さゞれ銘砥さんから
切り跡の付いた砥石の画像を
提供頂きましたので
「砥石を切る」を再掲します
天然砥石は中砥にしろ
仕上砥にしろ
風化した石なので
硬いものではありませんが
いざ切るとなると
一筋縄ではいきません
私はディスク状の
ダイヤモンドカッターで
切っていますが
それでも硬めの仕上砥は
なかなか大変です
これは仕上砥石ですが
側にはカットされた跡が見えます
これは円盤状の鋸のようですが
円弧が直線的なので
鋸の径はかなり大きそうです
この電動の丸鋸を使って
砥石の加工が為されるように
なったのは昭和の戦後からで
それ以前は手挽きの鋸が
使われていたそうです
これは手挽きの鋸で切られた
仕上砥です
これは江戸時代の
硯(すずり)職人の図ですが
砥石もこのような鋸で切られていたということです
硯にされる石は粘板岩ですから
砥石と同様の硬さのもので
硬度は3~4です
焼きが入った鋼はがねは
焼きが入った鋼はがねは
硬度は6ほどですから
鋼で砥石を削ったり
鋼で砥石を削ったり
切ったりという加工はできる
ということになります
これが翡翠など
これが翡翠など
硬度7以上の石になると
鋼の鋸では切ることが
鋼の鋸では切ることが
できません(参照)
上の図を見ると
上の図を見ると
鋸の形状から推察して
鋸の刃は切るというよりも
鋸の刃は切るというよりも
弾力で石を削り飛ばして
溝を付けていくという
感じがします
そういえば私の砥石の師匠の
そういえば私の砥石の師匠の
ところの電動丸鋸は
刃は前挽き大鋸(おが)のように
大きく粗く、回転がゆっくりで
ガツ ガツ ガツと
砥石を切るというよりも
砥石を切るというよりも
削り飛ばすという感じで切って
いたのを思い出しました
父にあたる16代目親方による
良くなっているようですが
さざれ銘砥さんでは
この挽き跡を実現するために
鋸の刃に工夫をされている
この挽き跡を実現するために
鋸の刃に工夫をされている
挽き跡がなめらかで
側の層がよく確認できます
日頃、何気なく砥石を
側の層がよく確認できます
日頃、何気なく砥石を
使っていますが
陰ではこのように様々な工夫と
苦労が為されていることを思うと
砥石に恥じない仕事をしなければ
陰ではこのように様々な工夫と
苦労が為されていることを思うと
砥石に恥じない仕事をしなければ
と身が引き締まるのです
以下、さざれ銘砥さんの説明
(文責はブログ管理人である
田中清人にあります)
昔は鍛冶屋のレース台に収まるくらいの尺から尺五程度のGC製の丸鋸で、屋根の上に大樽を置いて水を落としながら泥んこになりながら挽いていたと聞きます。
水間府から小屋の屋根まで12mはありまして、水を溜めるために難儀したそうです。17代親方が小学生高学年のころ、樽の栓をし忘れてお父さんの16代長寿氏にポコポコに叩かれたとおっしゃっておりました。
因みに、17代親方は今年76歳になり、オバQにとても似ています。この一言に尽きます。自分でも「オバQみたいなおっさんがよぉ・・」とおっしゃってます。今は腰の骨を折って歩くのがやっとで元気ありません。一言で言うと、映画になってもいいころあいのハチャメチャ破天荒人生の方ですね。たしか道具曼荼羅にどっかんと載っています。
現在の挽き場から尾根を挟んで向こうに住んでいらっしゃいます。槌で矢を叩いているのが聞こえるくらい近いそうです。遠回りになりますが、まともな舗装の道を歩いて行っても5分かからぬくらいなので、たまに、いい石や、鍛えのやり方の正解不正解を採点いただきに寄ります。
上の石を切ったのは、親方の父親で長寿さまです。たしか、昭和43年没です。16代目になります。そのまた父に当たるおじいさんは常二郎さまで昭和12年くらい没です。六尺(1m80cm)をゆうに超える方で、お相撲のスカウトがよく来たそうです。
長寿様の弟に、奥殿や菖蒲谷高山・菖蒲長四郎・木津山で有名な「うしのすけ様」が砥石の家督を継ぎ、菖蒲砥石銘でとても有名であると思います。
その息子さんが健寿さまで、引退は昭和でしたが、ついこの間お亡くなりになりました。今はそのまた子供の代になりますが、皆さん床屋だったり大工だったりと違う職で、よく山に遊びに来てくれます。
GC挽きはとても石の層理が美しく確認できるので、よかったのですが、コスト高になるので、工場が向ノ地町から高鼻町に移動したときにはもうやめになってたそうで、実働期間は5年あるなしとか。高鼻町は最後に露天ブルで引っかいた中山のところを山越え通りはさんで南側の農地にあった工場になります。
畑中資本一本になる前の、値の張るクラスの中山には、全鋼挽きの後に、わざわざ磨いてつるつるにした石があります。たしか、丹波の檜山資本での加工の石などで、よく見かけました。
写真の赤い「よろいの石」は、だめな砥石の見本です。
