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2023年1月3日火曜日

匠家必用記 上巻から四章番匠道具始の弁 読み下し

 

匠家必用記 上巻四章の
読み下しを紹介しておきます
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ご教示願います
四 番匠道具始の弁

俗説に天竺祇園精舎を造る時仏菩薩の手足変して鑿、錐、鉋と也、番匠の道具是より始ると云。又曰、天竺曼荼羅太子鍛冶をこのみ、始て

番匠の具を製(つく)る、是広目天の分身也と。又、番匠の道具はことごとく仏菩薩作り給ふ所にして、天より降ると云。又、一書に聖徳太子鍛冶をあらはし始て番匠の具を製り給ふ。故に諸職の元祖也。また曰、天竺摩訶鈮羅太子は大工の元祖也。鑿、鋸、は文殊師利菩薩、観世音菩薩の法門の身。釿は釈迦牟尼仏、羯摩の形。槌は金剛界顕天目の功。釘は不動明王邪正如の儀曲。尺は大日如来の徳と云。又、一説に聖徳太子始て曲尺を製り給ふと云。此外説々多し。今按るに右の説各用べからず。天竺の事は日本の事に非る故紙墨のつたへ論ずるに及ばずといへども、番匠の道具は天竺より渡りて日本に此始りなきやうにおもへるは甚愚の至也。忝(かたじけなく)も日本神代に天目一箇命と申奉る神ましまし始て諸の刃物を工(たく)み鋳(いだし)給ひ番匠の神にあたへ給ふ。

古語拾遺に曰、天目一箇命合わせて雑力(刀)、斧、鉄鐸(くさぐさのトシ、オノ、サナキをば木こつる木オノ、マサリ、ノミ、キリ、ノコギリ、カンナ、コガタナのたぐいをいう)を作る。神代の巻にも天目一箇命作金物為すといへり。此御神徳以て今、鍛冶の祖神と祭る。是神代より日本に番匠の道具あるの証拠也。神書を見て知るべし。然に番匠の道具はみな仏菩薩のつくり始給ふと云事は例の仏者が偽言。動(ややも)すれば天竺の事を引出して日本の事とし、人を惑するもの也。天竺国にて天竺の人が言ば有まじ。日本神国にては無用の沙汰也。又、番匠の道具は仏菩薩作にて天よりふるといふ説是又仏者の妄言なるべし。天に鍛冶はあらず、人の工也。待ちて後に成ものなれば、雨露霜雪のごとく天よりふるものにはあらず。又、曲尺は聖徳太子の製り始給ふといふ事しゃうし(正史)

じつろく(実録)に拠なり。尺の始りは神代のたか斗(たかばかり)より出て尺に写し今に相伝へ谷氏曰内外宮内裏の間架を定る皆俗名の曲尺にて極めたるものにはあらず。皆たかばかりより出たりと世俗木綿四尺を一尋す。これを手尋といふ。一端(たん)を二丈六尺、或は二丈八尺とするも此根元はみなタカバカリより出たり。曲尺その始め詳ならず。中古よりの製なるべし。うらの目は後人の作にてさんぼう(算法)のこうこうげん(勾股弦)を曲尺にうつしたるもの也。そうじて尺のちゃうたんは唐にほん相違有てやう(一様)ならず。或は自然と合するも有べし。近世高田玄柳曰、聖徳太子の時いこくの番匠曲尺を持来る。今大和国法隆寺の什物となりぬ。日本の曲尺に歩

半ほど長しと是を以て日本の曲尺と長短ある事を知るべし。此事を以て曲尺は聖徳太子の作り給ふとあやまるもの成べし。又聖徳太子鍛冶をあらわし始て番匠の道具を製り給ひし事、いまだ其拠をしらず。実に始て番匠の道具を作り給ふといはば是より已前の番匠は何を以ての家を造らん。是を以て番匠の道具は聖徳太子の造り給はざる事をすいりゃうすべし。又道具をあらわし給ふ故に諸職の元祖といふも仏者のもうけん(妄言)なるべし。諸職人元祖にして仰貴は聖徳太子は迷惑也べし。是俗にいふ贔屓の引倒也。一向其理にあたらずざれば、今番匠の家に伝へ来れる一巻有。此書を番匠の始りの證とし、其秘

