面
モーゼがイスラエルの民を率い
エジプトから脱出するため
紅海を二つに裂いて
海底を現した状況の想像図

同じような海を裂く話は
能の和布刈mekari にも
あるのが興味深い
この絵はチャットGPTさんが
描いてくれたもの
和布meはワカメのこと
ワカメは漢字で和布とも表記
されている
また、現在も和布刈神社
神事としても行われている

北九州市門司にある
和布刈神社からの
関門海峡の眺め

能の和布刈のあらすじ

能の謡本から
海が二つに裂ける様子の
記述
ちょうどこれを書いている時
ここ丹波篠山では
久しぶりに雨が降ってきた
恵みの雨
龍神様が感応してくれたのか
・・・
ありがたい
「め(この1字は前ページ)かり時
いたり、虎嘯くやかぜ
はやともの  竜吟ずれば
雲起り 雨となり 潮も光り
鳴動して 沖より龍神あらはれ
たり 龍神すなはち現れて
龍神すなはち現れて
和布刈の所の水底を
うがち」

はらふや潮瀬に
こゆるぎのいそ菜つむ
めさしぬらすな沖に折浪
沖にをれ浪といふ
汐をしりぞけ屏風を
たてたるごとくにわかれて
海底のいさごは平々たり
神ぬしたいまつふり

立て 神ぬしたいまつふりたて
御鎌をもつて岩間をつたひ
伝ひくだつて半町ばかりの
海底のめを刈かへり給へば
程なく跡にしほさし満て
もとのごとく荒海となつて
波白妙のわだづみ和田の原

同様のことは他にもあり
日本各地にある蘇民将来伝説は
旧約聖書の出エジプト記の
過ぎ越しの祭りと内容が
よく似ています

蘇民将来

過ぎ越しの祭り

2025年7月14日月曜日

謎に満ちた本能寺の変

 

織田信長が京都の本能寺で
明智光秀によって
暗殺されたとされる本能寺の変
このことについては
様々な歴史家さんたちによって
書かれてきているのは
皆様ご承知のとおり
当時の明智光秀の行動から
主犯は光秀ではない
とか、信長の遺体は
見つかっていない、とか
いや、遺体は発見されていて
首塚まである、とか・・
ところが上の画像の本の中の
「不可思議な国ジャポネ」
(1984年出版) では
当時のイエズス会の資料が
紹介されているのです
著者はポルトガル
コインブラ大学の歴史学者
オラロ•ケント女史

その一つでは
「テンカとよばれていた日本の
ノブナガがキョウ(京都)で
爆死をとげた事に関しては・・云々」
とあります
そして、このことについては
何人(なんぴと)の口をも
封じねばならなぬ
とも書かれてあるのです
これは第一級の資料と
言えるのではないでしょうか
当時、本能寺のすぐ近くには
イエズス会の教会があったので
そこで爆発音を
聞いた人もいたことは
想像に難くありません


本能寺図(信長墳も見える)
本能寺は信長の時代には
信長によって要塞化され
洛中における武器・弾薬庫にも
なっていたのは周知の事実です

本能寺の近くにあったとされる
イエズス会の三階建て教会図
三階建てなので近くにある
本能寺が丸見えになるのは遺憾
庇を設置せよ、と信長側は
クレームを付けたようです

京都にも居たことのある
ポルトガル人宣教師フロイスは
著書「日本史」では
信長の死に関しては
「毛髪一本残すことなく
灰燼に帰した」と記しているが
爆死とは書かれてはいない
これは、先に紹介したように
「このことについては
何人(なんぴと)の口をも
封じねばならなぬ」
ということの影響と
捉えることもできます

浮世博史氏の著書
「さらにくつがえされた
戦国・安土桃山・江戸史」の一部
他の歴史家の著書では
本能寺が爆発炎上した、ということは
書かれていませんが
浮世博史は「本能寺は単に焼失
したのではなく
中にあった弾薬に引火して
爆発・炎上したと考えるのも
おもしろいかもしれません」
と控えめに書かれています
光秀については
本能寺襲撃のときには
京都鳥羽にいた
という資料(乙夜之書物)もあり
また、光秀が本能寺に姿を
現したのは変の後
午前9時頃だったと書かれた
資料(川角太閤記)もあるようです
ということは
主犯は光秀ではない
ということが濃厚となります
それが誰かということも
歴史家さんたちにより
様々に推測されています

2025年6月11日水曜日

オイル漬け牛骨 そして宗像大社神宝

 

2年ほど煮アマニ油に
漬けておいた牛骨


取り出して1年ほど
乾燥させる
煮アマニ油なので
完全に乾くと接着できる

これは以前作ったものを
ヴィンテージマンドリンの
ナットに加工したもの

そして同じ楽器の
ブリッジサドルに
接着したもの

これは1994年に
接着実験したテストピース
30年経っても
まだまだしっかり
接着されている

話題は変わって
これは2020年に出版された
「神々への美宝」という本
福岡県北部に鎮座する
宗像大社の神宝館に
展示されている8万点の
神宝のなかから100点ほどが
カラー写真で紹介されている
勾玉などの石製品の
表面の質感が手に取るように
観察できるのは驚き

