2011年2月9日水曜日

夏屋砥とアルカンサス砥石

You Tube にUPした動画の画像です

これが夏屋砥、明治時代まで岩手県の
夏屋村で採掘されていた中砥
昔は刀剣研磨にも用いられていたということです
今ではほとんど手に入れることはできません

硬めですが良く反応し
強い研磨力があります


これはハイス鋼の寸四鉋身 
粒度は800番といった感じですが
研ぎ傷が浅いので、次の研ぎが楽に行えます

 これは仕上砥の京都新田産巣板
硬めですが良く反応し
強い研磨力があります
ハイス鋼ではなく一般的な鋼でしたら
ほぼ鏡面近くまで仕上げることができます
小振りで、砥石目が横(横桟)に
なっているので
砥石としての商品価値は低いのですが
数ある手持ちの仕上砥の中では
研磨力はトップクラスです



これは京都梅ケ畑中山産の戸前
たいへん硬いにもかかわらす
良く反応し、強い研磨力があります
通常の鉋身でしたら
鋼は鏡面に仕上がり
地鉄(じがね)の肌が
深くはっきとりと現れます


ハイス鋼はこのように
全体にやや曇った感じになりますが
しっとりと冴えて
美しく研ぎ上がります

そしてこれがアルカンサス砥石です
これはアメリカ アーカンソー州で
採掘されたものだということですが
今では僅かしか採れないようです
これは10年ほど前に
理髪店の方から頂いたものです
本来は油研ぎをするものですが
水研ぎもできます

一般の刃物であれば
ピカピカの鏡面に仕上がるのですが
ハイス鋼の鉋身はこんな感じです
クロムメッキのような印象を受けます
前段階の中山産戸前にくらべ
底光りする感じはなく、表面的な艶です
この鉋を使った
黒檀削りの動画(You Tube)

2011年2月8日火曜日

製作中のギター ネックとボディ

画像は数日前の状態ですが
昨日ネックとボディを接着しました

 右が特注ミルク-ル・タイプ(弦長630mm)
左は特注ラコート・タイプ(弦長630mm)


2011年2月6日日曜日

平田家文書 その5

鍛冶仲間から鍛冶仲間の年寄職である
丸一屋右衛門(平田家)出された願書は
印札(現在の登録商標のようなもの)に関する
ことが主なものです
それを紹介しようと思います

これは農具鍛冶職人の主が
亡くなった後の印札に関するものです
これは天明三年(1783年)十月に出されたものです

今回は現代語風に訳してみます

「願い奉る口上書」

私の親にあたる太郎兵衛は
岡崎村で鍛冶職を行っておりましたが
昨年の秋に亡くなったため
印札をお返し致しました

そういった事情がございましたが、この度
鍛冶職人としてうだつが上がらない私が
養子になり、先代の跡を継ぐことに相なりました
そのため、新しく印札を頂きたく
お願い申しあげる次第でございます

付きましては、鍛冶職組合の規定に
違反しないように約束致します
貸し印札や譲り印札を紛失したりという
失態も犯さないことを誓約申し上げます
もし誓約を破るようなことがありましたら
決まりのとうり、印札を取り上げ下さり
職分を差し止め頂いて結構です
その折には何の不服も申しません。 以上。





こちらは、鍵屋の弥助という22歳の弟子が
年季(弟子として奉公する期限)明けないうちに
不埒を行い、親方から職止め処分に
された際の届け出です
時は文化二年(1805年)八月

「鍛冶職止めの事」

右、弥助と申す者、年季が明けない内に
不埒を行ったため、親方の仕平次が
意見をするも弥助は聞き入れず
不埒が重なったため、この度
仕平次より職止めの申し出がありました
致し方なく鍛冶仲間の皆さまへ
お頼り申し入れる次第でございます
以後、右の弥助がどこへ参りましても
弟子にしないようにお願い申し上げます
日雇、庭貸しなども御無用でございます。


2011年2月5日土曜日

平田家文書 その4

HPの「京都伏見の鋸鍛冶について
で紹介しているように
江戸時代になって刀剣の重要が減少したため
他の鍛冶職に転向をした刀工も多かったようです
おそらく平田家もそうだったと思われるのは
文書の端々に、平田家が
二条城の御用鍛冶を務めていることを
したためていることからも想像できます

平田家文書は万治三年(1660年)から
確認できるので、おそらく江戸時代になって
二条城が築城された時から
御用鍛冶を務めていたものと思われます
そういった事が書かれた文を
紹介しようと思いますが
この「一札」は前回紹介した文書と同様の
農具鍛冶組合の商売の妨げを
再び行わないという念書です
文政元年(1818年)九月二十四日のもので
新田村の大工 籐兵衛と保証人の
新田村の庄屋七兵衛から出されたもの