蔵してみだりに他見をゆるさず、予(あらかじめ)是を見るに僧の述作とみへて、さまざまの偽言(たわごと)有。多は天竺事を挙て日本の事と混雑す。見る人其邪正を改るちからなく、これを実とおもうから日本番匠の始をもとり失ひ、或は番匠の道具も皆唐天竺より始と思ひ、或は天竺おもこくう(虚空)の事とおもへるは諒に大愚といふべし。早くあやまちを改、俗説をはいして正説を求べし。

2023年1月2日月曜日

匠家必用記上巻三章読み下し

 

匠家必用記 上巻から三章の
読み下しを紹介しておきます
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三 聖徳太子は番匠の祖神に在ら非る弁

天王寺の説、俗説に曰、聖徳太子始て天王寺を建立し給ふ。これ日本寺建立の始也と、又太子もろこし(唐)へ渡りてばんじゃうの道をならひ得給ひ。帰朝の後日本のばんじゃうに此事を伝へ給ふ。依之(これによりて)番匠の祖神也。故に祭には仏教を誦(となえ)、魚類(肉食)を禁ずと云。今按ずるに天王寺は寺の始に非ず。日本記及諸

書を考るに聖徳太子は人王三十一代敏達天王の御宇二年正月に誕生し給ふ(聖徳太子は用明天王の皇子也。天王御即位なき内に誕生し給ふて、本の名を厩戸の皇子といへり。聖徳太子と云は諡号なるべし。然ども世俗厩戸皇子といふ名を知らざる人多き故、しばらく俗習に随ひ聖徳太子と記するのみ。下皆倣下)。其後三十二代用明天皇の御宇二年に聖徳太子摂州玉造りの岸の上(ほとり)に四天王寺を建立し給ふ(此年より七年後推古天皇の御宇元年今の荒陵山にうつす)是より以前寺建立の始有。故に王代一覧に曰、欽明天皇治世の十三年に当りて石州国より使者を献し、釈迦仏の像並仏教をたてまつる。大臣稲目是を拝し給へと帝すすめ奉。物部尾輿申ける、我朝神国なれば天皇の拝し給ふ神多し、いかでか異国の神を拝せんや、恐らくは本朝の神の怒を致給はん。これに仍り天皇拝し給はず。其像を大臣稲目

に給はる。稲目悦んで拝受す。則ち家を捨て寺とし、両原寺号て彼仏像を安置す。これ日本之仏法渡るの最初。また伽藍を造立の始なりと云々(日本記にも又同意)。寺嶋氏曰欽明天皇十三年始建両原寺今有河内国古市郡西林寺是也。乃本朝寺院の始也云々。是天王寺より三十五年以前寺建立のはじめ。如此(このごとく)日本記に敏達天王六年冬十一月庚牛(かのえうし)の朔日百済国王府付還使大別王等献経論若干巻並律師比丘尼禅師呪禁師仏造工寺造工六人、遂安置難波大別王寺云々。是天王寺建立より十年已前之事也。其時已(すで)に大別王寺あり時は是より已前の建立とみへたり。其比(ころ)聖徳太子五歳にならせ給ふ。また日本記に敏達天王十三歳、