碧玉勾玉

硬玉勾玉

メノウ勾玉

硬玉(ヒスイ)勾玉

碧玉管玉

これらは別の本から
硬玉製勾玉


すごい形


メキシコ出土の
ヒスイ製品

これもメキシコ出土の
翡翠装飾品
日本の勾玉に似ている

メキシコ独特のヒスイ人面像

2025年5月28日水曜日

ナマズ石に付いて 忘備録

 

15年ほど前にHPで紹介した
兵庫県の六甲山ナマズ石
長さ8.6m、幅6.9m、
厚さ(文字が書かれてある面)4.1m、重さ推定500トン
文字を近くで見ると
石膏のようなものを塗りつけて
書かれてありました
古さがどれくらいなのかは
観察だけでは
何とも云えませんが
直感としてはかなり古いものと
思われます

近くで見るとこんな感じです
白い線はかなりしっかりと
定着しています
古墳の壁画のように
密閉された空間にあるもの
でしたら、1500年以上の
時間の経過の後でも残っている
可能性はあるでしょうが
こうして露出している状態
だったら、それほど長くは
残らないのではないでしょうか
ですから、この岩が1995年の
大地震以前、どういう状態で
あったのか知りたいところです
もし、巷間で云われている
ように、弥生時代のもの
だとすれば、地震で
落下するまでは、比較的
外気に触れにくい状態で
あったものと想像できます
たとえば、以前紹介した
福岡県北部の亀山古墳の
石棺内部の朱も
古墳が整備されて、石棺内部が 露出し雨ざらしの状態に
なってからは、数年で
剥落していっているようです
六甲山の「ナマズ石」は
文字が書かれてある面が
立っているので
雨が直接あたることは
なさそうですが、1995年当時と
2000年頃の写真、そして
今の状態を比べてみると
やはり劣化はかなり進んでいる
ような気がします
この文字については
川崎真治氏が詳しく
研究されていて、同じものが
日本各地の他、中国、韓国で
確認されているのだそうです
川崎氏によると、この文字は
風神・エンリルを祭る司祭を
意味するものだということです
ですから、この画像の
曲線で描かれている左側に
薄く見える縦の直線も一つの
文字を構成している
偏のようなもののようです

風神エンリルには
暗喩名があるということで
それは50だそうです

◯が五つで50なのでしょうか

これは神、あるいは天を
意味する文字だということです

これは神奈川県の
比々多神社境内にある
縄文晩期とされる線刻石の
文字だということですが
上の文字によく似ています
これに書かれてある片仮名の「ト」
のような文字は上のナマズ石にも
確認されますが
これはシュメール語で
「メ・祈る」、あるいは
「シブ・巫師」の意味が
あるそうです。これらと同様の
文字が書かれた岩は
日本各地で確認されています

2025年5月22日木曜日

クーデンホーフ光子伝 そしてルノワールの追憶


画家 梅原龍三郎の著書
「ルノワールの追憶」


昭和19年という
戦争大詰めのときに
このような本が出版されて
いたことに驚かされる
そのなかの一節
フランス留学中の梅原龍三郎が
ルノワールの写生に
付いて行ったときのこと
近くの食事処に肉を届けた
肉屋の配達人の子供が
梅原龍三郎と
すれ違ったときの一言
「きついジジィが溶けかかった
ボンボンの様な画を描いてい
居やがる」
これ以上ない率直さと
的を射た批評

ルノワールの風景画

梅原龍三郎の風景画

赤富士


明治時代初め
オーストリア・ハンガリー帝国の
貴族ハインリヒ・クーデンホーフ
伯爵の妻となった
クーデンホーフ光子
旧姓名 青山みつ 
1874年〜1941年
について書かれてある
「グーデンホーフ光子伝」に
目を通していたら
興味深い記述があった

明治6年(1873年)に開催された
ウィーン万博での日本館では
庭園に神社も建てられた
そうだが、その工事の様子を
エリザベト皇后が女官を従えて
見学に訪れた際
大工が鉋がけをしているところに
興味を示し、長い鉋屑を
所望し持ち帰ったという

ウィーン万博の日本庭園の様子

2022年出版の本

日本の展示物
生糸、山繭生糸、織物類、
縫箔物、組物、漆器、磁器、
銅器、玉台、七宝、竹器、
藤細工、 象牙細工、鼈甲細工、
鯨骨細工、革、革細工、
水晶細工、瑪瑙緒〆類色々、 
彫刻物、画、団扇、紙類、蠟、
鉱物、宝石化石類、動物、植物、
巨大物(金鯱、鎌倉大仏紙ノ張抜、東京谷中天王寺五重塔雛形、
大太鼓、大挑灯)」等

日本館の工事の様子が
上に紹介した
大工の鉋がけの様子は
画像が見当たりませんが

1876年の
フィラデルフィア万博の
日本庭園の様子には
大工の鉋がけの画像が
残されています