褐鉄鉱を用いた製錬から砂鉄を用いる製錬をもたらしたとする説や、
焼き入れ技術を持っていたとする説などがあります。
褐鉄鉱を用いた製鉄が原始的で、砂鉄を用いた製鉄が新しいとする説の
根拠となっている、科学的な分析に疑問を投げかけてもいます。
鍛冶の名工である卓素(たくそ)は、銑鉄(ずくてつ)を鋼にする
左下法(さげほう)という技術をもたらしたとされていますが、
もしかして、この技術をもたらしたのが
アメノヒボコだったのかもしれません(参照)。

19日に述べたように、「古代の製鉄」の著者の山本博氏は竜田神社の社伝に疑問を投じ、社伝にある「風神はもと竜田山(大阪府側)の御座峰に 降臨し、のち崇神天皇の時代に現在地(奈良県側)に勧請した」というのは間違いであるとしていますが、私は社伝のとうり、崇神朝の可能性もあると思います。崇神天皇の時代に三種の神器の分身が作られているのは、その証拠となるのではないでしょうか。因みにその分身の剣は平家が滅亡した壇ノ浦の合戦の際に水没したとされています。
崇神天皇はニギハヤヒと強い繋がりがあり、崇神天皇本人ではないかという説までありますが、鹿島曻説のように、ニギハヤヒは襲名であるということも充分考えられそうです。ニギハヤヒは製鉄技術を持った集団で、日本にその技術をもたらしたことは疑いがないようですが、ニギハヤヒが卑弥呼と同様古事記・日本書紀からは抹殺されているというのも、その事と関連しているのかもしれません。ですから、「古代の製鉄」の著者が述べていることと関連して、日本書紀は天武天皇の都合のよいように捏造された歴史書とも言えるわけです。その際に、時の権力者にとって都合の悪い卑弥呼やニギヤハヒは抹殺する必要があった。 また、古事記や日本書紀に登場はしていても、邪魔者扱いにされている人物としては、サルタヒコやアメノヒボコがいます。サルタヒコとアメノヒボコも製鉄技術を日本にもたらした集団であったということも、ほぼ間違いないようです。