馬子猶仏法に依て三尼を崇敬、三尼は氷田直与達等に付、衣食経を合供、石川宅に於仏殿を建、仏殿を作終。各下此二ケ寺は天王寺より三年以前に建立有。又日本記に天王寺と同時に馬子宿根飛鳥の真神の原に法興寺を建立し又南渕に坂田寺を造ること有。このころ聖徳太子十五歳也。彼天王寺建立の年より三十五歳已前両原寺を建立ありし時は聖徳太子いまだ生れ給はず。かくのごとく天皇子以前寺建立のはじめあらば俗説の相違せる事をしるべし。又聖徳太子唐土へ渡りて番匠の道を習ひ得給ひ、帰朝の後日本の番匠に此術を伝へ給ふこと正史実録に写て見へず。実に此ことあらば日本記にのせざらんや。其證なきを以て偽なる事を知るべし。(日本記曰崇峻天皇元年に善伝と尼受戒学問のため石州国へ渡り同三年三月に帰朝す。是等のあやまり聖徳太子の事とせるにや。)

又聖徳太子を番匠の祖神といふ事非の上に略(ほぼ)知るすごとく日本神代に番匠の祖神ましますなり。聖徳太子自番匠の業(わざ)をし給ふことを聞ず、たまたま四天王寺を建立したもふといへども番匠の祖神といふ事写て其理なし。実に祖神と敬ひ奉るは天地開闢することひとしく始て此道を起し給ふ故に祖神を申奉る。惣じて祖神の祖にていふ文字は事の始といふ意有。此本鋳物師の祖神、鍛冶の祖神、医の祖神等も日本にて其ことを始給ふ故に祖の一字を於てあがめ奉る也。まづそのことごと番匠の祖神も其道を興し給ひて御子孫に伝え給ひ。又人より人に伝へて、今此職をつとむるはこれ職神の残る教え也。今より前へくり戻して祖神の教へなる事を明らむべし。此道り(理)をよく考ふべし。夫寺を建立し給ふによって太子を番匠の祖神といふ

ならば、太子より六百余年已前垂仁天皇の皇女大倭姫命は伊勢大神宮及国々取々に宮を建立し給ふ。是はいかが申上きや。日本番匠の祖神は神代の事なれば、何万歳已前と給ふ事もはかりがたし。多く年数の明かなる神武天皇御即位のとき、大和橿原に内裏を建立し給ふに番匠の祖神の孫に命のり(みことのり)して送らしめ給ふことを考るに、宝暦四年に至り二千四百十四年なり。太子は漸千百余年也。なんぞや後代の太子を番匠の祖神とうやまうときは是より已前の人々は家もなく野にふし、山にふしたるや。かくのごときの事は書をよみ学文したる人はよくしりたる事なれども番匠は家業にいとまなく、学文し難故に俗説混して(まこと)の祖神を取違たる者也。此道理をよく合点して

俗説の誤を知るべし。又祖神たるに依る忌日を祭り仏教をよみ、魚類を禁じ精進する事聖徳太子を祭らば佐も有べし。番匠の祖神を祭るといへば神事也。神事にはかへって魚類を献じ仏教は大に忌ことなり。其故は伊勢大神宮の忌詞に経を染紙と云寺を瓦ふきと唱へて白地(あからさま)にはいわずに予とふに中比売僧癖に己が法を弘めんとて種々の弁舌をふるわし、妖怪を談(かたっ)て人を惑す事は野狐よりも勝たり。或は説法を題にして浮世軽口役者の似言(こはいろ)浄るり本を談義して、後は又文の蓮華札回向袋冥加銭などと仏法を売物とし、或は神を仏にこんじて宮社を天竺流に仕替、番匠の道具も仏菩薩の始給ふとわけもなき事をののしれり。然共仏を直に番匠の祖神と

ならざる故に聖徳太子に取付祖神とは立るなかるべし。実は己が仏法に引こんで米銭をむざぼる謀斗とみへたり。是に妖化(ばか)されし人々いつとなく誤伝へて番匠の祖神も取違へたるなるべし。太子も〇有てかかる非礼を聞給はば嘸(さぞ)めいわくに有つらん。是皆妖僧の癖見也。実の僧は妖怪を談じず金銀むさぼらず。仏意を演(のべ)て人に益有事をしらしむ故に此事を考、聖徳太子番匠の祖神おらざる事を知べし。聖徳太子を番匠の祖神と給ふる事諸書に拠なし。まどへる事あるべからず。