こういう「よろい石」を安く買ってきて、これに色つきのカシューを塗り、値段を変身させて・・という・・業者さんもあります・・
高山は鉱脈が愛宕系統になり、一級落ちますが、良く中山に変身していますね。
「画像の挽きかけ原石は、16代親方が伊予の挽き機械の技術を買い、大きなGC(グリーン・カーボランダム)で挽いたものです。黄色のむしろ肌でよく肥えた硬質で見事です。何馬力かはわかりませんが、動力を据えていた基礎も馬鹿でかかったです。このあと全鋼鋸に、次ぎチップ鋸になりました。GCは層理がよく確認できたので好評でしたが、手間や採算的に埒が明かなくなって、今の挽き方に至ります。現在のものは十六代GCにできるだけ似るようにあつらえてもらったものです。それで、写真にあるような「よろい石」の層理が良く見えます。
GCとは金剛砥石やグラインダーに使われているもので、炭化珪素という硬度9から9.5の研磨剤の砥石です。廉価でかつ硬いのでちびなくていいのですが、炭素が半分ですので、鉄の研磨において鉄側に炭素が吸い取られ、ぶよぶよなものに化学変化しますので 研磨剤の角がちびやすくなります。それで黒い砥石(硬い砥石)は、滑る感がして発熱も多くなります。焼入れ前の刃物の力押し研磨に使われることが多いですが、砥石が相手だと、炭素云々は関係ないと思います。
WAはやや高価で、酸化アルミなので鉄と影響し合いませんから、よく削れて刃物の研磨では熱も持ちにくくとてもいいのですが、硬さは劣るので減 りが早いです。
昔は鍛冶屋のレース台に収まるくらいの尺から尺五程度のGC製の丸鋸で、屋根の上に大樽を置いて水を落としながら泥んこになりながら挽いていたと聞きます。
水間府から小屋の屋根まで12mはありまして、水を溜めるために難儀したそうです。17代親方が小学生高学年のころ、樽の栓をし忘れてお父さんの16代長寿氏にポコポコに叩かれたとおっしゃっておりました。
当時、伊予(愛媛県)の方が機械化は先進で、伊予砥採掘の関係者がマシンの特許を持っており、ここから買うことになったようです。伊予の場合は2~3尺の大きな丸鋸で挽き、昭和後期の終わりまで全鋼鋸式でした。
因みに、17代親方は今年76歳になり、オバQにとても似ています。この一言に尽きます。自分でも「オバQみたいなおっさんがよぉ・・」とおっしゃってます。今は腰の骨を折って歩くのがやっとで元気ありません。一言で言うと、映画になってもいいころあいのハチャメチャ破天荒人生の方ですね。たしか道具曼荼羅にどっかんと載っています。
現在の挽き場から尾根を挟んで向こうに住んでいらっしゃいます。槌で矢を叩いているのが聞こえるくらい近いそうです。遠回りになりますが、まともな舗装の道を歩いて行っても5分かからぬくらいなので、たまに、いい石や、鍛えのやり方の正解不正解を採点いただきに寄ります。
上の石を切ったのは、親方の父親で長寿さまです。たしか、昭和43年没です。16代目になります。そのまた父に当たるおじいさんは常二郎さまで昭和12年くらい没です。六尺(1m80cm)をゆうに超える方で、お相撲のスカウトがよく来たそうです。
長寿様の弟に、奥殿や菖蒲谷高山・菖蒲長四郎・木津山で有名な「うしのすけ様」が砥石の家督を継ぎ、菖蒲砥石銘でとても有名であると思います。
その息子さんが健寿さまで、引退は昭和でしたが、ついこの間お亡くなりになりました。今はそのまた子供の代になりますが、皆さん床屋だったり大工だったりと違う職で、よく山に遊びに来てくれます。
GC挽きはとても石の層理が美しく確認できるので、よかったのですが、コスト高になるので、工場が向ノ地町から高鼻町に移動したときにはもうやめになってたそうで、実働期間は5年あるなしとか。高鼻町は最後に露天ブルで引っかいた中山のところを山越え通りはさんで南側の農地にあった工場になります。
畑中資本一本になる前の、値の張るクラスの中山には、全鋼挽きの後に、わざわざ磨いてつるつるにした石があります。たしか、丹波の檜山資本での加工の石などで、よく見かけました。
写真の赤い「よろいの石」は、だめな砥石の見本です。
こういう「よろい石」を安く買ってきて、これに色つきのカシューを塗り、値段を変身させて・・という・・業者さんもあります・・
高山は鉱脈が愛宕系統になり、一級落ちますが、良く中山に変身していますね。
2 件のコメント:
さざれ銘砥さんには感謝ですね。
頑張っていただいているおかげで天然砥石を系統立ててそろえることができます。
特に中山などは気軽に手を出せるものでなかったものがいろいろと試せます。
ありがたいかぎりです。
さざれ銘砥の中岡さんには
これまで砥石のことだけではなく、様々なことを教えてもらいました。
本当にありがたいことです。
私は師として仰いでいます。
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