2010年2月22日月曜日

古代の製鉄 その15

下に紹介した画像は、埼玉県にある崎玉(さきたま)稲荷山古墳から出土した鉄剣の一部です。
刀身の裏・表には金象嵌の文字が施されています。この文字列は日本の古墳時代を知る上で
貴重な資料となっていますが、文字とその解釈については様々な説があります。
一般的な解釈こちらのサイトが参考になると思いますので紹介しておきます。
まず、年代の手掛かりとなる「辛亥(しんがい・かのと い)年」ですが、これには西暦471年説と、
その一回り(60年)後の531年説があります。定説となっているのは471年ですが、この説は
鉄剣の銘文にある「獲加多支鹵大王(わかたける だいおう)」が雄略天皇と同一人物であるという説が元となっているものです。この説には異論ももちろん出されていますが、以前、
銅鏡文字解読の際に大きな示唆を受けた歴史言語学者の川崎真治氏の説に目を通してみると、獲加多支鹵=雄略天皇に納得せざるを得ない感があります。
ワカタケルという名は、古事記・日本書紀にも登場します。まず孝霊天皇記に「若建(わかたける)吉備津日子命」、孝霊天皇紀の方には「稚武(わかたける)彦命」。景行天皇記に
「若建吉備津日子」、同じく景行記に「若建王」、景行紀には「稚武王」 と「稚武彦王」。
次に雄略天皇記に「大長谷若建命」、雄略紀には大泊瀬幼武(わかたける)天皇とあります。
タケルという名は前回述べた日本武尊(やまとたけるのみこと)にも含まれていますし、日本武尊(古事記では倭健命)が出雲で討ったとされる出雲武もタケルです。ということはタケルという名には何か特別な意味がありそうです。川崎真治説では古代セム族の習俗で、神に選ばれた王のことだとされていて、この王は頭飾りを冠していたということです。
ということは古代中東の習俗が日本にまで及んでいたということになりますが、川崎説によると、
ワカタケルのワカもそうだということになるのです。



2010年2月21日日曜日

古代の製鉄 その14

前回述べたように、古代播磨国志相郡岩鍋(現在の宍粟市千種町岩野邊(しそうし ちくさちょう いわなべ))に製鉄技術を伝えた金屋子神は、白鷺に乗って出雲国(いずものくに・島根県)に飛び去っていったとされています。ここでおもしろい符合があるのですが、九州から東征していく途中、出雲健(たける)討伐のため出雲へ立ち寄ったことのある日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は、その後、死に際して白鳥になり天に昇ったと日本書紀には記されています。
古事記では八尋白智鳥
(やひろしろちどり)となっていますが、これは白鳥よりもさらに大きなコウノトリではないかという説もあります。ところが、日本武尊が祭られている神社に白鷺神社というのがあるのです。この神社は栃木県にありますが、神社の由緒によると、神託により建てられたもののようですから、出雲とは直接的には関係はなさそうです。しかし、何故白鳥ではなく白鷺という神社名になったのでしょうか。
一方、出雲国(島根県)には弥栄神社(やえさか)という神社があり、ここでは鷺舞という神事が行われています(参照)。





2010年2月6日土曜日

藤田嗣治

先日、神戸大丸ミュージアムで行われている
藤田嗣治(つぐはる)に足を運びました
藤田嗣治の絵は、若い頃から淡い憧憬の思いで
見つめてきました
自伝を読んで何故藤田の絵が
日本での評価が高くないのかということも知りました

フランスで人気を博した藤田の日本的な繊細な線
日本人のこの繊細さはときに姑息さに変貌します
その姑息さに藤田は我慢がならなかった
若い頃に日本の画壇に嫌気が差し
戦後の戦争責任のなすり合いに嫌気が差した

藤田の絵に(とくにデッサン)私は
壮大さと力強さを感じます
これは天平時代から鎌倉時代の建造物に
感じるものと同じなのです
日本人が本来持っていたものです
あの壮大な木造建造物を建てた宮大工と
同じ修練を藤田は絵で行っていたと思うのです
藤田はかなりの早描きだったということですが
その修練は、画家として当然のことを
毎日やっているだけだとサラリと自伝に書かれています




2010年2月1日月曜日

目〆伊予砥

伊予砥という天然砥石の中砥(仕上げ砥石の前に使う砥石)は
HPの砥石関連ページでも紹介しましたが
下の写真の砥石は伊予砥のなかでも「目〆(めしめ)」と
云われているものです
伊予砥は一時採掘が中断していましたが
最近また掘り始められています
それがネット販売もされているので
先日、さざれ銘砥から購入しました


天然中砥の代表的砥石である青砥は
よく反応しますが、その反応は均一的です
伊予砥のなかにもそれと同様の
反応をするものもありますが
目〆伊予砥は最初の取っ掛かりが鈍く
刃物によっては全く反応してくれません
ところが、この砥石の表面をダイヤモンド砥石や
同じ伊予砥の破片などで磨り
砥汁を出してから研ぎ始めると
よく反応してくれ、その後の研ぎ心地が
刃物によって微妙に変化していくのです
それは、正に砥石の表面が締まっていく感じで
目〆という表現がピッタリなのです
上の写真右はノミを研いだ研ぎ汁です



このように、中砥とは思えない仕上がりで
研ぐときの力加減と水の加減で
様々に反応しれくれるのです
また、傷が浅いので仕上げも大変楽です



こちらは玉鋼の鉋を研いだものです
これは砥石の面磨りをしていませんが
よく反応しました




この前の段階の砥石は
シャプトン・刃の黒幕#1000で研いだものです
その深い傷を短時間でここまで消すことができるのです


2010年1月26日火曜日

古代の製鉄 その13

前回、羽衣伝説と白鳥について述べましたが、この白鳥は「はくちょう」ではなく「しらとり」で、鳥の種類を云うのではなく、白い鳥全般を指しているものです。ですから、それはサギやツルでもあり、文字どうりハクチョウでもある得ることになります。真白ではありませんがコウノトリも含まれるかもしれません。
それを裏付けるように、例えば、製鉄技術に関した文献に「鉄山必要記事」というものがあるのですが、この中で金屋子神(かなやごのかみ)の由来が述べられています。そこでは、播磨国志相郡岩鍋(現在の宍粟市千種町岩野邊)にある桂(かつら)の木に、高天原(たかまがはら)より神が降り、人々が驚いて「如何なる神ぞ」と問うと、神託で、「我は是れ、作金者金屋子の神なり」と答え、その地に製鉄技術を伝えます。その後、「我は西の方を守る神なれば、むべ住むところあらん」と云って、白鷺に乗り西の国、 出雲国野義郡黒田の奥非田という所に移ったということが述べられています。ところが、地元千種の言い伝えでは、白鷺ではなく鶴に乗って去っていったとなっているのです。