2022年12月31日土曜日

匠家必用記の記述の違い

 

匠家必用記 上巻 二章5ページめの
赤い「 」の部分は以下


(稲)田姫をかい(害)せんとす。素戔嗚尊これをきき給い、たちまちにいつくしみの御心を起し給ひて、其くるしみすくい給はんとほっし、大蛇をたいぢせんことをはかり給ふ。先あしなづち、でなづちをして毒酒を造らしめ大蛇にあたへたまへば、大きにゑいて(酔い)ねぶる(眠る)。そのとき素戔嗚尊たい(帯)し給ふ十握(とつか)の剣をぬひて、大蛇をずだずだにきり給ふ。(此剣を天羽々斬のけんと云。又はおろちのあらませの剣と号(なづ)く。今備前の国赤坂郡石上(いそのかみ)魂神社、又水ふる、又今大和のくに石上のかみやしろにまつるともいえり)。其尾に至りて剣の刃にしかけぬゆへを以て見給ふに、れいゐ成つるぎあり。あまのむら雲の御けんとなづく。

この部分が版本では


こうなっています
この部分だけ手書きのものは
違うことが書かれている
というのは、いったい
どういうことなのでしょうか
上の版本を読み下してみますと
「天皇も二神の子孫を内裏御造宮の工匠と定給ふ也。紀伊国名草郡御木(みき)の郷、麁香(あらか)の郷に二神の子孫有。又、平置帆負命の裔分れて今讃岐の国に有。姓は共に忌部(いんべ)氏也。又、安房(あわ)の国にも忌部有。委事は古語拾意に見へたり。猶、御子孫漫(はびこり)て諸国に忌部氏多かるべし。かくのごとくの人は別て敬ひ貴ずんば有べからず。神代より以来其制法四方に周流し歴年其道を伝へ、今番匠の工所の功は皆此二神の神教也。此故に番匠の祖

2022年12月30日金曜日

匠家必用記 二章 番匠の祖神基本を起給ふ事

 

匠家必用記 上巻 の二章
番匠の祖神基本を起給ふ事
の読み下しを紹介しておきます
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忝(かたじけなく)も神国番匠の祖神其術(みち)の基本を起し給ふ。その本源尋るに天神七代に当りて伊弉諾尊(イザナギノミコト)、伊弉冉尊(イザナミノミコト)おのころ嶋に天降りましまし、天之瓊矛(あまのとほこ・ぬほこ)を以て国中の天柱(みはしら)とし、八尋の殿を化立給ふより此ことおこる。是神代天宮の始也。則此殿にましましてばんもつ(万物)を化生し給ふ。彼国中に御はしらを化立給ふ御神徳によって手置帆屓命(たをきぼらいのみこと)、彦狭知命(ひこさしりのみこと)に神始て番匠のみちの基本を起し、宮殿、屋宅及

諸のきざひを工出し給ひて、天下の至宝となる事挙げて、かぞへかたしかくのことごとの神功有によって、天照大神の上匠とし給ひて、きゅうでんをつくらしめ給ふ也。地神三代天津彦々火瓊瓊杵尊日向の高千穂のみねにあまくだり給いしときも此二神に命(みことのり)してきうでん(宮殿)を造らしむ。又出雲国杵築の大社御建立の始にも此二神を御工匠として宮殿並に船橋にも造りたもう也。是神代の事なれど何万年以前といふ事も計がたし。二神の御子孫次第に繁栄して神代の宮殿は皆此二神又御子孫の造り給ふ所也。人皇の始神武天皇大和国橿原に内裏を御造栄有し時に、二神の御孫を召て永く