「一札」

鍛冶御仲間については、往古より
二条御城中の御用御勤めなられ候
御仲間の御定法(取り決め)相成り候
素人ども売買致しまじく旨(してはならないこと)
御公儀様(幕府)より御触れ流しこれあり
以後、我等心得違い仕り候て
田舎より釘・金物を買い取り
その上得意先へ売りさばき
はなはだ不埒(ふらち・良くないこと)仕り候につき
御出訴におよび、ご理解なり下さり
御差し止めさせられ、恐れ入りなり奉り候

以後は、釘・鉄物・針金等に至るまで
きっと売買致し申しまじく候(いたしません)
もし受け負い共にて請け仕りそうらはば
諸事鉄物類を田舎より買い取り相用い申さず
御仲間内にて買い取り申すべく候
(と言い伝えます)
万一前文に相違御座そうらはば
何時にても思召(おぼしめし)なり下さり候ても
その時一言の子細毛頭申しまじく候
(一言も言い訳をいたしません)
後日のために一札依件(くだん)のごとし






もう一点紹介しておきます
これは天明三年(1783年)五月に
出されたものです

「一札の事」

私、無印札(無許可)にて農具鍛冶職として
渡世仕り候ところ、去る卯年の十月
南山城一統(京都南部一帯の意か)に御印札
御渡しなされ候ところ、私勝手に付き
鍛冶職相止め申したく候につき
一札に則り(のっとり)仕り、お断り申し上げ奉り候

然るところ、今年の春より少しづつ
農具細工仕り、不届けの段誤り奉り候
これによりて、以後鍛冶職、直し物等にても
堅く仕り申しまじく候(いたしません)
もし右の趣、相違仕りそうらはば
いかようにも仰せ付けられ下さるべく候
その時一言のお詫び仕りまじく候
(どのような言い訳もいたしません)
後日のために仍て件のごとし。

2011年2月4日金曜日

平田家文書 その3

津山藩(岡山県)の藩工である
刀工多田金利の文化六年(1809年)
の日記によると、依頼があれば
刀以外の金物も打ち、修理も
行っていたことが分かります

日記には、「燭台(ロウソク立て)拾六(16点)」 
「心切り(ロウソクの芯を切るハサミ)七つ」
「手燭六つ」 「かすがい七つ」 「環(金輪)七振り」
「懸金(掛け金具)百十」 「秤 弐百十(210点)
「細工小刀 九」 「きり小刀 五」 「斧 壱(1丁)
「火ばし 三拾五」 「上火ばし 九」 「打釘 五十」
などなど、その品は多種に亘っています

さて、その2で紹介したような
職の妨害に対する訴えの
嘆願書は7点ほどありますが
もう一点紹介しておきます

これは天明三年(1783年)
当時、農具鍛冶の東寺組合の年寄職をしていた
丸一屋伊右衛門を含め(丸一屋は平田家の屋号)
三名の連名による嘆願書で
触頭の清水平兵衛を通じて奉行所に
出されたものです


「恐れながら願い奉る口上書き」

城州(山城国・京都)乙訓郡馬場村鍛冶藤兵衛
右の者(藤兵衛)は藤蔵の義理の子

摂州(摂津国・大阪)嶋上郡広瀬村の鍛冶
伝九郎と申す者、宝暦十一年巳年(1761年)
三月二十三日、山崎岩川上に住居仕り
印札なしにて農具鍛冶職いたし
仲間の職分を相妨げ候につき
御差し止めの儀を願い上げ奉り候ところ
同晦日(みそか・30日)に召し出され、願いのとうり
職分を御差し止め仰せ渡され則し候
請書差し上げ奉り候

然るところ、その後摂州広瀬村へ
罷り越し(場所を移し)、また御当地へ入り込み
仲間の得意先をせり取りに相廻り候につき
その節仲間より応対に及び候えども相聞き申さず
再び応じ、掛け合い候の上、先年私どもの仲間
鳥羽屋小兵衛に親方籐兵衛を以って
段々相詫び候ゆえ、別途一札これを取り
下にて相済み申し候

然るところ、またまた御当地へ入り込み
西岡村々へ農具細工受け取りに相廻り候
職分相妨げ候につき、伝九郎幷(ならびに)
証人親方である馬場村の籐兵衛へも掛け合い
先の取り置き候一札の趣を以って
応対候えども、一向取り致し申さず候
籐兵衛による証判が仕り罷り(まかり・謙譲語)あり
その上、伝九郎と弟子のことにて
籐兵衛の取り計らい方も之有るべき旨(むね)
この度段々罷り申し入れ下され候へども
別紙の一札、相定め罷りありながら
御構堂仲間一同、難儀仕り候ゆえに
御慈悲の上、籐兵衛を召し出され
吟味の上、一札通り相守り為し候様
仰せ付けなされ候て有難く存じ奉るべく候
右のとうり願い上げ奉り候ゆえ
御役所様へ宜しく仰せ上げられ
たびたび恐れながら願い奉り候。