其職にきざしたもう。此ゆへに代々の田姫をかいせんとす。素戔嗚尊これをきし給い、たちまちにいつくしみの御心を起し給ひて、其くるしみすくい給はんとほっし、大蛇をたいぢせんことをはかり給ふ。先あしなづちでなづちをして、毒酒を送らしめ大蛇にあたへたまへば、大気にゑいてねぶるそのとき素戔嗚尊たい(帯)し給ふ十握(とつか)の剣をぬひて大蛇をすだすだにきり給ふ。(此剣を天羽々斬のけんと云。又はおろちのあらませの剣と号く。今備前の国赤坂郡石上(いそのかみ)魂神社、又水ふる、又今大和のくに石上のかみやしろにまつるともいえり)。其尾に至りて剣の刃にしかけぬゆへを以て見給ふに、れいゐ成つるぎあり。あまのむら雲の御けんとなつく。神とうやまひ来るなり。又中比異コク(国)より

寺工来、てらしてるを送ることなど定て其人の姓も有べし。然れども日本のしんけいにあらざれば、論するにおよびばず。日本に生まれし人、十が九つかみのマゴナリ。かくのごとくの人はそれぞれの祖神を祭て常にうやまふべし。

印刷版に載せられている図


2022年12月28日水曜日

匠家必用記 上巻から一章の読み下し


匠家必用記 上巻から一章
神国神道並びに両部習合の大意の
読み下しを紹介しておきます
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一 神国神道並びに両部習合の大意 
原(たずぬるに) 夫(それ) 日本は神国にして道は則(すなわち) 神道也。その故は天祖国常立尊(あまつみおやくにとこたちのみこと) を始とし、天神七代地神五代の神々国に統御し給い人皇は神武天皇に始り(地神五代並びに人皇といふ名目は書記に書かれども、しばらく俗習にしたがいこれをしるす)百十七代の今にいたる迄天照大神の皇(すべ)御孫天祚(天日嗣あまつひつぎの意) をしろし召して、神より伝ふる三種の神宝御身の護とならせ給い、皇統万々歳。


天地と共に窮なきは蓋是神国成の験なり。唐天竺にはかかるめでたき例なし。
貴くも又有難ことならずや。此故に日本は万国に勝れて貴きことをしるべし。
かくのごとく日本は神国なれば神の教を神道といへり。神道は人道にて朝暮身にはなれざる道也。日本に生れし人は此教に随て家を斎(ととのへ)身を修べし。君臣、父子、婦夫、兄弟、朋友、の交に正直淳和の神教をほどよくし、誠を常として其家業を勤むる人、これを神道を守るといふ也。かくのごとく道を守る人は神の冥加に叶ひ、必しぜんの福あり。常に相応の楽ありて苦といふことをしらず、且長寿を保て一生を豊にくらし、外より災来たざるは道を守るの徳也。故に神国に生れて此国の貴きことをしらずんば日本に生れたるかひなし。遠き異風の教に

本心を奪われて近き神国の神道たることをしらず、或はじゃよく(邪欲)不義ほうらつ(放埓)にして表里(表裏)をこととし、おのがみ(身)を立てんとて人の難儀をかへりみざる人は必しんるいむつましからず。朋友に遠ざかりつねに心にくるしみたへず。ややもすれば災起て米銭是が為についへ、自貧者となるは神教を守らざる謂也。故に神国に生れたる人第一しるべきことは神道ぞかし。中にも番匠は其職を神より伝へて日々其業を勤む。
豈神国の神道ならざらんや。是を以其職たる人は別て其職の祖神をしらずんば、たとえばおやあって親をしらざるにもまされり。去ほどに中比両部習合といふ神道をつくりて神をぶつぼさつ(仏菩薩)にこんざつ(混雑)し、なにがしの神社はほんぢ、なにのほとけ

などといひくらまし、神社をもてんぢく風にして神をやっこのごとくひくきにおとして神とく失ふことは清水にどろをながすごとく。またばんしゃう(番匠)の祖神をも聖徳太子に仕かへまつるにおいてはぶっきゃう(仏教)をよみ(誦)、ぎょるい(魚類)をきんす(禁ず)。これらみな両部習合者のしよいなるべし。此故番匠たる人も実の祖神をとりうしなひ、あんやにともしひのきへたるがごとし。然(しかる)に中比のらんせい久しく収らず。思ば(ややもすれば)乱ぞくに引ちらされ、或は兵火に煙と成て東西に逃走り安心ならざれ折からは万人是察せざるもことわり也。今の四海波しずかにして太平御代に生れし思出に祖神の祖たる神光をかかげて、神おん(恩)をしゃ(謝)し

奉ることで、はん(番匠)たる人のほんいともいふべけれ。両部習合しゃ(者)へ降参の人々よくこの理を考へ、過を改て神代より定る誠の祖神を敬ひ奉らば、其職繁盛の基本(もとい)たること類ひ有べからず。

2022年12月21日水曜日

匠家必用記 序文 そして描かれた猫

 

まずこの浮世絵
始めて目にした
黒漆で仕上げられた
三味線箱に写る
自分の姿を威嚇する猫
発想が素晴らしい!
狂歌と思われる一句めは
「うつろふる かげにもくるふ 猫柳 目もはるほどに みゆるはつ春」でしょうか
二句めは「兄とのふ(唱ふ) 梅にさひつる(囀る) 鶯の いろね(色音)にまさる(勝る) うたひ女の声」か・・
間違いがありましたら、訂正願います

こちらは先般紹介した
匠家必用記の序文
読み下しをUPしておきます
「匠家必用記自序
薬師仏を以て医の祖神として、菅丞相(菅原道真)を鍛冶の祖神として、藍染を以て染匠(こんや)の祖神とし、布袋和尚を福神とし(する・か?)類皆是俗説の所為なり。所謂日本番匠のそじんも大略これなりと同じふして神徳を失ふ。昔より書に載て神徳仰といへども事委からず。或はその文堅して番匠の童是をみること難し故に

俗説混雑して末に走る人は多く其元にいたる人は万にして一人のみ。僕此職ならねども家業のいとまに神書をけみし折々其御神名の所に至りて御しんとくのかくれ給ることをなげきて終に不得已(やむをえず)して此ことを書す。号(なづけ)て匠家必用記といふ。博識人のみる可(べく)書にあらず。
唯を番匠童をして其理を覚さしめんが為なり。譬(たとえ)ば正誤は宮殿のごとく

書を階梯のごとし。番匠の童職のいとまとに此書をみるに自然と彼宮殿に至り易からんが。始に専番匠の神のこんざつせることを弁じ、次に神代のむかし語を写して番匠の神の神とくをのべ、終に宮造り鳥井(鳥居に)至るまで。そのうへ実を現し又屋造り吉凶の弁を加へて三巻となしぬ。
実に此職たる人の其元を求る一助

とせば少の益もあらんがしと拙き言の葉を筆してばんじやう(番匠) のわらんべ (童) にそなふることしかり。
美ノ作国津山  立石定準 誌
宝暦五 己亥 (つちのと い) 歳 」

これは職人絵に描かれた
番匠図ですが
弟子と思われる子供(童)も
描かれています
江戸時代には寺子屋もあり
子供に読み書きを
教えていたようなので
今回紹介した文字くらいは
読めていたのかもしれません

2022年12月8日木曜日

匠家必用記 下巻

江戸時代宝暦五年(1755年)に
出版された「匠家必用記」
shouka-hitsuyo-ki
上巻中巻・下巻
から下巻を紹介しておきます
作者は美作国
mimasaka-no-kuni
津山(岡山県)の
立石定準(sadanori)